夜霧の標的
ClowN
第1話
白い大理石でできたバーカウンターに、丁寧に埃一つも見受けられない清掃の行き届いたバックバー。そこには所狭しと年代物の高級な酒瓶が陳列されている。そんな中、数十年前に流行ったジャズ音楽がどこからともなくゆっくりと流れてくる。
顎に白髪交じりの無精ひげを蓄え、目深に斜め掛けの黒い中折れハットを被った彼の名前は、中沢勇一郎。チャコールグレイの背広を着こみ、バーカウンターの椅子に座っていた。彼の隣には煙草とガラスでできた灰皿とグラスが一つ。中には山の様に吸い殻が出来ている。中沢は、グラスに映る自分の影をじっと見つめた。白髪交じりの無精ひげが、まるで影絵のように浮かび上がる。かつては、若者たちの憧れの的だっただろうこのバーで、彼は今、何を思っているのだろう。壁掛け時計の秒針が刻む音だけが、静寂を破る。男の吐き出した煙は、天井のシャンデリアの光に照らされ、ゆらゆらと揺れていた。
静寂の最中、突如として中沢はジャケットの内ポケットからベレッタM92を取り出した。冷たく、滑らかな金属の感触が、彼の緊張感を高める。数々の死を目撃してきたこの銃は、まるで彼の分身のように、彼の掌に収まっていた。
しばらくして、カランカランとドアベルが鳴ったと思うと、随分と体格のいいダークスーツの男がアタッシュケースを持って、彼の隣へと足を運ぶ。
「来てくれたんですね」
「ああ…一応な。」
中沢は、男の言葉に淡々と応えた。ベレッタM92は、彼の握りしめた拳の中で、重く響いていた。
「出せ。」
男は、アタッシュケースをカウンターの上に置いた。その音は、静寂を破る鋭い金属音だった。中沢は、ゆっくりと頷いた。
「ああ。だが、一つだけ確認させてくれ。」
二人の間には、張り詰めた空気が流れていた。まるで、次の瞬間には銃声が響き渡りそうな、そんな緊迫感があった。今ここに、中沢と男二人だけしかいない事だけが救いだと思いたい。
「報酬をしっかり確認したいんだ。世の中、どんな稼業だって金払いをしてくれない奴にゃ手を貸したくないからな。無償で労働なんざごめんだ」
「勿論、そう言うと思ってボスから預かってきています。」
男は、ニヤリと笑って、アタッシュケースを開けた。中には、札束がぎっしり詰まった封筒が入っている。中沢は、一瞬、封筒に目をやったが、すぐに視線を男に戻した。
「これは…」
封筒の上に置かれていたひときわ目立つ黒い封筒を手に取り、素早く中身を確認すると中沢は一瞬にして苦い表情を浮かべた。
「お前んとこのボス、頭とうとう逝っちまったのか?」
「十分承知しています。ですが、それを渡せとボスが。」
その内容は、明日市街地で行われる知事選挙の街宣車の配置の位置を記した紙と、面が特徴的な男の証明写真の二枚が封入されていた。懇切丁寧に写真の裏側には”服部慎一郎”と達筆な字で名前が書かれている。
「チッ、分かった。だが、一つだけ言っておく。この仕事が終わったら、お前んとこのボスと話させろ。それが条件だ」
「承知いたしました。ボスにも、そう伝えておきます。」
そう言い終わると男はそれじゃあ、と腰を上げた。
そして背を向けてドアベルを鳴らしながら店を出て行く男の姿を見送った後、中沢は目の前に置かれたグラスに入った溶けかけの氷を眺めつつ呟く。
「物騒な世の中になったもんだ。俺ァ、傭兵でもなきゃ軍人でもねえのによ」
そして、グラスの琥珀色の液体をグッと飲み干し財布から札を何枚か置いた後
「お勘定は?」
いつの間にか奥から顔を出していたバーカウンター越しに立つこの店のマスターにそう告げられ、中沢はそっと呟く。
「ツケといてくれ」
中沢が店を出て行こうとすると、背後からカランカランと再びドアベルが鳴る音がした。どうやらまだ客が残っていたらしい。彼の背後で、何やら話し声が聞こえる。
マスターは、グラスを布巾で拭きながら呟いているような気がしたが、彼は気にすることなく店を出ると同時に、仄暗い闇の中に浮かび上がるネオン看板の灯りの下を歩きながら、携帯を取り出し慣れた手つきで操作すると、耳元にあてる。コール音の後、電話がつながったらしい彼は口を開き電話の向こう側にいる人物に話しかけた。
「…準備を頼む。明日どうしても、やらなくちゃならんことが出来たんでね」
電話越しに、かしこまりましたと聞き慣れた声が返ってくるのを聴きながら中沢は携帯を切った。
「明日は、いい日になるといいんだが。」
そう呟くと、中沢はネオンが煌めく繁華街へと姿を消していった。
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