エンゲージ 2
十時を回り、国崎はぼんやりとテレビを眺めていた。衛星放送の電波は雨の密度で受信出来なくなったようだが、地デジはしぶとく映り続けている。
夜のトップニュースは明市に発令された洪水警報だった。記録的な集中豪雨によって、出口の狭い明市の道路・鉄路は完全に寸断された、とレインコートとヘルメット姿の局員が山を隔てた南側の町でレポートしている。
『……規制がかかっており、国道JR共に不通です。間も無く高速も通行を止められ明市は陸の孤島となる見通しです。市内、付近の方々は土砂崩れなどに十分ご注意……』
何をしてるんだろう? と国崎はぼんやり思った。ここでテレビを見ていたら琴美がやって来るって? 本当か? と思うと、何故かふふっと息が漏れた。
――罰なんじゃないのか。
下らないとは思いつつも、そう心の中で言葉にする以外無かった。ある部分で琴美を避けてきたのは明らかだ。俺の弱さ、覚悟のなさが、いま罰となって……。
あれ、と言葉が出る。画面のレポーターが消えCMになっている。
「いたの?」
突然後ろから聞き知った声がして、国崎は背筋を震わせる。見開いた目を数回瞬かせゆっくりと振り向くと、そこにはずぶ濡れな以外は、昨日と少しも変わらない様子の琴美が立っていた。
驚いて声も出せない国崎に、その豊かな唇を少しほころばせると、人差し指を立てて唇にあてがう。
「テレビ見てて」
姿も見られていることを思い出し、国崎は捻った体を慌てて戻すと左手で顎をいじり何事も無かった風を装った。だがテレビ台のガラス扉には洗面所へ入る琴美の後姿が映っている。上着だけを着替え、また台所に立つと、冷蔵庫から何かを取り出し、包丁を取ってそれを刻み始めた琴美はいつものように鼻歌まで歌いだす。国崎の心臓は速く大きく鼓動する。
――見えていないのか? 琴美が
強烈な疑問が沸き上がり、声はそれに答えた。
「見えて無いよぉ。ここ外から見えないんだもん」
しかし、それは琴美の声では無かった。
――もっとずっと幼い声……幼い。
「そうだよ。昨日は楽しかったなぁ」
まるで地震のように国崎の手が揺れだした。慌てて顔にあてがっていた手をちゃぶ台の下に引っ込めるが、揺れはすぐ全身に及ぶ。
――もう、間違いない。琴美ちゃんじゃない。あの子だ
「大丈夫? 寒い?」
声は琴美に戻っていた。国崎は何かがチリチリと飛び交う視界の中で、必死に琴美の後姿を捉え頭の中で念じる。
――琴美ちゃんはどうなった?
「ちょっと説明が難しいけど、見たとおりだよ」
――まさかお前が。
「なあに?」
――何がどうなったのか教えてくれ。あんたは何者なんだ、いや、あの子なんだろう? 美月ちゃんなんだろう? 琴美はどうなったんだ、何をどうすればいいんだ。
「隼人さんは、どおしたいの?」
――琴美をかえしてくれよ! そしてもう俺たちに係わらないでくれ。
「琴美さんがだいじ?」
――ああ、それだけでいいんだ。もうそれだけで。
「隼人?」
――琴美ちゃん?
テレビ台のガラスに映る琴美の後姿を、国崎は凝視し続けた。それはしゃがんで、シンクの下の扉を開き料理酒を取り出すと鍋に注いだ。
背中を向けたままで黙っている国崎を、琴美は振り返る。聞こえてるの? と何度か尋ねるが首を捻ろうともしない様子を見て、彼女の眉間に皺が寄る。そのまま彼女は歩み寄ろうとした。
「だめだ、来るな!」
汗で濡れた掌を握り締め、国崎はとうとう叫んだ。琴美は電気が走ったように体の動きを止め、警官達にも緊張が走る。時が止まったような重い沈黙を初めに破ったのは人見の無線だった。
『国崎君、琴美が現れたのね? あなたのすべきことはわかってるよね。本人含め誰も怪我の無いように説得し、自首させる。落ち着いて』
イヤホンを通し強烈な意志が国崎にも伝わる。あのふざけた一段高いところから威圧するような調子では無かった。
やっと呼吸が出来た気がする。
「わかってます。やります」
なにを? と動きを止めたままの琴美が言うと、国崎は首を回して目線を合わせ、琴美の座布団を叩いた。訝しげな表情を作りながらも彼女はガスのスイッチを切り、それに従う。ちゃぶ台に顔を伏せ立てた親指で眉間を支えていた国崎は、意を決したように勢い良く首を上げた。
「琴美ちゃん、なんだな?」
「誰に見えるの?」
「今、これ……この状況。君はわかっているのか?」
「何が?」
「今までどこに居たの?」
「どこって――あれ? 女の子は、原田さん」
「それは昨日だよ」
「何言ってるのよ、もう。あれ? なんで私、こんなにずぶ濡れ……」
彼女は少し笑った。だがその顔は見る間に動揺と不安の影を帯び始める。
視線は定まらず、腰を浮かせたり手を見たりしながらも、何か言おうとするがその唇は隙間を開けなかった。
「琴美ちゃん。あの子をここに連れてきて、食事してテレビをみて。その後どうしたか覚えてる? 俺ここで寝てしまったようで、朝に起きたら君、居なくなってたんだ。あれから何をしてたの?」
落ち着かない彼女の動きが突然止まり、奥二重の大きな目が少し細くなったように見えた。そして彼女は立ち上がると、戸棚から化粧品の入ったポーチと化粧鏡を取り出しまた座る。
「ねえ、答えてよ。いったいどこで何をしてたの?」
食い下がる国崎に構わず琴美はちゃぶ台に化粧品を乱暴にぶちまける。そしてアラビア文字が書かれた小瓶を取り上げると、真っ黒に着色した棒を小瓶から引き抜いた。
「これねえ、コホルっていうの。中東のお化粧品だよ。すごいでしょ」
琴美は嬉しそうにそういうと、上瞼にそれを慎重に塗っていく。
「それより、何をしていたのか教えてよ。じゃないと……」
「じゃないと?」
両瞼の際にくっきりとラインを入れた琴美は、それに続けて目尻に長いラインを入れ始める。
「じゃないと、大変なことに……大丈夫?」
目尻にラインを引き終わった琴美は、瞳の上下にも縦ラインを入れ始める。真剣な眼差しで鏡を覗きながら発した言葉は、面倒そうな溜息が混じっていた。
「大丈夫なわけないでしょう? もうくたくたよ。今日は大勢殺したからね。――ねえ、綺麗でしょ?」
目に十文字を施した琴美の顔が国崎に向き、ぎらりと八重歯が光る。思わず仰け反った国崎のイヤホンから人見の声が鳴った。想定内だ、踏ん張って、というその声に押され体勢を直した彼は一言「自首しよう」と言う。
「嫌だよ。あたし悪くないもん。あいつらが……あいつらのほうが悪いんだもん!」
持っていた化粧品をちゃぶ台に叩きつけ、口を尖らす琴美を見て国崎は言葉を失った。
その口調や仕草は明らかに幼い小学生のそれだった。あぐらをかいて体を前後に揺すりながら唇をめくり上げてフクレている二十四歳の女性に、掛けるべき言葉が見つからない。
しかし、一瞬の動揺は直ぐに怒りへと変わっていった。
まただ。と国崎は思う。またこれだ、勝手に俺に擦り寄って来たかと思えば、またとんでもないことを仕出かして俺の平穏をぶち壊す。俺の周りに来る奴は小さな頃から大体こんな奴らばかりだ。
気が付けば拳は握られ、無意識のうちにそれはちゃぶ台に振り下ろされた。
「ふざけてる場合じゃないんだよ! もう琴美ちゃんだろうが美月ちゃんだろうがどっちでもいい!」
頭がふらつくほどに、渾身の力を込めて国崎は叫んだ。
しかし、それに答えたのはいつもの琴美の笑い声だった。
笑いながら琴美は唇に真っ赤な紅を唇に塗りたくり、正面の掃き出し窓を開けると、怒鳴り出した。
「こそこそしてないで出て来い! 汚ねえ犬共め」
国崎はとっさに琴美の腰に掴みかかり、ドアから引き離すと背中に壁を背負う。
「危ないって。やつら狙ってるんだ」
「だから?」
「だからって……」
「知ってるわよ、そんなこと」
琴美は国崎の足の間で座ったまま首を少し落とした。間も無く雨の音に混じって、男達の動揺した声が聞こえてくる。
「何やってる、葛西! おい葛西、銃を降ろせ!」
それに琴美は怒鳴り声で答える。
「いい? そいつはあたしの盾になる。見えてる? 頭に突きつけた銃はあたしが危険を感じた瞬間発射されるわよ」
一番窓に近い位置に居た葛西は、銃を自分のこめかみに向けたまま、泥酔したような足取りで部屋から溢れ出る光に吸い寄せられて行く。必死に叫ぶ周りの同僚にも全く反応を示さなかった。
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