レジスター 5
春野は肘を支えられ、よろよろと柔和の工場事務所へと歩いた。緑の目がこちらをみているのではないかと、恐怖で押しつぶされそうではあったが、男から伝わるぬくもりに集中し、なんとか平静を保つ。やっと明るい工場事務室に入り、体の力を抜く。広い事務所には、まだ四、五名が残って仕事をしていた。数名は二人に気が付くと、顔を上げ歓迎の微笑みを向ける。
「どうしました、課長代理、いきなり女の人連れて」
「いや、この人が外にいらしたのが見えたんで」
パーテーションで簡単に分けられた応接コーナーに通された春野は、疲れた顔の男性社員が運ぶタオルや熱いコーヒーに恐縮する。
「いきなりお邪魔して……申し訳ありません」
機械オイルの臭いが漂う作業服の男達は、顔の前で手を振ると屈託の無い笑顔を向けた。
そりゃあサラリーを貰って働いてる一人ひとりは良い人だろう、と春野は思いなおす。柔和の人全員が小鬼のような者の訳が無い。
「それで、車、どうしましょうね」
課長代理と呼ばれた青年が、眉間に皺を寄せてたずねてきた。どう答えようか迷って、言葉を出せない春野に、男は更に言う。
「見てきてもいいんですが? えっと……お送りしましょうか?」
デスクに戻った男達がはやし立てる。
「あ、いや。そういうことじゃ無くてですよ? みなさん」
誰かが、いいんじゃないの? と声を上げると、皆が一斉に笑う。
「いやいや、冗談は置いといて。洪水になるかもだから、皆、もう帰らないとだよ?」
遠くからの声に頷いて、青年が春野に向き直る。
「どうしましょう?」
「じゃあ、あの。警察署のところにもう一台車あるので、そこまで連れて行って頂いてもいいですか? あつかましくて申し訳ないですけど」
「大丈夫、全然申し訳なくないですから」
男は立ち上がるなり、手で待っててとジェスチャーをして、外に飛び出した。その後姿に春野は少し笑みを漏らす。
間も無くシルバーのドイツ車が入り口へ付けられ、中から青年が手を振っているのが見えた。春野はタオルを畳んでテーブルに置くと、荷物を抱えて事務所の面々に頭を下げた。
「車、狭くてすいません」
「ツーシーターですね」
「はい、乗り心地も良く無くて」
そう言ってはにかむ男の横顔は春野とあまり変わらない年齢に見えた。
「課長さんなんですよね?」
「ああ、代理、ですよ。七光りってやつで。叔父があそこの重役だったんで」
「だった? んですか」
「はい、ちょっと事件でですね。あ、庄野薫と申します」
「あー……」
言葉が出そうになるのを堪えて、春野も改めて自己紹介をする。
「なるほど。取材だったんですか。そうですか」
「あの、本当に大変な時に、ご面倒をおかけして……」
「いやあ、何も謝られることは無いですよ。正直俺も仕方ないかなくらい思っちゃってますし。いろいろお調べになったでしょう? あの悪い癖とか」
「はい失礼ながら」
「やっぱり、因果応報ってやつでしょうね。あ、寒くないですか? 暖房を――」
春野は薫に微笑みを返しながら、ぼんやりと国崎を思い出していた。今頃どこで何をしているんだろうと視線を雨に滲む遠くの信号機へと飛ばす。その緑色の光が黄色になった時、辺り全体が真っ白に光り、直後に雷鳴が空気を揺らした。
「うわ! 近くに落ちましたかね、これは」
ハンドルを抱え込んで空を見上げている薫の腕を抱き寄せ泣き出したい衝動を抑え、春野は少し笑った。すると空っぽだった腹がギュっと鳴る。少しの沈黙の後二人は声を上げて笑う。そして車はファミレスへと向かった。
「田舎なもんで、こんなとこしか無くて」
「いいえ、お腹減ってるからどこでも」
”鞍馬”と座った席が見えない所へ自然と足が向く。薫を後に従えているのに気が付き、足を止めて赤くなった顔を隠すと、彼は「どうぞお好きな席へ」と微笑んだ。
ウエイトレスの指示を無視して壁際に陣取る。薫は、急にマジメな顔になって春野を見据える。
「なんか俺が知ってることで記事になりそうなことあるかなあ?」
「有難う。でも、もういいの」
「え? いいんですか」
「うん、なんかヘビーすぎっていうか。人が死んでどうのってのは、やっぱり大きな新聞社辺りがちゃんと報道して、わたし達みたいなとこは、噂みたいなのでも流してれば」
「へえ、そういうもんですか。俺は媒体なんかどうでもいいと思うけど。問題は真実が書かれてるかどうか! とかな気がする」
「そう……ね、そうだと思う。でも、この業界も色々とね」
「そうでしょうね。あんな工場でもやっぱり色々とね」
また二人は笑い、同じ洋風の定食を頼んで、それを頬張った。
「薫さんいつもこんな食事?」
「大体そうですね、彼女も居ないし」
「そうなの? カッコいいのにね」
「そうかなあ。会社じゃ席に見合う仕事出来ないからって嫌われてるし、街に出れば大半の人に嫌われてるし」
口に手を添えて声を殺す薫の顔が春野のニガ笑いを誘う。こんなやり取りが率直に楽しいと思えた。
こんなに楽ちんな会話は何年ぶりだろう、と記憶を辿るが過去にこんな思い出は見当たらなかった。仕事を全て投げ出して高級外車の助手席に逃げ込んだずぶ濡れのお姫様だものな、と自分を形容してまた心の中で笑う。怒りに任せて駆け出した会社のビルも金堂達の蛮行も、彷徨う緑の目すら、どうでも良くなっていく。胸の中心に光が射してそれが全身を暖めていった。
――この人、わたしが欲しいかしら?
空になった食器を押しのけながら、春野はそう思い、少し顔が熱くなる。
「じゃあそろそろ行きましょうか」
「あ、どこへ?」
「どこって……警察署の辺りでしたよね、確か」
春野は自分が表情を無くしているのに気が付き、慌てて口角をひっぱり上げる。
何を考えているんだ、と自分を諌める。遊んでいる暇など無かった。
今現在も訳のわからないサイコキラーや、エクリプス達が蠢いている、こんな陰鬱な街など一刻も早く逃げ出すんだ、と、咄嗟に後ろを向き、自分の頬を一回張り飛ばした。
驚いて振り返る薫の視線を後頭部で感じながら、携帯を取り出す。道路情報を見て高速がまだ通行できることを確認した春野は、大股で薫の車へ向かった。
「どうしました? なにか約束でもありましたか」
「いえ……いや、出来たら明日の朝は定時で出社したいな、と」
「あ、なるほど。なんかお引止めしちゃいまいたね。こんな天気なんで今日は泊りかなと思っちゃって」
「いえ、本当に楽しかったです。お世話にもなったし、必ずお返しさせてください」
「じゃあ、また何かありましたら、連絡を――」
慌てて名刺を出す薫の仕草も可愛いなと春野は思う。車は水溜りの水を跳ね上げながら警察へと向かう。そして雨に濡れたピンキーの横腹をヘッドライトが捉えた。
「あ。ピンクのクラウン」
薫が目を丸くする。
「ああ、あれは借り物で! 伯父の趣味で、私のじゃあないですよ」
手を振り回しながら言い訳をする春野の首に、薫の腕が回った。そのままその顔が近づくと、薄い唇が春野の唇にそっと合わさる。その感触と、カシミヤのジャケットの生地を自分の手のひらが滑る触感だけが一瞬春野を支配する。その長すぎもせず短すぎもしない時間が終わると、目の前には青年の笑顔があった。
「どうか、連絡してください。待ってます」
何をどうしたのかわからないままに春野はピンキーを走らせていた。名刺を貰った! と思いだし慌てて湿っぽいジャケットをまさぐる。胸ポケットにそれを見つけバックの奥に仕舞うと、春野はラジオのボリュームを上げて、車のまばらなバイパスを高速のランプへと飛ばした。
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