【完結】48歳からのラブストーリー
湊 マチ
第1話 再会
中村理恵は、パソコンの画面に映るカレンダーをぼんやりと見つめていた。今日も残業か、とため息をつきながら、自分のスケジュールに目を通す。48歳。広告代理店の管理職としての仕事は忙しく、最近は家に帰ってもただ疲れ果てて眠るだけの日々が続いていた。結婚はとうの昔に破綻し、娘は成人して家を出ていた。家族を持つことで感じるだろうと思っていた充足感も、独立後はもはや幻想のように遠ざかっていた。
「自分の時間が欲しい」と思っていたはずの彼女の心の中には、ぽっかりと空いた穴があり、その穴が次第に広がっているように思えた。
スマートフォンの通知音が響き、理恵は机の上に置いてあったスマホを手に取る。画面には見慣れない番号からのメッセージが届いていた。眉をひそめながらも、メッセージを開くと、そこには「久しぶり!中学の同級生、佐々木由美です」と書かれていた。
「由美……?」
懐かしい名前だった。彼女は理恵と同じ中学を卒業し、その後は別々の高校へ進学して、ほとんど会うこともなかった。中学時代、二人は特に親しいわけでもなかったが、共通の友達を通じて顔を合わせることは多かった。その由美がなぜ今、連絡してきたのか。疑問に思いつつも、理恵はメッセージを読み進めた。
「福岡の六本松に小さなカフェをオープンしたの。今週末、オープン記念の小さなパーティをやる予定で、もし時間があれば、ぜひ顔を出してくれないかな?懐かしい顔ぶれも集まる予定だよ!」
理恵は一瞬戸惑った。中学時代の同級生たちと会う機会など、これまでほとんどなかった。大人になってからは、それぞれがそれぞれの人生を歩んでいることもあり、特に再会を求めることもなく、自然と疎遠になっていた。だが、カフェのオープンを祝う会で、懐かしい顔ぶれが集まるという話には、どこか心が引かれた。
「どうしようかしら……」
声に出してつぶやきながら、理恵はソファに腰を下ろした。由美のメッセージに誘われるように、ふと中学時代のことを思い出す。あの頃、理恵はまだ純粋で、未来に対する漠然とした期待や希望に満ちていた。学校の校庭や教室で、友達と笑い合った日々が鮮明に蘇る。しかし、最も強く記憶に残っているのは、彼女が中学3年のときに密かに思いを寄せていた一人の男子生徒の姿だった。
木村裕也――彼の名前が、自然に頭の中に浮かんだ。理恵は、自分でも驚くほど鮮明に彼の顔を思い出した。あの頃、理恵はいつも木村の背中を目で追っていた。クラスメートの中で特別仲が良かったわけではない。むしろ、彼とはあまり話す機会もなかった。それでも、彼の存在が理恵の中学生活において特別な意味を持っていたのは間違いない。
木村はどこか落ち着いた雰囲気を持ち、いつも一歩引いて周囲を見守るようなタイプだった。理恵はそんな彼の静かな優しさに気づき、次第に惹かれていった。けれど、彼女の気持ちは結局伝えることはなかった。卒業式の日、彼に「好きだった」と告げる勇気は出なかったのだ。
「もう何十年も前の話じゃない……」
理恵は微かに笑いながら、自分の初恋を思い出していた。それからの人生は、恋愛も結婚も経験したが、初恋の甘酸っぱさは今でも特別なものとして心の中に残っていた。木村と再会する可能性があるのか?そんなことを考えたが、現実的にあり得るかは分からなかった。それでも、由美の誘いが、理恵の心を少しだけ動かしたのは確かだった。
理恵は、久しぶりに自分のための時間を過ごしてもいいかもしれないと感じた。仕事に追われ、家に帰ってもただ眠るだけの生活から一時的に解放され、懐かしい顔ぶれと過ごす時間は、少しの癒しになるかもしれない。
週末、理恵は六本松のカフェへ向かうためにタクシーに乗り込んだ。普段、六本松に行くことはほとんどなかった。福岡市内でも開発が進んでおり、昔の面影が少しずつ薄れていっている場所だ。理恵が車窓から見た街の風景は、中学時代とはまるで別物のように感じられた。
「時が経つのは早いものね……」
自分の声に驚くほど、理恵はふとした感慨に耽る。六本松に足を運ぶのは何年ぶりだろうか。中学時代、友達と映画を見に行ったり、放課後に寄り道をした場所だったはずだが、今はその記憶さえも曖昧になりつつある。
タクシーがカフェの前に停まると、理恵は深呼吸をしながら車を降りた。カフェの前には小さな看板が立てられており、「Yumi’s Cafe」と手書きの文字が柔らかく飾られている。明かりが漏れる店内からは、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「懐かしい顔ぶれが集まるって言ってたけど……」
理恵は少し緊張しながらドアを開けた。店内はこぢんまりとしていて、ウッド調の温かみのあるインテリアが広がっていた。中央には大きなテーブルが置かれ、その周りに見覚えのある顔がいくつか座っていた。佐々木由美がすぐに気づき、にこやかに理恵を迎える。
「理恵!来てくれてありがとう!」
由美は変わっていなかった。明るい笑顔と、昔からの人懐っこい性格がそのままで、理恵は少しホッとした気持ちになった。
「久しぶりね、由美。お店、素敵じゃない!」
理恵は微笑みながら、店内を見渡した。懐かしい顔ぶれが数人、すでに集まっており、みんなが理恵を見て微笑み返してくれる。思わず昔に戻ったような感覚が蘇るが、同時に現実の自分が48歳だという事実も重くのしかかる。
そして、理恵の目が自然と店の奥へと向いた瞬間、そこにいた人物に心臓が一瞬止まったような気がした。
木村裕也――彼がいた。
彼は変わっていた。だが、その優しげな表情や穏やかな佇まいは、あの頃のままだった。理恵は言葉を失い、彼の姿をじっと見つめてしまった。
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理恵は、目の前の木村裕也を見ている。まさか、この年になって再び彼に会うことがあるなんて、夢にも思わなかった。彼は少し老けていた。だが、あの静かな優しさを感じさせる表情は、中学時代と変わらない。理恵の心の中で、当時の記憶が鮮明に蘇り、鼓動が早まるのを感じた。
木村もまた、理恵に気づき、微笑んだ。
「中村さん、久しぶりだね」
その一言で、理恵は現実に引き戻された。「中村さん」という呼びかけに、自分たちがもう中学生ではなく、48歳の大人であることを痛感させられた。彼もまた、今は違う人生を歩んできた一人の男性だ。
「本当に久しぶりね。元気にしてた?」
理恵は何とか声を絞り出しながら、懐かしさと戸惑いが入り混じった気持ちを隠すように微笑んだ。木村は少し頭を掻きながら、軽く肩をすくめた。
「まあ、いろいろあったけどね。今は福岡に戻ってきて、少し落ち着いたところかな」
木村の言葉に、理恵は驚いた。彼が福岡に戻ってきているということは、再び彼と会う機会があるかもしれないということだ。だが、その思いは、すぐに現実の自分に引き戻される。彼と再び何かが始まるわけではない――ただの偶然の再会に過ぎないはずだ。
「そうなのね、戻ってきたばかりなんだ」
「うん。中村さんは?」
木村の問いに、理恵は少し考えてから答えた。自分のこれまでの人生をどう話せばいいのか。結婚して離婚し、娘も独立して自分は仕事一筋。そんな自分が、今ここで木村にどう映るのかが気になってしまった。
「私は……福岡でずっと仕事をしているの。広告代理店で管理職をやってるけど、まあ、それなりに忙しくしてるわ」
何とも無難な答えだ。木村はそれを聞いて頷いた。
「なるほど。相変わらず忙しそうだね。でも、成功してるってことだろ?」
理恵は軽く笑ったが、心の中では少し引っかかるものがあった。成功――本当にそう言えるだろうか。仕事は順調かもしれないが、それだけでは埋められない心の隙間があるのは確かだった。だが、今ここでそれを話すつもりはなかった。
「まあ、何とかやってるわよ」
そんな会話を交わしながら、理恵と木村は同級生たちの輪に戻った。周囲は和やかな雰囲気に包まれており、昔の話や近況報告が続いている。理恵は時折、木村の方をちらりと見るが、彼は他の友人たちと話している。自分もその輪の中にいるのだが、心の中では、彼との再会に対する驚きと、過去の思い出が次々と湧き上がってきていた。
中学時代、理恵はいつも木村のことを目で追っていた。彼は目立つタイプではなかったが、何か特別な存在感があった。教室の隅で静かに本を読んでいたり、グラウンドの隅で友人たちと楽しそうに話している彼の姿は、理恵の心の中でいつも輝いて見えた。
しかし、彼女は自分の気持ちを伝える勇気を持てなかった。木村は理恵が思う以上に遠い存在に感じていたし、彼女の気持ちを知ることはなかっただろう。あの頃、理恵は内気で、クラスの中心にいるような存在ではなかったからだ。
「昔の自分が、いかに無力だったか……」
理恵は苦笑しながら、自分の胸の中でそう呟いた。木村は彼女にとって、手の届かない憧れのような存在だったのだ。それでも、彼との再会によって、心の奥底に眠っていた感情が再び目を覚ましたのは確かだ。
「今さら、何を期待しているんだろう……」
理恵は自分自身を戒めるように心の中で呟いた。48歳の今、再び恋愛なんてあり得ない。少なくとも、自分にはそんな余裕はないし、木村もまた別の人生を歩んできたのだから、昔のように特別な感情を抱くことはないはずだ。
だが、心のどこかで「もしも」という期待が消えない自分がいることに気づいていた。
カフェでのパーティは次第に盛り上がり、昔話に花が咲いた。理恵も少しずつ緊張が解け、由美や他の同級生たちと話しながら笑顔を取り戻していく。話題は次々と変わり、皆が過去の思い出を懐かしみながら、現在の自分たちについて語り合っていた。
「中村さん、あの頃の話、覚えてる?」
ふと、木村が理恵に話しかけてきた。彼の顔は少し赤みを帯びていて、ビールを飲んで少し酔っているようだ。
「どの話?」
理恵は少し戸惑いながらも微笑んで聞き返す。木村は楽しそうに笑いながら答えた。
「体育祭のときさ、君がリレーで転んだの覚えてる?」
その瞬間、理恵は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。あの事件――彼女がリレーの最中に転んでしまい、チームが負けたのは、自分にとって今でも忘れられない屈辱的な思い出だった。
「覚えてるわよ。あのときは本当に恥ずかしかった……」
理恵は苦笑しながら答えたが、木村は笑顔のまま言った。
「でも、あれはみんなの記憶に残る素敵な思い出だよ。あのとき、中村さんが笑って『大丈夫!』って言ったのが、なんかすごく印象的でさ。あの笑顔が、みんなを励ましたんだよ」
木村の言葉に、理恵は驚いた。自分の中では苦い思い出だったのに、彼の記憶の中では、むしろ良い思い出として残っているという事実に戸惑いを覚えた。
「そうだったんだ……」
理恵は少し照れくさそうに呟いた。木村の優しさが、その言葉の端々から感じられた。そして、その瞬間、彼女の心に再び幼い頃の感情が蘇った。あの頃、彼のそんな優しい一面に惹かれていたのだということを、改めて思い出した。
夜が更け、パーティはお開きとなった。由美がカフェの片付けを始める中、理恵と木村はふと二人きりになった。周りの同級生たちも次々に帰路につく中、二人の間には少しの沈黙が流れた。
「久しぶりに会えてよかったよ、中村さん」
木村がそう言って微笑んだとき、理恵は思わず心臓が跳ねるのを感じた。あの頃、言えなかった気持ちが胸の奥でざわつき始める。
「私も……本当に久しぶりで、嬉しかったわ」
彼女の声は自然と少し震えていた。木村はそのことには気づかなかったようで、続けて言った。
「また、みんなで集まれるといいな。これからは福岡にいるし、会う機会も増えると思う」
理恵は静かに頷いた。彼との再会がこれで終わりではないことを知り、心の中に小さな希望が芽生えた。再び木村と会う機会があるということ。それが理恵の心を微かに動かした。
「そうね、また集まりましょう」
そう言い残して、理恵はカフェを後にした。外は夜風が少し冷たく、秋の訪れを感じさせたが、彼女の心の中はどこか暖かさで満ちていた。
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