第2話 土曜の夜
翌日、理恵は仕事に戻っていたが、前日の出来事が頭から離れなかった。六本松のカフェでの再会、そして木村裕也の微笑み――それらの断片が、仕事中の彼女の脳裏に何度も浮かび上がる。彼と再会できたことが、理恵にとって思っていた以上に大きな出来事だったのだ。
「48歳で、再びあんな気持ちになるなんてね……」
自分自身に驚きながらも、理恵はその感情を静かに飲み込んだ。彼女の周りでは、若い部下たちが次々と仕事の報告をしている。仕事は相変わらず忙しく、彼女もまた責任を抱えている立場だ。だからこそ、プライベートでの小さな感情の波に振り回されることは許されない。理恵は、自分にそう言い聞かせながらパソコンの画面に視線を戻した。
「失礼します、部長」
突然、若手社員の木下が理恵のデスクの前にやってきた。理恵は仕事に集中しようとしていたものの、再び現実に引き戻されたようだった。木下は、理恵の直属の部下であり、仕事熱心で有能な若手だった。理恵が管理職に昇進した際、彼女に真っ先に相談を持ちかけてきたのもこの木下だった。
「木下、どうしたの?」
理恵は落ち着いた声で問いかけた。木下は真剣な表情で、資料を差し出した。
「この案件についてご意見をお伺いしたいんですが……少しお時間をいただけますか?」
理恵は一瞬迷ったが、結局、仕事の方に集中するしかないと思い、木下の持ってきた資料に目を通した。
その日の夜、理恵は仕事を終え、帰宅する頃には既に外は真っ暗になっていた。自宅のドアを開けると、静けさが彼女を迎えた。かつて家に帰ると聞こえていた娘の声や、家族の賑やかな生活音は、もうここにはない。理恵は一人暮らしの静寂に包まれ、少し疲れた体をソファに沈めた。
「木村……」
ふと、彼の名前を口にしてしまった自分に驚いた。再会から一日が過ぎたが、彼のことがずっと心の中で居座っている。理恵はテレビのリモコンを手に取って、無造作にチャンネルを切り替えたが、どれも心を引く番組はなかった。
「何やってるんだろう、私……」
自分を呆れるような気持ちで呟いたが、その後、無意識のうちにスマホを手に取った。そこには、昨夜、再会した時に交換した木村の連絡先が保存されている。彼にメッセージを送るべきか、いや、送るべきではないのか。理恵はスマホを見つめながら、逡巡した。
数日が過ぎた頃、理恵はようやく木村にメッセージを送ることを決意した。内容は簡単なものだった。
「先日は再会できて嬉しかったわ。またお話しできる機会があればいいなと思ってます」
送信ボタンを押した瞬間、理恵は手のひらに汗が滲むのを感じた。48歳にもなって、こんな風にドキドキすることがあるなんて、自分でも信じられなかった。まるで中学生の頃に戻ったような感覚だった。
しかし、メッセージが送られたまま、しばらく木村からの返信はなかった。理恵はそのことが気になりながらも、何とか平常心を保とうと努めた。仕事に集中しようとするが、スマホを何度もチェックしてしまう自分がいた。
「落ち着け、理恵」
心の中で自分を戒めながらも、心のどこかで木村からの返信を待っている。だが、彼からの連絡はなかなか届かなかった。
そして、その週の金曜日、ようやく木村からのメッセージが届いた。理恵がそれを見たのは、仕事を終えて自宅に帰り、ソファに腰を下ろした時だった。
「こちらこそ、再会できてよかったよ。またぜひ会って話したいね。最近は少し仕事が忙しいけど、落ち着いたら連絡するよ」
その言葉を見た瞬間、理恵の胸が少しだけ軽くなった。しかし同時に、「最近は少し仕事が忙しい」という言葉に引っかかるものを感じた。それはよくある社交辞令なのか、それとも本当に忙しいのか。理恵は木村の気持ちがわからず、再び迷い始めた。
その後、理恵と木村は再び連絡を取り合うことになった。しかし、彼からの返信はいつもどこか素っ気なく、彼が本当に自分に興味を持っているのかどうか、理恵には確信が持てなかった。木村の仕事が忙しいのは事実だろうが、それでも彼の冷たい態度が、理恵の心をじわじわと締めつける。
そんな日々が続き、理恵は次第に自分の気持ちに疑問を抱き始める。
「私は一体、何を求めているんだろう……」
48歳の大人として、過去の初恋に再び気持ちを寄せることが現実的なのかどうか。理恵は、自分の心が次第に閉ざされていくのを感じた。木村との再会は、理恵にかつての甘酸っぱい感情を呼び覚ましたが、同時に、それが今の自分にとって現実的でないことも彼女自身が理解し始めていた。
ある夜、理恵はいつものようにソファに座り、ふと過去のアルバムを引っ張り出してみた。そこには、かつての自分、そして木村の姿があった。卒業アルバムのページをめくると、あの頃の記憶が鮮やかによみがえってくる。
中学時代の木村の写真に目を留め、理恵は少し微笑んだ。彼は変わらない。優しさと落ち着いた雰囲気を持つ彼は、理恵にとって憧れの存在だった。しかし、今の彼は当時とは違う。理恵もまた、過去とは異なる自分であることを自覚していた。
「もう一度、彼に会いたい」
その気持ちは強くあった。だが同時に、彼との関係がどうなるかは、まだ分からなかった。
その翌週、木村から再びメッセージが届いた。
「週末に少し時間が取れそうなんだ。よかったら、どこかで会わない?」
その言葉に、理恵は胸が高鳴った。彼からの誘いは、理恵にとって小さな希望の光だった。木村が忙しい中で、彼女と会うために時間を作ってくれたこと。それだけで、理恵の心は少しだけ救われた。
「ぜひ、会いましょう」
理恵はそう返信し、週末の予定を空けることにした。彼との再会が再び訪れることに、期待と不安が入り混じった複雑な気持ちを抱えながら、理恵は自分の心の中にある閉ざされた部分が少しずつ解かれていくのを感じていた。
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土曜日の夜、理恵は久しぶりに胸の高鳴りを感じていた。約束の時間が近づくにつれて、心の中で様々な感情が渦巻いていた。福岡・六本松の小さなカフェで、木村と二人きりで会うという状況が、彼女にとってはまるで夢のようだった。高校卒業以来、連絡も取っていなかった彼と再会し、またこうして会うことになるとは想像もしていなかった。
理恵は鏡の前で髪を整えながら、服装に迷っていた。カジュアルすぎるのは気が引けるし、かといってフォーマルすぎるのもおかしい。48歳という年齢で、再び恋を意識する自分がどこか滑稽に思えた。しかし、それでも彼に会うのが楽しみだという気持ちは隠せなかった。理恵は、控えめな色のワンピースを選び、軽く化粧をして家を出た。
六本松の街は、週末の夜で賑わっていた。人々が行き交い、明かりがちらつく商店街の雰囲気が理恵を少しだけ安心させる。カフェの前に着くと、店内は静かで、外の騒がしさとは対照的だった。ガラス越しに見える木村の姿を見つけたとき、理恵の心臓は一瞬高鳴った。彼は一人でテーブルに座り、理恵を待っている様子だった。
「さあ、行こう」
自分にそう言い聞かせながら、理恵はカフェのドアを開けた。入ると、木村がすぐに気づいて手を振ってくれた。
「理恵さん、こっちだよ」
木村の声は、静かな店内に響いた。理恵は軽く微笑み、彼の前に座った。二人の間には、まだぎこちない空気が流れていたが、互いに気まずさを感じさせないように努めた。
「お待たせ、木村くん。仕事、大丈夫だった?」
「うん、無事に終わったよ。今日は少し時間が取れたんだ。ありがとう、来てくれて」
木村はそう言いながら、理恵にメニューを渡した。店内はこぢんまりとしていて、ウッド調の温かみのあるインテリアが広がっていた。理恵はメニューを見ながら、何か軽く食べるものを注文しようと考えたが、実際にはあまりお腹が空いていなかった。彼とこうして再び話すこと自体が、何よりも心を満たしていたからだ。
「どうしてもここで会いたかったんだ。あの時みたいに、また話ができるかなって」
木村の言葉に、理恵は微笑んだ。
「そうね、あの時みたいに。懐かしいわね、あの頃」
二人は自然と中学時代の思い出を語り合い始めた。部活や授業、文化祭での出来事――全てが遠い昔のことのようで、同時にまるで昨日のことのようでもあった。理恵は、話しているうちに自分が少しずつリラックスしていくのを感じた。木村もまた、以前と変わらず、彼女を見守るような静かな優しさを持っていた。
「覚えてる? あの時、リレーで転んだ話をしてたけど、実はあの時、僕もすごく焦ってたんだよ」
木村は、当時の体育祭で理恵がリレーで転んだ時の話をもう一度持ち出した。彼の話に理恵は笑いながら答えた。
「ええ、覚えてるわ。でも、焦ってたのは私の方よ。チームの皆に迷惑かけたんじゃないかって、すごく恥ずかしかったの」
「いや、そんなことなかったよ。あの時、理恵さんが笑って『大丈夫』って言ったのが、なんか強くてかっこよかった」
木村の言葉に、理恵は一瞬驚いた。あの恥ずかしかった出来事が、彼の記憶の中ではポジティブに映っていたことに、理恵は戸惑いを覚えたが、同時に心の中に暖かい感情が広がった。
「そうだったのね。自分では全然そんな風に思ってなかったけど……」
理恵は照れくさそうに微笑みながら答えた。木村の視線は昔と同じように優しく、彼女を包み込むような気持ちが伝わってきた。
注文したコーヒーが運ばれてきたとき、二人の会話は少しずつ現在の話題へと移っていった。木村は、東京での生活や仕事、そして福岡に戻ることになった経緯を静かに語った。
「結局、東京での仕事は一区切りついたんだ。大きなプロジェクトも終わって、少しずつ自分のペースでやれる仕事にシフトしたいって思ってた。それで、福岡に戻る決断をしたんだよ」
木村の話を聞きながら、理恵は彼の中にある変化を感じ取った。東京で成功を収めた彼が、なぜ福岡に戻ってきたのか、その理由には彼自身の心の中での葛藤や迷いがあったのだろう。彼は表面的には成功しているように見えても、その裏には何かしらの孤独や空虚感があったのかもしれない。
「東京を離れるのは、大きな決断だったんじゃない?」
理恵は慎重に尋ねた。木村はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと頷いた。
「そうだね。確かに迷ったよ。でも、結局、何か新しいことを始めたくてさ。過去に囚われるんじゃなくて、これからの自分を見つめ直したいって思ったんだ」
木村の言葉に、理恵は自分自身を重ねていた。彼もまた、過去と向き合いながら、新しい一歩を踏み出そうとしているのだ。それは、理恵自身がずっと抱えてきた感情と同じだった。彼との再会が、理恵にとっても新たな始まりを意味するのかもしれない――そんな期待が、彼女の心に小さな希望の光を灯した。
「私も、同じようなことを感じてた。ずっと仕事に追われてきたけど、何か足りないって思ってて……。でも、それが何なのか、まだはっきりとは分からないの」
理恵は、自分の気持ちを正直に話した。彼女がこんな風に自分の心を開くことは、ここ最近ではなかったことだ。だが、木村の前では自然とそれができる。彼の静かな優しさが、彼女をリラックスさせていた。
木村はそんな理恵の言葉を静かに聞き、そして頷いた。
「理恵さんも、たくさん頑張ってきたんだね。でも、そうやって自分を見つめ直すことができるのは、すごいことだと思うよ」
その言葉に、理恵は少し驚きながらも、感謝の気持ちを感じた。木村は昔と同じように、彼女の気持ちを理解し、受け入れてくれる存在だった。彼の言葉は、理恵の心に響き、彼女が抱えていた不安を少しだけ和らげてくれた。
時間が経つのも忘れるほど、二人は語り合った。過去の思い出と現在の自分たちを繋ぐ糸が、徐々に強く結ばれていくような感覚が理恵にはあった。
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