朝の儀式


 いよいよテスト本番が始まる朝。



 この期間に入ると藤堂家の朝はいつもと少し違う。



 朝食の席。



 そこに藤堂家の一同が集結している。



 いつもなら食べ終わるとリビングに行く琢も食卓に残ったまま藍子が食べ終わるのを待っている。



 帰宅後シャワーを浴び終わった翡翠は、この頃になると仕事の疲れが溜まっていて、今すぐベッドに入りたいと思っているが、無理して珈琲を啜っている。



 心実も朝はやる事がいっぱいあるから、出来れば朝食の片付けなんかを始めたいと思っているけれども、席を立たずに食べるのが遅い藍子を眺めている。



 それもこれも、藍子を気遣っての行動だ。



「今日は何のテストがあるんだ?」


「んと、今日は物理と世界史」


 翡翠の問いに答えた藍子はこの期間しか心実が作らないフレッシュジュースを飲み、



「でも世界史自信ないんだよね……」


 心底自信なさげな声を出す。



 そんな藍子に、ちょっと待て、その言い方だと物理は大丈夫みたいに聞こえるぞ!?――と、言いたい気持ちを抑え込み、



「やるだけやったんだろ?」


 翡翠は疲れを出さないように心掛けながら優しく声を掛けた。



「うん。やった」


「なら自信持て」


「……うん」


「何だ? 何で元気がない?」


「んー、悪い点数だったらトワさんに申し訳ないなと思って」


「なあんにも悪くない」


「でも昨日もずっと世界史教えてもらってたし――」


「トワの事は気にしなくていい! あいつは勉強を教えんのが趣味だって何回も言ってるだろ!?」


「うん」


「今までだって点数が悪くてもトワは何にも言わなかったろ!?」


「うん」


「なあんにも悪くない。な? 心実。そうだよな?」


「そうそう。惣一郎の事は藍子が気にする事ない」


「ほらみろ、藍子。心実もこう言ってるだろ? だからなあんにも気にする事はない。むしろ教えさせてやったんだから有り難いと思えくらいに思ってりゃいい」


「んー」


「藍子、聞きなさい。今まで内緒にしてたけど、トワはちょっと変わってるんだ。ありゃ性癖の一種でな? 勉強教えてると興奮す――」


「殴られたいか、クソ兄貴」


「――るのは嘘だけども、俺が言いたいのはな? トワはそれくらい勉強を教えるのが趣味って事だ。分かったか? 藍子」


「うん」


「なら、トワの事は気にすんな。いいな?」


「はーい」


「よし、じゃあさっさと飯を食いなさい」


「はーい」


 再び朝食を食べ始めた藍子を見守る家族達が、こうして食卓に集っている意味はそう大してない。



 藍子を見ながら、何でこんなに食べるのが遅いんだろう!と改めて思うくらいの意味しかない。



 特に何も言わない琢は、いてもいなくても一緒と言っても過言ではない。



 それでも琢は家の中に漂う雰囲気から、悠長にテレビを見ている場合ではない事を察している。



 こうしてこの場にいる事が、家族として当然の行動だと思っている。



 そしてこのあと、藍子が制服に着替る為に部屋に向かうと、母親の心実が忙しなく動き始め、リビングがバタバタとし始める事も「藤堂家の当然」だと思っている。





「ご馳走様。着替えてくるね」


 ようやく食べ終わった藍子が席を立った途端に、藍子以外の誰もが、食卓の周りにあった妙な雰囲気が消えたように感じた。



 それでも藍子がリビングを出ていくまで誰ひとり立ち上がろうとしない。



 藍子の背中をみんなで見つめる。



 そしてそれが見えなくなった直後に、



「琢も着替えちゃいな!」


 心実が席を立ち食卓を片付け始め、雰囲気が一変する。



「あー、やべえ。ねみい……」


 気だるそうに声を吐き出した翡翠は、億劫そうに立ち上がり、大きな欠伸をして琢に視線を向けると「行くぞ」と声を掛ける。



 そんな翡翠に「あい」と返事をした琢は、椅子から跳ね下りて、リビングを出ていく翡翠のあとを追い掛けた。



 翡翠と琢が向かうのは心実と琢の部屋。



 誰に頼まれた訳でもないが、翡翠は毎朝琢の支度を手伝う。



 ただ自らそうしている翡翠の行動には、琢を手伝ってやろうという気持ちの他にも意図がある。



 その意図を、藍子以外の家族はちゃんと分かっている。



「ボタン、掛け間違ってんぞ」


 幼稚園の制服に着替え始めた琢を、ドア付近で見ている翡翠は、半分笑った声を出し、



「えー?」


「ほら、一個ずつズレてんだろ」


 今掛けたばかりのボタンを見つめる琢の首元を指差した。



「ズレてないよ」


「ズレてんだよ。首んとこおかしいだろ」


「どこ?」


「下から留めるからおかしくなんだろ? 上から留めろっていつも言ってんだろうに」


「えー? どこおかしい?」


「あー、もうやってやるからこっち来い」


「あい」


「来年小学校なのにボタンも留められねえのかあ?」


「出来るもん」


「出来てねえじゃねえかよ。――よし、終わり」


「ありがと」


「あとはひとりで出来るな?」


「うん」


「ズボンのジッパー、ちゃんと閉めろよ?」


「いつも閉めてるよ!」


「この間、全開になってたじゃねえか」


 そう言って、ゲラゲラと笑いながら部屋を出ていく翡翠の足が向かう先はもうひとつの「意図」する場所。



 それは二階の一番奥の部屋。



 疲れの所為で重く感じる足を運び、そろそろ制服に着替え終わっただろう藍子がいる部屋の前で足を止めた翡翠は、ドアを小さくノックした。



 ただそれは形だけのノックであり、藍子の返事を待たずしてドアは開けられる。



 そのタイミングで机の前にいた制服姿の藍子が振り返り、



「今ちょうど準備終わったとこ」


 翡翠が聞くよりも先に答えを口にした。



「見せてみろ」


 そう言って近付いた翡翠に、藍子は「はーい」と返事をして通学鞄を見せる。



 鞄の中を覗き込もうとした矢先、藍子が「今日は自信あるよ」と得意げに言ったから、翡翠は「本当かよ」と小さく笑った。



 琢の支度を手伝う翡翠のもうひとつの意図は、幼稚園の甥っ子同様、高校生の妹の準備を手伝う事。



 忘れ物をする事が多い藍子の朝の支度を手伝うのが、翡翠の日課になっている。



 心実に言わせれば、「そうやって手伝うから、藍子がひとりで用意出来なくなるんじゃん」という事らしいが、翡翠も好きでやってる部分があるだけに、手伝うのをやめようとは思わない。



 むしろ藍子が何でもひとりで出来るようになると、少し寂しく思うような気もする。



「忘れ物ないか?」


「うん。大丈夫」


「大丈夫じゃねえな」


「へ?」


「日本史の教科書が入ってんぞ」


「え?」


「今日のテストは世界史だろ? 鞄に入ってんの日本史だぞ」


「あっ、間違えた」


「ボーッとしやがって」


「してないよ! ちょっと間違えただけ」


「明日のテストは何だ?」


「明日は土曜だよ」


「あー、そうか。月曜のテストは?」


「英語と化学」


「今日は図書館寄らねえのか?」


「ううん。寄る」


「んじゃ、英語と化学の教科書もいるだろ」


「あっ、そっか」


「高校生にもなってひとりで準備も出来ねえのかあ?」


「出来るもん」


「出来てねえじゃねえかよ。――ほら、化学のノート忘れてる」


「あっ、ありがと」


 今さっき、甥とやったようなやりとりをここでもやった翡翠は、徐に手を伸ばし藍子の頭に触れた。



 いつもならこのまま口付けをして、暫く藍子に触れている。



 時には折角着替えた藍子の制服を脱がす事もある。



 けれど、この期間はそれをしない。



 せめてキスだけでも――と思う気持ちはあるのだが、この期間藍子を抱かないと決めてる翡翠は、そうしてしまうと自制が利かなくなると分かっている。



 だから藍子の頭を撫でただけで手を離し、「下りるぞ」と藍子自身からも離れた。

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