引きこもりの女

絵本真由

引きこもりの女

「また産まれちゃった」

 常盤優子は、部屋の隅っこにある段ボール箱の中を見てため息をついた。箱の中には、子猫が五匹入っている。昨夜、部屋のどこかで産まれたらしい。茶白や三毛などの模様の子猫たちだった。

「この間と同じかぁ」

半年前に生まれた子猫も、確か同じような柄だった気がする。父猫が同じなのだろうか。段ボールの中の子猫は、目がまだ開いていない。お腹が空いたのか、口をパクパクと動かして母猫の乳を待っている。成長するために、母乳は欠かせない。でも、子猫たちは二度と母猫の乳はおろか、姿を見ることはないだろう。なぜなら、子猫たちを捨てに行くからだ。 

猫を捨てるのは、今回で何回目だろう。気づかないうちに家の中で産まれている。一回に五匹の子猫が産まれる。餌代も馬鹿にならないし、特にこの子らを育てる気もないので捨てるしかない。

「うわぁ、臭い」

猫皿に入っている餌から悪臭がしているし、ハエも飛び回っている。それが、何日前の餌だったか覚えていない。その横には、食べかけのコンビニ弁当が置かれている。茶色に変色したごはんが、カピカピに干からびている。

 その他にも、飲みかけのペットボトルや一度しか着たことのないTシャツ、ズボン、ブラジャーなどが所狭しと転がっている。転がっているというよりも、積みあがっているといった方が適切だろう。

「ニャーォー」

 どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。耳を澄ますと、押し入れの中からだった。

「ニャーオォォーン」

 押し入れの奥から茶白の母猫が顔を出してきた。子猫が気になって出てきたのだろうか。名前は「あばずれ」という。何度も妊娠してるからだ。

「あばずれ、あんたの子だよ」

 私は段ボールの中の子猫を母猫の方へ見せるように傾けた。

「可愛い子猫だねぇ。お乳あげたいでしょ?」

「ニャーォ」

 あばずれはゴミをかき分けるようにして、子猫たちの方へと近づいてきた。においを嗅ぎながら、首を伸ばして子猫の様子を窺っている。

「本当に可愛い子猫たちだねぇ」

「ニャー」

 私の話が分かるのか、返事を返すように鳴き声を上げる。

「でも、これでおしまい。残念だけどね。これ以上、増えると困るからさ、捨ててくるわ」

 あばずれは名残惜しそうに、段ボールの箱をジッと見つめ続けた。

「じゃあ、さよならだよ」

 私はあばずれに子猫たちがよく見えるように、段ボール箱を傍まで寄せた。すると、あばずれは、私に向かってシャーという声を出し威嚇した。

「親切にしてやってんのに、その態度は何だよ!」

 近くにあったペットボトルをあばずれに投げつけた。猫はギャという声と共に一目散に押し入れへと逃げた。

「ケッ、ウザいやつ」

時刻は深夜0時になろうとしていた。これから子猫を捨てに行く。この近くに保護猫活動をしている自宅がある。その家の玄関先に廃棄する予定だ。動物を捨てることは犯罪だ。動物愛護法に反することなので、見つかれば逮捕される可能性がある。だからこそ、慎重に行動しなければならない。

「はーあ。めんどくせーな」

 捨ててこないと、毎日のように鳴き声に悩まされる日々が続く。子猫の場合は、ほっとけばそのうち死ぬ。でも、いつ死ぬか分からないし、その時間がウザいので捨てに行くのだ。

「えーと、確かここだったかな」

 ガムテープがテーブルの下にあったはずだ。手を伸ばすと、お菓子の包装用紙が手に取れた。いつ食べたか分からない塩味のポテトチップスの袋だった。その下には、ペットボトルがあり、ガムテープはごみを掻き分けた中にあった。

「じゃあね、バイバイ」

 子猫たちの目はまだ開いていない。だから、どこに連れて行かれても怖くはないだろう。段ボールをガムテープで封をすると、子猫たちの鳴き声は聞こえなくなった。

部屋を出ると、廊下に母の光子が立っていた。

「優子ちゃん、どこか行くの?」

 聞き取りにくいか細い声で話しかけられた。こいつはいつも弱々しい。か弱い女が一番嫌いだ

「猫、捨ててくる」

「えっ、でも、大丈夫なの? かしら……この間も近所で噂になってたし……」

「大丈夫よ。そんなの無視しときゃいいのよ。防犯カメラもないんだから、バレやしないよ」

「そ、そうかしら」

「ちょっと、私に刃向かう気?」

「い、いや、そんなんじゃないけど、近所の奥さんに何度も聞かれたし、警察が来たらどうするのかなって……」

 こいつ、私に説教する気か。存在する価値もない人間なのに、偉そうな態度をとる気なのか。段ボール箱を床に置くと、光子の胸倉を思いっきり引っ張り上げた。光子は苦悶の表情を浮かべながら、小声で『やめて』とつぶやくように言った。

「あんたさ、私を怒らせたいの?」

「ち、違うのよ。そうじゃないけど……」

 母親の歪んだ顔を見るのは面白い。父親にも、こいつはよく殴られていた。頬が腫れても、歪んだ表情を見せながら今みたいに耐え続けていた。父親は五年前に肺がんで亡くなった。それ以来、二人暮らしだ。とにかくこいつの立ち居振る舞いすべてが気に入らない。気を使った言い方も腹が立つし、殴りたくなってくる。我慢ができなくて母の頬を平手打ちした。

「ひぃぃぃぃ、や、止めて!」

「刃向かうんじゃないよ!」

 もう一発、光子に平手打ちした。光子は床に崩れ落ちると、腰が抜けたのか這いつくばりながら階段の方へ逃げようとした。私は、母親の背中に右足を置くと、そのまま力を入れて踏みつぶした。

「や、止めて……く、苦しい……」

 光子は苦悶の表情を浮かべながら、懇願し続けた。私に刃向かうからいけないのだ。私のやることは間違っていない。こっちの気を逆なでするようなことをするからいけないのだ。

「子猫は捨ててくるから。文句はないわよね」

「わ、分かったから……い、息が……離してくれるかしら……お願いよ……お願い」

 余程苦しいのか、私に向かって懇願し始めた。惨めな顔をした、哀れな人間だ。どこか自信なさげな母親の姿はこの世の終わりとさえ感じさせる。それは物心ついた頃から、ずっと続いている腐った感情だった。

「分かったんだったら、とっとと消えな」

 光子の脇腹を、おもいっきり右足で蹴り上げた。

「ウゲェ」

ゲホゲホと苦しそうに咳き込むと、光子はしばらくしてピクリとも動かなくなった。気絶したのだろう。それとも気絶するふりをしているのかもしれない。まあ、そんなことはどっちでも関係ない。むしろこいつに関わる時間が減って嬉しい。

「じゃあ、行ってくるから」

 段ボールを手に取ると、階段を下り玄関のノブを回して外に出た。


 ひんやりした空気が、頬を撫でるようにして私の側を去っていく。自宅周辺は、夜の暗闇に包まれていて、人通りは全くなかった。これなら目撃者も出てこないだろう。一度失敗しているので、今回は慎重に行動しなければならない。

二週間前に捨てた時、近所のおばさんに猫を捨てるのを目撃されてしまった。幸い、私だと特定されなかった。理由は、マスクとサングラスをして顔をガードしていたからだ。今も、その時と同じ格好をしているからバレることはないだろう。周囲を伺いながら少しずつ歩みを進めていく。目的地の家は、ここから徒歩5分の場所にある。段ボールの中の子猫は、物音一つせず大人しくしてくれている。ここで猫の鳴き声を聞かれたりしたら元も子もない。どうやら私の願いが届いたようだ。

「じゃあね、バイバイ」

 段ボールを家の前に静かに置いた。さっきから子猫の鳴き声は全くしない。もう死んだのだろうか。でも、もうそんなの関係ない。煩わしいものは、どこかに捨ててしまえばいいだけだ。もう一度左右を見回して、誰も見られていないことを確認した。よし、今日も運は私に味方したようだ。これで安心して家路へと帰ることができる。安堵した思いを連れて、急いでその場を去った。


 翌日、自宅周辺はちょっとした騒ぎになった。どうやら、私の姿が住民に目撃されたらしい。午前中に警察がやってきて、光子と話をしたらしい。私が起きる前だったようで、私は追及されずに済んだ。

自分はどこまでツイてるのだろう。そう、この時は思った。でも、それは私の思い込みにすぎなかった。見事に的が外れてしまったのだ。警察が再び自宅へとやってきたのは、その日の午後だった。ベットに横になっていると、母がドアをノックして顔を覗かせた。

「あのね、警察の方が話をしたいって」

「えっ? さっき話したんじゃないの」

「一度は帰ったんだけど。あなたのこと調べて、また戻ってきたみたい」

「断ってよ」

「今、下にいるから無理よ。断ってもここに来るわよ」

「私が捨てたってこと、話してないでしょうね」

「も、もちろんよ。話すわけないでしょ」

光子はぎこちない笑顔を向けた。明らかに作り笑いなので、ムカついた。でも母が言うように、ここで断ってしまうとかえって怪しまれてしまうのは目に見えていた。

「分かったわ。行くわよ」

 階段を降りると、三十代ぐらいの警察官が立っていた。制服を脱がないでも筋肉が透けて見えそうなくらい、ガッシリとした体格をしている。警官は帽子を脱ぐと、丁寧な物言いで話しかけてきた。

「お忙しいところ、すみません。また、子猫の置き去りが起きたもので、話を聞かせてもらえますか」

「はい、分かりました」

 自分は今、どんな表情をしているのだろう。いつも怒ってばかりで、眉間に皺を寄せているから素の自分が分からなくなる。

「これは皆さんにお聞きしてるのですが、昨日の深夜は、どちらにいらっしゃいましたか?」

「自宅にいました」

「お部屋にですか? お一人で?」

「はい、そうです」

 警察官の視線は、私の顔の表情を捉えて離さない。私を疑っているのだろうか。でも、証拠はないはずだ。こんな時のために、まっさらな段ボールを使ったし手袋をつけて作業をした。だから、指紋は一切ない、はずだ。それよりも、猫を捨てた家の前には防犯カメラはついていなかったのだから、私だという証拠はない、はずだ。

「そうですか。実は、この通りのお宅の防犯カメラに、犯人らしき人物が映っていましてね」

 ドキリとした。まさか、通り沿いの自宅にカメラがあったなんて、想像もしていなかった。この辺りは治安がいいので、防犯カメラを取り付けている自宅はないと決めつけていた。確かに、頻繁に警察沙汰になればカメラぐらいつけるか。でも、ここで動揺しては相手の思うツボだ。ただただ、無表情で知らないふりをし続けるしかない。

「でも、残念なことにハッキリと映ってなかったんです。つけたばかりでピントが合ってなくて」

「そう、ですか」

 ホッとした。やっぱり、私はツイている。あっ、今の表情、警察官に悟られなかっただろうか。安堵するなんてここ数年以上ないことだった。だから、思いっきり顔に出てしまったかもしれない。そんな心配をよそに、警察官は次の質問をし始めた。

「失礼ですが、お嬢さんのお仕事は?」

「就活中です。中々見つからなくて」

「そうですか。分かりました。お忙しいところ、すみませんでした。失礼します」

 警察官は頭を下げて去っていった。どうやら、怪しまれずに難を逃れたようだ。ホッと胸をなでおろした。後ろを振り向くと、光子が心配そうな顔で私を見つめていた。

「大丈夫、だった?」

 後ろで聞いてたんだから大丈夫に決まってんだろ。そう言おうとしたが、睨み返すだけでやめた。光子もこっちの意図を察したのか、そそくさとその場から消えていった。

 部屋に戻るとキジシロの猫が足にまとわりついてきた。餌が欲しいのか、私の顔を見てニャオーンと一声出して甘えてきた。この猫は数年前に家の中で産まれた猫だ。他にも数匹の猫がいるはずだが、私のことが怖くて表には出てこない。

「ニャオオオン」

 再び猫が甘ったるい声を出してきた。

「うっさいんだよ!」

 猫の頭を左足で蹴り上げた。ギャァという潰れた声を出しながら一目散に押し入れの方へと逃げて行った。横顔に一撃を食らったので、相当な衝撃だっただろう。私の機嫌を損ねたあの猫が悪いのだ。それでも怒りが収まらず、床に落ちているペットボトルを思いっきり蹴り上げた。中に飲みかけの緑茶が残っていたらしく、茶色い液体が宙を舞い私の頬を直撃した。

「やだ、変なにおいがする」

 いつの飲み残しか分からないので、口元に飛ばなくてよかった。ティッシュで頬を拭うと、それを床にポイと捨てた。捨てたティッシュの横に、お菓子の袋が無造作に捨てられていた。袋にはカウボーイハットの男のイラストが描かれていた。その顔が、さっき尋ねてきた警察官の顔となぜか重なった。

その瞬間、一抹の不安がよぎった。どうして警察はあんなにも簡単に引き下がったのだろう。一分も立たないうちに終了した尋問が、あまりにも短すぎると感じてしまう。短すぎるということは、何か決定的な証拠を掴んでいるのかもしれないと勘ぐってしまう。そんな不安が胸の中で渦巻くと、壊れた洗濯機のようにグルグルと思考が回り続ける。警察官のねっとりとした視線が、余計に想起させるのだ。それだけで、私の不安はうねりのように大きく掻き立てられている。

「でも、姿は見られてないんだし、大丈夫か」

 決定的な証拠がない限り、私を拘束できるわけがない。だから絶対に捕まったりはしないはずだ。それに私はツイている人間だ。神はいつも私の味方になってくれるはず。そうやって自分の心を落ち着かせる。そうでもしないと、この緊張感は緩和していかない。

ふと視線を押し入れへと向けると、奥からキラリと光る二つの玉と目が合った。あばずれが、私のことを睨みつけている。実際には睨みつけているわけではないが、睨みつけているように感じるのは私の中で理性が働いているせいだろうか。

「何よ、何か文句あんの」

 私の問いかけにも微動だにせず私の方を見つめている。

「お乳をあげなくていいから、清々してるでしょ。あんたのために捨ててきてやったんだから感謝しなよ」

 しばらくすると、あばずれが押し入れから出てきた。窓へと勢いよくジャンプすると、少しだけ開いていた窓ガラスに左足を引っかけた。器用に窓ガラスを開けると、勢いよく外に飛び出した。それがあばずれを見た最後の姿だった。



 数日後、私のもとに再び訪問者がやって来た。警察官ではなく、今度は社会福祉士の男性だった。

「初めまして、香川と申します」

 玄関先で手渡された名刺には香川敬之と書かれてあった。香川は紺色のスーツを着て短髪の髪型が清潔感を感じさせた。

「突然の訪問で驚いてらっしゃいますよね。本日は、常盤さんに話があって伺いました」

「私に、ですか?」

 社会福祉士が私に何の用があるのだろう。社会福祉士といったら、引きこもりや社会生活に困っている人間を助ける行政機関だ。私は現在無職だが、別に生活には困っていない。親の年金を頼っていると言われても仕方がないが、それはこれから働いて返すつもりだ。

「少しだけお話、いいですか。長くはかからないので。手短に話したら、すぐ帰ります」

 そう言うと、目がとろけそうなくらいの笑顔を向けた。その瞬間、胸の上あたりがふわりと浮いた気がした。浮くという表現は合っていないかもしれないが、柔らかいものが胸を包み込んだのは確かだ。

「わ、かりました。どうぞ」

「失礼します」

 香川の靴を脱ぎ家に上がる姿も、何だかカッコよく見えてしまう。どうしたんだろう、私、変だ。そう、淡い恋心に似ている感情だった。

リビングに入ると、母がテーブルにお茶の入った湯呑みを置いていた。

「どうもありがとうございます。すみません、一口いただきますね。喉が渇いちゃって」

 香川さんはそう言うと、湯呑みを手に取り軽く一息拭きかけた。

「僕、猫舌なんですよ」

 そう言うと、再び笑顔を見せるとお茶を啜った。丁寧な人だと思った。

「今日お伺いしたのは、優子さんの就職のことでして」

「就職?」

「そりゃそうですよね。不思議に思いますよね。どうして社会福祉士の僕が、就職の世話をするのかって、不思議に思うのは無理ないです」

 そう言うと、再びお茶を啜った。

「実は、お母さまに相談されましてね。娘の就職をどうにかしたいとおっしゃられていて」

「そう、何ですか」

 私は思わず光子の顔を向いた。私の機嫌を損ねたくないのか、俯きながら台所の方へと消えていった。

「えっ、いや、あの、お母さんはあなたのためを思って、相談されたんですよ。誤解しないでくださいね」

 ヤバい。想像以上に、険しい表情をしていたのだろうか。気を付けなければ。

「実はですね」

 香川さんは咳ばらいをすると、真剣な面持ちで話し始めた。

「知り合いの会社で、事務員を募集してまして。よかったら、面接に行ってみませんか」

「面接、ですか」

「残業もほとんどないので、定時には家に帰れるし、安定した企業なので将来性も問題ないですよ」

 そう言うと、再び満面の笑みを浮かべた。私はその提案を断ることができなかった。それは、香川さんの笑顔のせいだった。



 外で働くのは約五年ぶりになる。以前は、地元の銀行に勤めていた。新入社員の頃は、先輩社員に良くしてもらい、楽しく仕事をしていた。そんな生活がずっと続くかと思っていたが、人生そんな甘くはなかった。入社して3年目が経った時、上司が男性から女性へと変わった。男性の上司とは違い、女性上司の言葉遣いはパワハラに近いものがあった。指示された時刻までに入力作業が終わらなければ、大声で怒鳴られたり机を思いっきり拳で叩かれて威嚇されたりした。当時十人の社員のうち、半数の五人が休職したり転職したりした。私もその中の一人だった。医者の診断はうつ病と診断され、自主退職した。

それ以来の勤務だった。デスクに座り事務作業や電話対応などの事務対応をした。香川さんの言うように、定時には必ず帰宅できたので精神的な負担はほとんどなかった。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 帰宅すると、光子が笑顔で出迎えた。母は機嫌がいい。それは、私と日中に顔を合わせなくていいからだ。私だって同じだ。母との息の詰まる生活に戻りたいとは思わない。でもどうしてだろう、仕事をして充実しているはずなのに、母親の顔を見るとムカついしまう。話もしたくないから無視して二階の部屋に入った。

「えっ、ちょっと、なにこれ」

ゴミで溢れかえっていた自分の部屋が、綺麗に片付いていた。頼んでもないのに何やってんだ。瞬間湯沸かし器のように、怒りが頂点に達した。そのまま階段を駆け降りると、台所へと入っていった。

「ちょっと! 勝手に人の部屋に入んじゃないよ!」

「ご、ごめんなさい。ちょっと、片付けようとしたら夢中になってしまって……でも、綺麗になったでしょ?」

「綺麗になったじゃないわよ! 猫はどこに行ったのよ!」

 数匹の猫が部屋の中にいたはずだ。一匹もいないし、猫皿さえなくなっている。

「仕事が見つかったから猫の世話もできないと思って、愛護団体に預け……い、痛い!」

「何、勝手なことしてんだよ!」

 光子の前髪を、右手で鷲掴みにした。

「い、痛い! ご、ごめんなさい! 許してぇぇぇー」

 光子は涙を流しながら、許しを乞うていた。こんな家に生まれて来なきゃ、私の人生はバラ色になっていたはずだ。全ては、出来損ないのこいつのせいだ。

「あんたの全部がムカつくんだよ!」

 思いっきり掴んでいた右手を思いっきり引っ張った。その瞬間、ブチブチという髪の毛が切れる音がした。



 仕事を始めてから一週間が経った頃だった。帰宅すると、香川さんが自宅に来ていた。

「おかえりなさい」

 リビングの椅子に座り、私に向かって会釈をした。いつものように満面の笑みを浮かべている。どうしてだろう、この笑顔にホッとしてしまう。トゲトゲした私の心を落ち着かせてくれるのだ。

「どうですか、仕事の方は」

「順調です。香川さんのおかげです。本当にありがとうございます」

 丁寧に頭を下げると、恐縮したように香川さんは右手を左右に振った。

「とんでもない。僕の仕事をしたまでですよ。ねぇ、お母さん」

 香川さんの問いかけに、母親は照れたように頷いた。母は、香川さんに右隣に座っている。右側の前髪が薄く剥げていることに、香川は気づいただろうか。今座っている角度からは、ちょうど見えていない。それとなく香川さんの表情を伺っていると、目が合った。香川さんは、いつものように微笑むと、私の胸は何かに捕まれたようにキュゥとなった。そんな私の心内を知ってか知らずか、私に問いかけた。

「じゃあ、次のステップに進めそうですね」

「次の、ステップ?」

「そう、次は、自宅を出て一人暮らしをしませんか」

 一人暮らし。実は、この三十年間で一度もない体験だった。仕事を辞めてから引きこもってしまったので、家を出るタイミングを逸してしまった。

「不動産屋から格安のアパート物件を紹介されて、どうかなと思って」

「不動産屋、ですか」

「あっ、いや、別につるんでるわけじゃないですよ。この仕事をしてると、不動産屋と一緒に立ち合いに行ったりして、仲良くなるんです」

 社会福祉士は、失業者や生活が困難な人に対してケアをするのが仕事だ。当然、住まいが必要な人には物件の紹介などもするだろう。

「お給料で払える範囲の物件なんで、苦にならないと思うし、これがいいタイミングだと思うんだよね」

 はち切れんばかりの彼の笑顔に、断る判断力さえ鈍ってしまう。

 このところ、母親とは上手くいっていないし、ここは別れるチャンスかもしれない。しかも、香川さんと一緒に外出が出来るなんて、思ってもいなかったチャンスかもしれない。

「今度、一緒に現場に行きましょう」

「分かりました」

 私がそう言うと、香川さんがチラリと母の方を横目で見たような気がした。母は俯いたまま、ずっと下を向いていた。私がいなくなって寂しいのだろう。心の中でごめんねとつぶやいた。

 翌週、アパートの物件を見に行った。ピンク色の外装が可愛らしく、部屋の中も1LDKだがロフト付きなので思ったよりも広く感じた。私は即決で引っ越しを決めた。


 引っ越しが完了し、一人暮らしが始まった。自炊などやったことがなかったので、最初は戸惑った。コンビニ弁当を毎日食べるほどの給料はもらっていないので、否が応でも包丁を持たなければならない。初日に左手人差し指を切った時はさすがに焦った。でも一週間もすると包丁さばきにも慣れてきて、料理を作ることに抵抗がなくなってきた。幸運なことに会社から徒歩十分ほどの距離にあるので、朝起きて支度するのも楽だ。仕事もすこぶる順調で、同僚と食事に行ったりしてそれなりに楽しい生活を過ごしていた。これは全て香川さんのおかげだ。本当にあの人の笑顔には癒される。その笑顔をずっと見ていたかった。そう思っていた矢先、香川さんから電話があった。そして、今度食事に行こうと誘われた。嬉しかった。今度の日曜日、どんな服を着ようか。仕事中もそのことが頭から離れずにいた。そんな中、事件は起こった。

 仕事から帰ると夕飯を済ませて風呂に入った。湯船の中に体を浸かっていると、窓の外から焦げ臭い臭いがしてきた。

「また下の人か」

 一階に住んでいる一人暮らしの老人が、外で炭火焼きをする姿を度々目撃していた。練炭の上に銀色のサンマをのせてパタパタとうちわを扇いでいる姿は、独居老人の侘しさを感じさせた。炭火で焼くとそんなに美味しい物なのか。そんなことを考えながら、いつも横を通りすぎていた。今度もそれだろうと思い込んでいた。だが、焼け焦げた臭いは次第に濃くなって浴槽を充満し始めた。練炭の臭いだけではこんな臭いはしないだろう。

 急いで浴槽から上がると、バスタオルで体を拭いた。急いで寝間着を着ようとしたが、浴槽の扉の隙間から白い煙が中へ入っているのに気づいた。

「うわぁ、やだぁ!」

 浴槽の扉を開けると、部屋の中は既に煙で充満し始めていた。早くここから脱出しなければ窒息して死んでしまう。手に持った寝間着を急いで着ると、玄関へと急いだ。目の前は煙で見えないが、逃げる場所は大体検討がつく。玄関は、風呂場を出て一メートルもないところにある。恐らく、手を伸ばせばドアノブがあるはずだ。目が見えなくても感覚的に分かるはずだと自分を信じ、右手を伸ばすとカツンと手に何かか当たった。ドアノブだった。よかった、助かった。これで外へ出て思いっきり空気を吸える。そして、明日から何事もなかったかのように仕事に行くのだ。

「アチィ!」

 ドアノブが鉄の塊みたいになっていて、素手では触れなかった。すぐさま体を拭いたバスタオルでノブを回そうとしたが、ツルツルと滑って上手く回せない。

「ちょっと、早くしてよ!」

 ドアノブに怒りを向けても仕方ないのだが、それくらい上手く回せなかった。

 こんなところで死んでたまるか。私にはまだやりたいことがたくさんある。母親から解放されて、自由を満喫している最中だし、香川さんとの食事にも行かなければならない。着ていく服は燃えてしまっただろうか。そんなことどうでもいい。生きてさえすれば、いいのだから。

「やった、開いた」

 試行錯誤の末、ようやくドアが開いた。扉を開くと、目の前が真っ白になった。と同時に熱波が顔を直撃し、目が開けられなくなった。口の中にも熱い空気が否応なしに入って来て、喉から内臓までが焼けるように痛い。大きく呼吸することも息を止めることもできない。目の前には火の海が広がっていた。



 さっきから何かの音が聞こえている。何の音か耳を澄ませてみる。微かな音なので検討もつかない。それにしても今、私はどこにいるのだろう。目を開いているつもりだが、何も見えてこない。目の前は真っ暗だ。

「……が、と……」

 人の声だと分かったのは、それからしばらくしてからだった。女性の声だった。それは、聞きなれた声のように感じた。次の瞬間、目の前が急に明るくなった。うっすらと丸い形の蛍光灯のようなものが見えた。すると、それがクルリと回ってこっちを覗き込むようにして近づいてきた。

「あら、目が覚めた?」

 母の声が耳元で聞こえた。細長い視界に入ってきた母の顔は、なぜかほほ笑んでいた。どうしてほほ笑んでいるの? 娘が大けがしたんだよ。心配じゃないの? 声に出しているつもりでも、心でしか叫ぶことができない。

「災難だったわねぇ。あなたの住んでたアパート、家事になったのよ」

 そんなこと知ってるわよ。そんなこと聞きたいんじゃない。私は今、どういう状況かを聞きたいんだよ。

「あなた、全身やけどで救出されたんだけど、治療するには、高額な医療費を払わなくちゃいけないんだって」

 そうなんだ。じゃあ、助かったんだ私。現代の医療であれば、火傷くらい治療できるだろう。よかった。本当に良かった。

「ごめんなさいねぇ。私、無職だから、支払えないわ。あなたも保険に入ってないから、無理ね」

どうしてだろう、母の甲高い声が聞こえた。どうして喜んでんだよ。 娘が苦しんでるのに、何で見て見ぬふりするんだよ。

「完治するまでに一年以上は入院しなきゃならないんだって。うちにそんなお金、ないわよねぇ」

 家を売れば金になるだろ! 家を売れば一千万円以上で値が付くはずだろ!

「あら、そうだ。家を売ればそれなりの資金にはなるわねぇ。でもねぇ、私の住むところがなくなっちゃうから、それはできないわね」

 そんな……。私は助からないかよ。助けろよ。お前には娘を助ける義務があんだよ。

「あっ、そうだ、ひとつやり忘れたことがあったわ」

 次の瞬間、頭部が引っ張られる感覚があった。光子の腕が頭に伸びて、私の髪の毛を引っ張っていた。

「痛い? 痛くないかぁ、意識がないみたいだからねぇ。私の時は痛かったわよ。あなたに思いっきり引っ張られてさぁ。もう、あんな痛い目にあうの、コリゴリよ」

 い、痛い。まるで頭にナイフが突き刺さったような感覚に襲われた。抵抗したかったが、手がビクとも動かない。力を入れて動かそうとしたら、ピリピリと腕に電気が走った。ヒリヒリとした痛さがずっと続いた。

 母は気が済んだのか、伸びた腕が引っ込んで痛みがスゥーと引いた。しばらくの間、母親は私の顔を覗き込んでいた。娘の最後の姿を目に焼き付けているのだろうか。お願い、助けて。助けて、お母さん。これからはお母さんの言うとおりにするから。そう訴えかけた母親の顔は、いつの間にか猫の顔に変わっていた。あばずれの顔だ。

 あばずれが笑った。笑うはずないのに、笑ってるように見えた。その瞬間、あばずれを拾った日のことが脳裏をよぎった。あばずれはどこからともなく自宅に現れた。そのまま餌を与えるようになった。初めは可愛くて仕方なくて、世話をするのも苦じゃなかった。でも、仕事を辞めてから猫をウザいと思うようになった。それから世話をするのが嫌になり、餌もろくに与えない状況が続いた。あばずれは外で繁殖をして家の中で子を産み続けた。子猫が毎年のように増えていた。餌がもらえないあばずれは外に出て、餌をもらっては繁殖を繰り返した。あばずれは、今どこにいるのだろう。あばずれに会いたい。心からそう思った。

「あっ、そうだ。あんた香川さんと食事するんだったんでしょ。残念ねぇ、行けなくて。知ってたわよ、あんたが彼に気があること。まぁ、食事も私が誘うように頼んだんだけどね」

 やっぱりそうか。こいつは香川さんを利用して私を家から追い出したのだ。食事に誘ったのは、私の様子を窺うためだ。仕事が上手くいっているかどうか、母に伝言するためだ。万が一仕事が上手く行かなくて実家に出戻って来ないように、様子を探るためだろう。あの笑顔が脳裏をよぎった。どんな理由でもいい。香川さんともう一度話をしたかった。

「じゃあね、バイバイ」 

 ドアが閉まる音がした。目の前は暗くなり、目を開いているつもりでも真っ暗なままだった。まるで、子猫たちと同じように、どこか分からないところへと連れて行かれるのだろう。そう言えば、あの子猫たちはどうなったのだろうか。今頃どこかの家で飼われているのだろうか。

 私にも救いの手は差し伸べられるのだろうか。

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