八章

69. 哲学って

 ハヤッタは浜辺に打ち上げられたくじらのように疲れたと思った。肉体的にもそうだが、精神的により疲れた。骨を折ってようやく実現にまでたどりつけた婚姻だったけれど、結果的にはサディナーレ姫の若い命を終わらせてしまうことになった。


あの野心家の父王と兄王子のために、長い間、斎院としてひたすら仕え、ようやくグレトタリム王との結婚が決まり、新しい生活が待っていたというのに。姫が未来にどのような夢を抱いていたのかはわからないが、それは実ることなく、砂漠に咲く花のようにはかなく消えてしまった。この姫はどんな人生を生きたのだろうか。火の玉になって燃えたと聞いたが、その最期には、何を思ったのだろうか。残酷なことである。なんとお可哀かわいそうに。


 ハヤッタには、昔、愛した女性がいた。今でも、彼女のことを思うと、人生の無情がひしこしとこみあげてきて、何を見てもはかなく思えて仕方がなくなる。


 ハヤッタは少し休みたいと思った。

 思い立ってリクイを呼んで、彼が育った村を見たいと言ってみた。

「ぼくの村なんかでよいのですか。砂漠のほかには、何も見るところなどないですよ」

 と彼は尻込みした。

「そういうところへ、行きたいのですが、予定がありましたか」

「ありましたけど、……大丈夫です。ハヤッタ様がぼくの村に来てくださるのは、うれしいです」

 というわけで、一泊二日で、アカイ村に行くことになったのだった。


 ハヤッタの四頭立ての馬車が宮廷を出たのと入れ替わるように、サララがやってきた。リクイが宮殿にいないと知ったので、サララはニニンドの部屋を覗いてみた。彼は本を持ったまま、部屋を歩き回っていたが、サララを見つけると棒立ちになったが、一瞬後にはうれしそうな顔になり、駆け寄ってきた。


「その笑顔はなに。母親を見た時の子供の顔だよ。わたしはあんたの母さんじゃないからね」

「いつものサララだ。安心した」


「安心って、なに。まあ、いいや。リキタがいなくて、あんたがひとりでここにいるなんて珍しいね」

「うん。リクイはハヤッタ様とアカイ村に行ったんだ」

「どうしてアカイ村?何にもないのに」

「あるじゃないか。サララとリクイの村だよ」

「まぁね。ニニンドはどうして一緒に行かなかったの?あの爺さんが苦手なの?」

「爺さんはひどいよ。まだそんな、歳ではないよ」

「でも、嫌っているじゃない」

「いいや、嫌ってはいない。苦手意識なんか、ないよ。いや、あるかな。それに」

「それに、なに?」

「国王の妃になる姫が襲撃されてから、こっちの警護も厳しくなって、私が動くとぞろぞろついてくるから、前のようには遊びにも出かけられなくなった」

 ニニンドは笑いながら言ったのだが、サララの目が冷たくなった。

 何かものすごい失言をしたような気がして、えっ、自分は何を言ってしまったのだろうか。

「遊びにって」

 あっ、そこか。

「遊びにとか言った?外に出かけられないって言ったんで、ためしてはいない。ほら、勉強があるだろ」

 ニニンドは哲学の本をかざした。


「彼って、どんな人?」

「ハヤッタ様は私を捜しに来てくれた人だし、とても信頼のおけるお方だ」

「信頼がおける人が好きな人、とはかぎらないよね。リキタはひとりで大丈夫かな。わたし、追いかけようかな」

「大丈夫だよ。あのふたりは本が好きだし、よく考えるし、共通するところも多いから、たまにはふたりだけのほうがいいのではないかと思ったんだ」

「へぇっ。意外と思いやりがあるのね」

「意外かい」


「リキタの家には爺さんが残した本がたくさんあって、リキタはよくそれを読んでいた。事情があって、あの子は学校に行けなかったから、本を読めば、何とかなると思っていたらしい。律儀な子」

「時々、その爺さんの話が出てくるけど、彼っていったい誰?」

「ちょっと変わった人で、近づけない感じだったから、よく知らない。リキタも子供だったし、よく知らない、というか、リキタは爺さんを恐れていた感じ。ジェッタなら何か知っていると思うけど」

「どうして恐れていたの?」

「知らないけど、不思議な爺さんだった」

「世の中には、不思議な人ってたくさんいるよね」

「うん、あんたもそのひとりだ」

「サララもだろう」

「言えてるかも」

 ふたりは笑い、なぜか楽しい気持ちになった。


「どうして本を持って歩き回っていたの?」

「勉強していたんだ」

「ニニンドに勉強。似合わねー」

 サララが、がははと笑った。


 リクイは頭がよく、理解するのが早いから、こんな日には勉強をして追いつかないといけないのだとニニンドが真顔で説明した。

「あの子、飲み込みが早いからね」

「うん。時間がかかるんだよ、こっちは」

「リキタは理論に強いのよ。わたしは静より動、実践派」

「うん、わかる」

「ところで、深刻な顔をしていたけど、何の本を読んでいたの?」

「哲学」


「哲学って、どんな学問?」

「うーん、早く言うと、人はなぜ生きるのか、なぜ生きるのか」

「へー。そんな学問があるんだ。リキタが好きそう」

「彼は得意だよ。哲学者の言葉をたくさん覚えているし」

「哲学者って、どんなことを言っているわけ」

「無知は悪である、とか」

「ああ、知らないということは悪ということ……そうかもしれない。子供の時には知らないが言い訳になるけれど、大人になったら、知らないではすまされないものね」

「でも、知らないと自覚していれば、それは知っていることなんだ」

「哲学者って、理屈っぽいねー」

「たしかに、そう言える」

「知らないと自覚していると、知っていること。へー、そうなんだ。たとえば、わたしがニニンドのことを知らないと自覚していれば、それは知っているということなの?」

「それは私を知っているということではなくて、知らない事実をわかっているということだろう。哲学者はもっと深い次元で、真実について語っているのだと思うよ」

「なんか、少し利口になってきたみたい」

「そうかい」

「あまり利口にならないでほしい。遠くに感じてしまう」

「そこは安心してほしい。利口になろうと思っても、なれないから」


「わたし、難しいことはわからないけど、ニニンドには自分の哲学はあるの?」

「まあ、あると言えば、あるかな」

「わたしもある。ニニンドの哲学って何?」

「サララのを先に教えて。こっちはあまり自信がないから」

「目の前のことをがんばる、ことかな。これ、哲学になってる?」

「なってる。すごくなってる。ああ、わかる」

 彼がうれしそうに頷いた。


「ニニンドのは?」

「いやにならないこと」

「どういうこと?」

「やり始めたら、途中で投げ出さないこと」

「なるほどね。哲学って、おもしろいかもしれない」

「哲学かどうかはわからないけど、……」

「哲学だよ。そういうことにしようよ」

「うん。そうだね」


「なっ、屋根に行かないか」

「わたしが上れるわけないないじゃん」

「高いところがこわいの?」

「こわいはずないけど、上ったことがない」

 サララの視線がちらりと右足に走った。


「私は宮廷の屋根には詳しいんだ。どこが上りやすくて、滑りやすいとか、何でも知っている。ちょっと試してみないかい」

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