不可解な兄

前日


「五日ほどこっちの店任せていいか?」


 唐突な翡翠のその言葉に、店の前の廊下に出してあった看板を店内に下げ終わったトワは「うん?」と聞き返した。



 朝日が昇り、電車の本数も増え始めてきた時間。



 本日の営業が終わったボーイズバー【Crown】に残っているのは、オーナーの翡翠とマネージャーのトワのみ。



 トワが店のドアを閉めて店内の明るさを最大にすると、途端に薄暗かった店内が明るくなり、立ち込めていた妖しげな雰囲気は一掃された。



「こっちの店、任せていいか?」


 眩しさに目を細め、洗い物をしながら言葉を繰り返す翡翠はトワの方を見ようとしない。



 その態度を不審に思いながらもトワは「いいけど」と返事をして、掃除をする為に奥にあるトイレへと向かった。



「あっち行くのか?」


 翡翠の前を通ったトワがカウンター越しにそう問い掛けると、翡翠は顔も上げずに「ああ」と返事をする。



 その態度はやっぱりどこか不自然で、違和感がある。



 だからトワは何気にという感じを装い、「何で?」と問うた。



 トワの言う「あっち」とは、翡翠がオーナーをしているもうひとつの店、ホストクラブ【Kingdom】。



 長年勤めていたその店を翡翠が引き継いだのは、【Crown】を始めて間もない頃。



 ホストから足を洗うつもりだった翡翠が、ホストクラブのオーナーをする事になった最大の理由は、翡翠の性格にある。



 翡翠は面倒見のいい性格をしている。



 そんな性格だからこそ、父親が事故で死んでしまったあと、家族を養う為にすぐに働き始め、今では出戻りの妹と幼い甥、そして高校生の妹の面倒を見ている。



 その性格故に【Kingdom】の前のオーナーが飛んでしまった時も、行き場をなくした後輩たちを放っておく事が出来ずにそのまま店を引き継いだ。



 この件に関して、翡翠は前のオーナーが戻ってくるまでの事だと言っているが、トワは飛んだ人間が戻ってくるとは思っていない。



 それは、この世界ではそういう事がそう珍しい訳でもないから。



 他の人間も――特に【Kingdom】の従業員は――前のオーナーはもう戻ってこないと思っている。



 だから表向き翡翠は仮のオーナーという事になっているが、事実上完全なオーナーだったりする。



 それでもやっぱり翡翠には、この【Crown】だけが自分の店という意識があり、基本的に【Kingdom】の方は向こうのマネージャーの海斗かいとに任せ、問題が起こった時や売り上げが落ち込んだ時に【Kingdom】に出向く以外は【Crown】で働いている。



 それがホストを辞めるつもりだった翡翠なりのケジメでもある。



 そうと知っているトワは、【Kingdom】の売り上げがかなり落ち込んでいるのだろうと思った。



 その所為で五日ほどあっちに行くのだろうと。



 むしろそれ以外に翡翠があっちに行く理由がないだけに、他に何かあるとは微塵も思っていなかった。



 だからこそ。



「あっち、売上悪いのか?」


「いや」


 続け様にした質問への翡翠の返事が否定だった事に驚いた。



 もうトイレの前まで来ていたトワは、思わず「は?」と振り返る。



 振り返った先にいる翡翠は変わらず洗い物を続けていて、その目がトワを見る事はない。



 そんな翡翠は。



「なら、何しに行くんだ?」


 トワのその問いに、「うん」と返事をした。



 答えにならない返事に、トワの眉間に皺が寄る。



 さっきから感じていた違和感が嫌な予感に変わり始め、トワはザワザワとした落ち着かない感覚に襲われた。



「おい、翡す――」


「金がいる」


 これまで言葉を濁していた翡翠がトワの言葉を遮って答えたのは、言わない訳にはいかないと思ったからだろう。



 どうせしつこく問い質され、最終的には言う羽目になる。



 それならあっさり白状して、さっさとこの話題を終わらせるのが賢明だと思ったに違いない。



 その考えは正しく、トワは理由を聞くまで質問をやめる気はなかった。



 そこまで思っていたトワは、出来れば言わないでおきたかったという感じが全面に出た声で答えた翡翠を、ポカンとして見つめた。



 それくらい翡翠の言葉はトワにとって予想外のものであり、同様に衝撃的なものでもあった。



 確かに翡翠は家族を養わなければならないし、この店を始めた時の借金もある。



 そしてこれは家族は知らない事柄だが、【Kingdom】を引き継いだ時、前のオーナーが色々と支払いを滞らせていた所為で翡翠は新たに借金をしている。



 更にはこの店の家賃はバカ高いし、従業員の寮としてマンションの部屋をいくつか借りているから、収入も多いが余計な支出も多い。



 それでも、贅沢な暮しは出来なくても金に困る事がないくらいにはどっちの店も収入があるはず。



 少なくともトワはそう思っている。



 今となっては「思っていた」という事になるが、未だに翡翠の言葉が信じられない。



 だからトワはそうであって欲しいという希望の元で、「冗談だろ?」と口にした。



 けれど返ってきたのは、低い声で発せられる「マジ」という言葉。



 理由が分からず困惑してしまったトワは、翡翠に何があったんだろうかと心当たりを探してみた。



 思い返してみる限り、昨日までの翡翠に変わりはなかった。



 金に困ってる風でもなければ、こうしてトワから目を逸らす事もなかった。



 今日もトワが遅番で来た時にはいつもと変わらず、トワの目を見て話をしていた。



 そうして色々と考えてみると、翡翠の態度がおかしくなったのは零時前くらいの事のように思える。



 その時は大して気にしてはいなかったが、時折何か考え込むように無言になったり、今にして思えば、話し掛けてくる客の話にも上の空だったように思う。



 もしもそれくらいの時に何かあったとするならば、原因はひとつしかない。



 その原因は――。



「藍子ちゃんに何か買って欲しいって言われたのか?」


――妹の藍子。



 零時前、翡翠のスマホに藍子から電話が掛かってきて、翡翠は店の外にまで出て何やら話し込んでいた。



 その電話のあとから翡翠の態度がおかしくなったように思えるのだから、原因はその電話の内容にあると思って間違いない。



――はずだったのに。



「いや」


 翡翠はそれを否定した。



「でもお前、藍子ちゃんから電話あってからおかしいだろ」


「藍子の電話は報告の電話だ」


「報告?」


「あいつ今日終業式だったんだけどよ。成績表もらったら期末の赤点が多かったらしくてな。それで夏休みは補習受ける事になるって報告してきただけだ」


「…………」


 その言い方からしてそれが嘘ではないという事はトワにも分かった。



 その所為で、トワは翡翠が金を必要とする理由が益々分からなくなってしまった。



 生活費が足りないという事はやはり考えにくい。



 それなら臨時に金が必要になったという事になる。



 しかも【Kingdom】に行くという事は急ぎの金が必要になったという事にもなる。



 そうしてまで何に金が必要なのか。



 トワには皆目見当がつかない。



 だから。



「何で金が必要なんだ?」


 トワにはもう直球で聞くという手段しかなかった。



 けれどここまでの流れからして、翡翠がその理由を言うとは思えない。



 言うつもりがあるのなら、端から理由も一緒に言っているだろう。



 その予想が外れる事はなく。



「言えねえ」


 そうとだけ答えた翡翠は、「明日からこっちの店頼む」と言うと口をつぐんでしまい、トワが何を聞いても答えようとはしなかった。

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