第50話 時間の感覚




 月では時間の感覚が地上とは大きく異なっている。

 比較的ゆったりとした時間を月の住人たちは過ごしており、自分の屋敷へ戻って来た和記は、ぼんやりと空を眺めてはため息をついた。


「和記さま、見てください。文が届いております。こちらなんか、とてもいいお香の匂い」


 文には焚いた香と一緒に花が届いていた。

 今までの和記であれば、目をうるませて大切に読んでいたが、最近は心が揺れ動かない。


 以前なら、月の男たちが自分の事を想って文を寄こすことに優越感を持っていたが、晶の話を聞いているうちに、恋とはいかがなものか、と考えるようになった。


 恋をしたことのない和記にとって、地上から戻って来た晶は、どこの姫よりも気高く凛としていた。しかも、愛し合っているおのこまでいる。

 晶は、一人の男一筋に生きてきて、全てを投げ出そうとしているのだ。晶ほど、力と恵まれた地位の女性はいないのに。


 陽一とは、どんな男だろう。

 ふと、言葉を漏らすと、葵がそっとそばに寄って来た。


「和記さま」

「なあに?」

「わたくしが行って参りましょうか」

「え?」

「行くってどこへ参られるの?」

「地球です。陽一殿をこの目で確かめて参りますわ」

「まあ……」


 葵は何を言っているのか。和記はおろおろした。


「ダ、ダメよ、そんなことを言っては」

「大丈夫です」


 葵は屈託なく言って、和記の手を取った。


「和記さまがこんなに苦しんでいるのに、何もしないなんて、何のための付き人でしょうか」


 葵の目は輝いている。

 和記は手を合わせた。本当に、そんな事が可能なのだろうか。


「舞さまが地球へ下りることができたのです。舞さま以上の力を得ているわたくしであれば可能でございます」

「でも、どうやって許可を得るの?」

「それはなんとか致しますわ」


 和記は葵の行動力に驚いてしまった。こんな可愛い顔をしているのに、どこから力が湧いて出るのだろう。


「本当に頼んでいいの?」

「もちろんです」


 葵が、和記の手をぎゅっと握りしめる。この繊細な指先からほとばしる力を感じたのは初めてのことであった。

 それから和記は、葵の提案を聞いてから少し安らいだ表情で床に就いた。


 自分の屋敷へ下がった葵は自分が言いだした事に驚きながらも、地球へ遊びに行ける喜びで、どうしても笑顔を隠せなかった。


 一度でいいから、地球へ行ってみたかった。


 文学好きのこの少女は、様々な書物に目を通しながら、想像力をたくましくさせ、いろんな体験をしてみたいとずっと考えていた。


 陽一殿とはどのような人なのだろう。

 あの、晶さまが夢中になるようなお方なのだから、この月にいるどの殿方よりもきっと素晴らしい人に違いない。


 月の住人が地球へ行くのは自由だ。

 月の住人にとって地球は巨大なテーマパークである。

 永遠に生きることができる月の者にとって、艱難かんなん辛苦しんくなど経験したこともない。


 永遠に生きられる月の者たちはのんびりと平和に一生を過ごせるが、地球へ旅行に行ってみたいと思う者もいた。


 葵は早速、地球へ遊びに行くという届け出をしたためた。

 明日、家臣に届け出を出すように頼むことにしよう。と、そこまで考えてから、陽一殿は地上のどこにいるのだろう、とふと気が付いた。


 細い指で唇をなぞりながら思案する。

 ただ地球へ行くだけでは、葵の力を持ってしても不可能だ。葵は、頭を悩ませながら、信頼できる女性に頼む事を思いついた。


 あの方ならば、何かよい案を考えて下さるだろう。

 そう思いつくと、全てがうまくゆくような気がしてきた。

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