第6話:てめぇに興味はねぇよ

「き、貴様…!そのそしりを取り消せ!我が両角もろずみ一刀流を愚弄するか!」


「謗りってのは、片角かたずみ一刀流のことか?はっ。それだったら仙台藩だけじゃなくて、すでに日本全土がそう言ってるぜ。この浮世離れした俺ですら耳にするほどにな」


 辰風は、外套をひるがえしながら、背から伸びた革と大剣を結ぶ。そして重厚な金属音を鳴らして背負いながら、


「てめぇらだって、知っているだろ」


 そう言って鋭い視線で、辺りをぐるりと見回す。民草だけではなく、雨乱と同様の青翠色の羽織を纏った集団ですら、目線を合わせなかった。逃げるように泳ぐ視線が、すでに言葉無き返答だった。


 無言の海の中で、当の本人ですら視線が漂っていた。地面に片膝を着いたまま、視線が地面へと落ちる。切れ長の目尻が弱々しくなっていた。


「…その様子だと、自覚はあるようだな。両角一刀流の師範代さんよ」


 雨乱は、下唇を噛んだままうつむく。日本全土に名を馳せた剣術の師範とは思えない小さな背中だった。


「……ろせ」


 雨乱が、おもむろに呟く。蚊が鳴くほどの囁き声である。

 辰風は、見下ろすように見つめたまま「聞こえねぇよ」と冷たく吐き捨てた。異様な沈黙が辺りに流れる。ずず、と瑠璃猫が茶を啜る音が、小さく鳴った。


「…殺せ、と申しておる!!!」


 沈黙を破るように声を荒げて、顔を上げた雨乱の表情は迫真だった。眼は血走り、覚悟を決意した鬼気迫る口調で続ける。


「殺せ!6代目両角一刀流師範代の剣術は、ここに敗北を契した!峰打ちという情けの敗北の噂は、瞬く間に広がるであろう。せめて黒鉄毒蛾くろがねどくがなる人外の首を取って、名誉挽回を図ったが…ふっ。所詮は付け焼刃でござる。其方そなたの言う通り、拙者の剣は眼先の名誉に眩んだ血の剣。すでに錆びて、両角もろずみの角も無惨に折れておったわ。片角かたずみ一刀流の蔑如は、拙者に相応しい汚名やも知れぬ……」


「だから俺に殺せって言うのか?」


「左様。拙者は武士の中の武士でござる。その不名誉を抱いたまま、生き恥を晒すなど、耐えられぬ。大剣と言えど、其方も剣を携える者。なれば理解が出来るであろう」


 そして雨乱は、介錯を求めるように、首を下げた。辰風は、冷めた視線を送ると、


「……下らねぇ」


 一蹴して吐き捨てる。そしてひどく冷めた口調で、闊歩し始めた。しかし足音は、雨乱から徐々に離れて、瑠璃猫へと向かっていった。

 相変わらず状況に似合わず地面に座ったまま、湯呑に口付ける彼女の側に来ると、「行くぞ」と一言投げかかる。吸い込まれそうな深紅の瞳は、頷くこともなく、ゆっくりと湯呑を地面に置く。


 雨乱、武史郎を含めたすべての者が、2人に視線を向けていた。辰風は、そんな視線を物ともせず、再度「下らねぇんだよ」と漏らす。


「てめぇは、どこまで堕ちれば気が済むんだ。それに勘違いするなよ。俺は武士道を説いたり、説教がしたくて剣を振るんじゃねぇ」


 ごお、と風が吹く。

 辰風の外套と瑠璃猫の足首まで伸びた白銀の頭髪が揺れた。大剣の重厚な刀身と頭髪が合わさって、銀の後光が差すようだ。


 何気ない光景かもしれないが、雨乱にとっては、眼を細めるほどの輝きに映った。


「俺らの目的は、黒鉄毒蛾というはなを狩ることだ。俺が命を賭して、剣を振るのは、はなと戦う時だけだ」


「は、はな…?なんだそれは」


 はなという聞き慣れない単語に、疑問符が浮かぶ。思わず顔を上げると、2人の眼は底なし沼ように冷たく、澱んだ視線を送っていた。身震いするほどの殺意に染まった眼だった。


「てめぇのために忠告しておく。はなも知らねぇ癖に、安易に黒鉄毒蛾に首を突っ込むんじゃねぇ。名誉挽回で容易く狩れるほど、はなは甘くはない」


 辰風の肌に散ばった生傷が、やけに説得力を産んでいる。大剣の柄に巻かれた包帯に染み付いた血痕は、もしかしてそれらと対峙してきた歴戦の証だろうか。


「俺のすべての血肉は、はなを殺すための物だ。仮にてめぇが黒鉄毒蛾というなら話は別だがな。俺の黒い風貌で決めつけているようじゃ、到底届かない存在だ。わりぃが——てめぇに興味はねぇよ」


 それ以降、誰も何も話すことはなかった。

 辺りには辰風の「この店の亭主は居るか?」という問いだけが虚しく響いていた。この騒動のである。急に呼ばれた亭主も申立て辛いだろう。その雰囲気を察して、辰風は地面に1両(約10万円)を置いて去っていった。辰風と瑠璃猫が食べた食事代は、精々50文(約1250円)あれば事足りる。しかし、過剰に置いて行ったのは、彼らなりの配慮だったかもしれない。


 店を壊して悪かった。残りは修繕費にも充てておいてくれ——それが辰風の去り際の言葉だった。




 ◇◆◇◆




 やはり心が動いた時は、筆を走らせるに限る。

 こいつは驚いた。不死身の辰風という通り名を聞いた時は、過ぎた名と思っていたが、中々に強き者よ。まさか一太刀で圧倒するとは。


 噂にたがわぬ者だ。

 しかし誠の不死身など、この世に在りはしない。


 しかし些か、血が湧きそうになったのは事実だ。


 ならぬ。まだならぬ。

 まだ自制の時だ。この自覚を持たなければ、このまま奴を殺してしまいそうだ。


 奴は所詮、ただの人間。

 事が済めば喰ってやろう。


 その時までは我慢だ。

 

 そう我慢。我慢。我慢。




 ◇◆◇◆




 「ふぅ…」


 夜のとばりが落ち、すでに辺りは黒一色である。そろそろ世界は寝支度を開始する頃合いだろう。

 峰雨乱は、一呼吸は置いた後に、筆をすずりの上に置いた。そして心を鎮めるように、ゆっくりと瞼を閉じて、天井へ仰ぎ見る。


 ここは、仙台藩中心部に位置する両角道場である。

 門構えには金剛力士が彫られており、厳かな雰囲気が辺りを取り仕切っている。敷居に入って手前は、門下生の道場である。その奥に座敷に進むと歴代当主が住む一室へと進む。

 

 もちろん住む権利を有しているのは、当主を担う峰雨乱であり、5代目当主・両角もろずみ延武えんぶの嫡男である両角もろずみ武史郎ぶしろうではない。一室の棚には書物が積まれており、壁には墨絵が掲げられているが、それらはすべて雨乱の所有物だった。


「ふぅ…」


 そんな物に包まれた一室の中央で、雨乱は再度深呼吸をした。


 鼻孔を通る墨の香り。

 頬に照る灯篭の暖。


 あぁ。何と心地良い…。

 今宵もこのまま寝床へ向かえば、熟眠であろう。


「痛っ」


 天井を仰ぎ見る姿勢のせいか、胸にとげが刺さったような疼痛が走る。そう、本来ならばあってはならない疼痛だ。


「やはり、未だ痛みは引かぬでござるか…」


 雨乱は、胸に巻かれた包帯を一瞥いちべつする。それは先日、不死身の辰風との交戦での峰打ちの打撲である。


 剣を握った武士が斬撃ではなく、打撃で敗北する屈辱——それは天下の両角一刀流を担う6代目当主に対する最大の屈辱でもある。況してや、その場で死を乞うしまった始末だ。


しかし、門下生および仙台藩の誰もが、その話題に触れることは無かった。


(ふふふ…拙者の敗北は、まるで腫れもの扱いという訳か)


 雨乱は自嘲気味に一人、暗闇の中で笑みを零した。


「日本の2大剣術と謳われた両角もろずみ一刀流いっとうりゅう叢雲むらくも神現流しんげんりゅう。双方ともに地に堕ちるとは、この世も末だな……」


 胸の包帯を忌々しくも、虚しく眺めていた。そして握り拳を握ると、


「不死身の辰風とやら…次こそは……!」


 瞳に黒い炎を宿したその時である。


「峰雨乱。まだ起きているか?」


 障子の先で、一つの影が揺れている。

 声質からして、幼さの残った若い声が、雨乱を我に返させた。


「…武史郎殿でござるか」


 咄嗟に、普段の古風な口調に戻った。


「あぁ。こんな夜分にすまない。ただ少しあんたと話がしたいんだ」


 当主ではない武史郎の居住は、この両角道場には無い。少し離れの貸家で住んでいる。つまり、わざわざ雨乱の一室に足を運んできたことになる。


「話でござるか。まぁ良い。少し筆を走らせて、まなこが冴えていた頃合いであった。謁見えっけん叶わせてやろう」


 雨乱がそう言い放つと、襖が開く。そこには神妙な顔付きで、雨乱を見つめる武史郎が居た。

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