第4話:突然の天啓

毒牙どくが——だと。武史郎ぶしろう。今ならまだ我々の聞き間違いで済むが……どうする?」


 羽織の1人の額には、苛立ちを孕んで怒張した血管が浮かんでいる。そして血走った瞳で、鞘から刃を覗かせた。白刃の輝きが、やけに鋭く感じる。

 しかし、武史郎自身も歯止めが利かないほど、怒りに心が支配されていた。冷や汗を流しながらも減らず口が止まらない。


「いいや聞き間違いじゃないさ。黒鉄毒蛾くろがねどくがならぬ峰雨乱みねうらん毒牙どくがだ!はっ。洒落しゃれが利いて笑えるだろ!」


「あぁそうだな。笑えるぜ。あの朴訥ぼくとつな武史郎が考えたとは思えないほどに、洒落が利いてやがる。仙台味噌の比じゃねぇほど癖になっちまいそうだ。はっ。笑い過ぎて——」


 そう言いながら、鞘走りの静かな鳴動が耳をかすめる。そして、白刃の軌跡が、ゆっくりと武史郎の喉元へと進んでいった。研がれた剣先は、触れただけでも薄皮を破りそうである。


 かちゃり、と剣先が喉仏に触れると、


「——手元が狂っちまいそうだぜ…えぇ?武史郎」


 武史郎は硬直をして、固唾を飲んだ。喉元から全身へと寒気が浸食されていく感覚だった。


 しかし武史郎も武士の子。また天下の両角一刀流5代目当主・両角延武もろずみえんぶの嫡男としての矜持きょうじがある。例え当主を任されなかったとしても、ここで食い下がる程、落ちこぼれてはいない。


「…そ、それで脅したつもりか。僕は、両角道場5代目当主・延武えんぶの血を分けた武史郎だ。そんなことをしても僕は、峰雨乱みねうらんには絶対に屈しない。こ、この散切り頭がその証拠だ!」


 青翠色の羽織を纏う者で、髷姿でないのは彼だけである。それには反意も含まれているようである。


「そうか。それは残念だぜ武史郎。お前はまだ18歳だ。5代目当主の亡霊を追い掛けて、剣の道も不十分なまま若い芽が消えていくのは、名残惜しいが——」


 ごくり、と飲み込む唾が轟音に響く。


 こいつは本当に、僕を殺すつもりか。

 羽織の人々、そして周囲の雑踏。すべてが新たな血飛沫を、待ち侘びたように見つめている。瞳は期待でよどんでいた。


 他人事だと思って、そんな眼で見やがって。こいつらにとって、殺戮は娯楽なのだ。どうやら本当に、毒に侵されているのかもしれない。


 狂気という名の毒に…。


「——先に晒し首になってもら、ぶふぉっ!!!!」


 天啓は、いつだって突然である。

 ばぁん!と、銃声にも似た強烈な破裂音が耳を突いたと思うと、眼前の男は武史郎から消えた。いや、と表した方が正しいだろうか。残像が残るほどの勢いで、自身の左側へ吹き飛んだのである。


 青翠色の残像が閃光のように過ぎ去ると、同時に細かな木片が視界に散りばめられた。薄い板のような材質である。それがどこから生じた木片であるか、考えを巡らせる前に——黒い塊が眼前に飛び込んできた。


 ざざざ、と摺動音しょうどうおんと共に砂埃を巻き上げて黒い物体がはためく。砂埃と木片に包まれた物体が、黒い外套と分かった瞬間、包帯を巻いた剛腕が晒された。古傷が散りばめられた肌色は、痛々しくもどこか逞しい。


 そして揺れる前髪からは、鷹のような眼光が覗いていた。砂埃が下火をみせると、男は言葉を漏らす。


「…はっ。随分と手荒な挨拶をしやがる。ゆっくりと飯も食わせてくれねぇって訳かよ」


 前傾姿勢から、むくりと姿勢を正すと、黒い外套がはためく。5尺0寸1分(約189cm)の巨躯は、ただそこに存在するだけで固唾を飲みこむほどの威圧を孕んでいた。


 呆気に取られているのは武史郎だけではなく、その場に佇むすべての民草が一種の虜になっていた。

 そんな眼差しに眼もくれず、男は「出てこい。瑠璃猫」と言いながら、外套の内側をめくる。ふわりと上質な銀糸が、虚空に舞うと銀の光沢の中から、深紅の瞳をした白皙の少女が現れた。抱えられたような体勢のまま、手には湯呑を握って片方の手でふたをするように抑えていた。


「まだ湯呑持っていたのかよ」


 男——もとい不死身の辰風が呟くと、彼女は無言のまま頷いた。辰風の腕から外れると、縮こまるように地面に正座をした。そして蓋をしたままの手を空けると、湯気が立ち込めていた。白い掌は僅かな発赤ほっせきが伺えた。


「…熱くねぇか?」


 問い掛けるように呟くと、瑠璃猫は無言のまま首を横に小さく振った。そして場面にそぐわない鷹揚おうような雰囲気のまま、湯呑を地面に置いてみせる。散らばった木片にも気にも留めない様相である。


 掴みどころの無い2人の独特な様相に、誰もが黙していた。そんな沈黙を破るように、言葉を発したのは他でもない武史郎だった。


「あ……ありがとうございます!」


 武史郎の首元は、薄皮が切れたのみで、出血は一切見られなかった。どうやら店の張り板を突き破って登場した辰風が、勢い余って眼前の男を蹴り飛ばしていたようである。辰風の後方では、だらしない恰好で伸び切った男が、横たわっていた。


 九死に一生を得た武史郎にとっては、2人の登場は何よりの僥倖ぎょうこうに等しい。しかし、事の顛末てんまつを知らない辰風にとっては、感謝される意図が分からなかった。


 かと言って、わざわざ問いただす時間も無いようである。


 かちゃり…と、突き破られた壁から、日本刀の鳴動が店内から響くと、誰もが視線を奪われた。すらりと伸びた痩身が、白銀の鈍い輝きを携えている。


「…少女を抱えしまま、我が剣筋を逃るとは。中々にる者なり。その立ち振る舞い。その身のこなし。さぞ名のある剣術の師範と見受けたてまつる。だが両角一刀流には劣るでござる…」


 勝気な表情のまま、雨乱が穴の開いた店内から悠然と闊歩をする。木片を踏み拉く度に鳴る破裂音が、やけに耳に響いた。背中を這うような畏怖が、大蛇に吞み込まれるような感覚に陥る——奇怪な2人を残して。


 辰風は、表情を変えないままである。

 凍てつくような冷たい眼光のまま「さっき忠告したからな」と一言を付け加えると、背から飛び出した包帯に巻かれた柄へと手を伸ばした。手垢と血痕が付着した柄を、握ると、


「人間に使う得物えものじゃねぇけど…な」


 身体に巻き付けた革を外すと、手首を支点にして、ぐん、と持ち上げた。背から飛び出すように抜き出た大剣が顔を出す。辰風の巨躯にも等しい刀身が、露わになると、辺りは電流が駆けたように全身を硬直させた。


 大きい。ただ只管ひたすらに大きい——。

 その言葉だけを残して、すべての語彙が吹き飛んだような衝撃に陥る。


 辰風の巨躯に合わせて掲げられた大剣の剣先は、見上げた視線の先にある。巨大で、重厚で、無骨な大剣。その鈍い銀色の刀身は、まるで岩そのものだ。何度見ても岩の塊と見紛うほどの威圧である。


「不死身の辰風。推して参る」


 辰風が、眼を据わらせて呟く。

 肌に刺さるような圧に、誰もが尻込みを仕掛けるが——雨乱だけは不敵に笑った。


「ふっ…不死身などと大層な通り名を。して左様な岩の如き大剣。誠に扱えるか疑問なり」


「ったく。言葉が、古風で聞きづれぇったらありゃしねぇ。まぁ良い。この大剣を扱えるかどうかは、剣を交えてみればすぐに分かるだろ。まさか天下の両角道場の師範代様が、恐れおののくってことは無いだろうな」


「安い挑発でござる。だが…乗るも一興。新たなる晒し首になり申して貰おうぞ」


 2人の目線に火花が交差する。そして雨乱が半身を切り、重心を深く落とした。日本刀の切先を辰風に向けると、


「両角一刀流第6代目当主・みね雨乱うらん——。仙台藩を貶めん人喰いを滅するため、両角一刀流の神髄を味わうが良い!」


 威勢の良い怒号を上げる。切れ長の細眼も、真剣そのものだった。


「まだ人喰いって言ってんのかよ。だから人を見掛けで判断するな……って言ってんだろうが!」


 辰風の大剣の柄を握る拳にも圧が掛かる。腕の包帯からも浮き上がる血管が、その重厚さを物語っていた。


 そして、かっと眼を見開くと、大きく一歩を踏み込んだ。

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