それだけで十分なんだ。

第2話

「ただいまー」


玄関のドアを開けて、多分奥にいるリトくんに向かって言った。


言った筈だけど、口から零れ落ちた言葉は声帯を震わせることなく転げ落ちたみたい。


だって自分の耳にも届かないそれは、声じゃない。


伝える、という役目を果たせない代物。


玄関に座ってブーツの紐を解こうとした。


でも、いつもしていることなのに今日は指先に鉛が溜まったみたいに重たくて、紐は解けるどころか絡まってしまう。


イライラ……するのも気力が要るのかな?今日はただ、とても気持ちが沈む。


こうして下を向いていると、涙袋がじわんと熱くなってくる。


眼球が涙の海に溺れかける一歩手前。


「おかえり、ユナ」


耳に届いたのは、低い、けれど柔らかみのあるテノール。


頭をほんの少しあげると、視界に現れたオニキスの瞳が柔らかな目蓋の奥から私をジッと見つめているのが見えた。


「ただいま、」


今度は届いた自分の声。


リトくんが目を細めて微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る