第52話 初めてのこと



 朝、寝坊しかけた陽一は、母親に叩き起こされて大慌てで学校へ行った。

 授業中も欠伸が止まらない。

 昼休み、弁当を食べて、机にうつぶせになった。

 まさか、今日も佐野に引っ張りまわされるんじゃないだろうな、と頭を抱えていると、陽一のそばへ森口七海がやって来た。


「笹岡くん」

「ん?」


 顔を上げると、何か言いたげな顔の森口がいて、陽一は眉をひそめた。


「何?」

「放課後、覚えているよね」

「あっ」

「保健委員の仕事、手伝ってね」

「ああ……」


 そうだった。昨日の続きがあったのだ。


「今日はトイレの備品の補充だからね」

「分かった……」


 トイレットペーパーとか、アルコールとか石鹸だっけ。あぶね、忘れるところだったと思っていると、クラスメートの女子が教室の入口から陽一の名前を呼んだ。

 陽一と森口が顔を向けると、入口には、陽一を呼んだクラスメートと見たこともない女子生徒がいた。

 訝しく思ってそちらへ行くと、クラスメートは離れ、見知らぬ女子生徒はうつむいて、もじもじしている。


「えっと、ごめん。誰かな……?」


 わりと可愛い子だ。陽一を見ると、頬を染めた。


「あの……少しいいですか?」

「いいけど……」


 面食らったが、わけも分からず女子生徒について行った。


「あのさ……どこに行くの?」


 聞いてみたが答えない。不安になりながら女子生徒の後ろを歩く。少女は時々振り向いて陽一がついてきていることを確認し、人気のないところへ歩いて行った。

 学校の校舎の裏は日陰になっており、木枯らしが吹いてものすごく寒かった。


「あ、あのさ、寒くない?」


 歯をガタガタいわせて言うと、女子生徒は小さい声で言った。


「あ、あの……ずっと前から好きだったんです」

「は?」


 今、何を言われたんだろう。好き? 俺を好き?

 陽一はパニックになりそうになって、一歩、後ずさりした。穴のあくほど少女を見つめる。冗談を言っている様子ではなかった。


「う、嘘っ? 俺を?」


 思わず自分を指さす。

 口を押さえて驚く。しかし、すぐに晶のことを思い浮かべた。


「あっ、ご、ごめん、俺、彼女いるんだけど」

「えっ? ほ、本当ですか?」

「う、うん。ごめんな」


 少女は、唇を噛みしめると目を潤ませた。


「い、いいんです。伝えたかっただけなんです……」


 そう言うと、女子生徒はどこかへ走って行ってしまった。残された陽一は呆けたようにその場に立っていたが、寒さにぶるるっと体を震わせた。

 急いで校舎に戻る。しかし、頭の中は少女の告白の言葉であふれていた。


 ――ずっと前から好きだった。


 信じられない。晶の存在がいなければ、もう、舞い上がって大喜びしていたかもしれない。けれど、今は喜ぶ気持ちよりも、晶の存在をもっと感じたいという欲求の方が強かった。


 晶の顔が見たい。

 少女が悲しそうな顔で去って行ったのを思い出すと、気持ちがしぼんでいった。

 俺も、好きな人に同じように断られたらへこむだろうな。


 なんとなく後味の悪い気持ちで教室へ入った。同時に、休み時間の終わるチャイムが鳴り響いた。



 眠気と戦いながら六時間目の授業も終わり、ホームルームも終わった。 

 かばんに教科書を詰める。さて、次は備品の補充だな、と顔を上げると森口がそばに立っていた。


「わ、忘れてないからっ」

「分かってるよ……」


 森口が面食らって呟いた。


 陽一が、倉庫の鍵を職員室に借りに行っている間、森口は倉庫の前で待っていた。戻った時、森口は何だか元気がなさそうに見えた。


「風邪でも引いた?」

「え? どうして?」

「いや、元気がなさそうだから」

「そんなことないけど……。大丈夫、ありがとう」


 なぜか、森口ははにかんだ笑みを返した。それから、笑顔が戻った森口と倉庫から備品をキャリーカートに乗せて、女子と男子に分かれて補充していった。

 終わった時、だいぶ薄暗かったので、昨日と同じように森口を家の近くまで送ってあげた。

 その後すぐ佐野が待っていると思い、赤猪子の社まで急いだ。


 佐野はこの寒いさなかえんがわに胡坐をかいて座っていた。陽一を見ると、ふてくされた顔がますます険しくなる。

 陽一は縁側まで走って行った。


「遅いっ」


 顔を合わすなり佐野が大声を出した。陽一は耳を押さえた。


「あのねっ、俺にだって用事があるんです。今日は保健委員会の仕事があったの」

「保健委員会?」


 佐野が顔をしかめた。絶対理解できないと思う。

 説明するのも面倒くさいので、赤猪子はいるのか、と話を逸らした。佐野は何か言いたげな顔で陽一を睨んだが、首を振った。


「そっか。まだ、月にいるんだ」

「陽一くん、もう一度俺の体に入って女を探しに行くぞ」


 お腹は空いていないのかな、と思ったが黙っておいた。少しでも早く家に帰りたい。


「分かりましたよっ」


 やけくそに言って、佐野の胸に手を当てた。昨日の要領で佐野の中に入り込む。今度は自分の意思で肉体に入りこめた。どさっと音を立てて自分の体が横たわる。

 陽一は、体が冷えないかな、と心配になった。すると、佐野が陽一の体を軽々と抱き上げて、寝室のある部屋へ連れて行った。以前、寝たことのある部屋だった。


「ここなら安全だろう。結界も張っておこう」


 佐野が、五本の指先を合わせて楕円形を作った。そのまま両腕を広げると、半透明の結界ができて、陽一の眠っている部屋一面を取り囲んだ。


 ――すげ……。


 結界の作り方を初めて見た。


――どうやったんですか?


 聞くと、祝詞のりとを唱えるんだ、と佐野が答えた。


 ――祝詞?

「自然と頭に浮かんでくる。今度やってみるといい。さあ、そんなことよりっ」


 佐野が吠えた。


「いざ、行くぞっ」


 大きく飛び上がったかと思うと、昨日よりも倍のスピードで街へ飛んでいく。


 だから、人に見られたら面倒だから……。


 陽一は、佐野の中でため息をついた。

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