春野 4



 据付の電話と携帯のバイブ音が一斉に鳴り春野は飛び起きた。ほんの少しうとうとしたと思っただけなのに時計はすでに八時を回っている。


 切れてしまった携帯を確認して部屋の電話を受けると、カウンターの女性がおはようと耳に刺さる声を張り上げる。



『春野さん、寝てた?』


「はい。いえ、大丈夫です」


『話はついたから、すぐにでも』



 春野は礼を言って電話を切ると、身支度も早々にロビーへ向かった。



「色々とありがとうございます」


「いえ、いいのよ。ここの斉藤さん。行けばすぐ合わせてくれるっていってたから。まあちょっと変わった人だけど、悪い人じゃ無いから」


 貰った施設のパンフレットを見ながら春野は車へ向かった。日光の下で見ると大きなピンク色の車は恥ずかしいと思いつつ、席についてバックの中身を確認する。



「ボイスレコーダー、メモとカメラ。写真は……撮れないかな」



 携帯を取り上げると、会社に電話を折り返す。



「春野です。デスクですか」


『ああ、もう現地に入ってるの?』  


「はい、これから原田満与に話を聞きに行きます」


『そう。まあいいや。満与ってのは?』


「家の所有者です。高齢らしいんで情報はあまり期待できませんけど」


『なるほど、わかった、そのまま進めてくれ。あの原田猛の親族だ、良いネタ期待してるぞ』


「はい、頑張ります」



 電話を切るとすぐにポータルサイトを確認する。やはりこの事件の情報が流れまくっていた。春野は一言付け加えてやればよかったと舌打ちしたが、いつに無く神妙なデスクの口調を笑うに留めた。




 ケアセンター「赤城の里」は、明市の南を囲うように伸びる山地の麓にあった。周りを田んぼと果樹園に囲まれたちょっとした台地のような立地で、北にあるこちら側より少し高い山地や東西に細長く伸びた市街地、それを貫く明神川が一望出来る。


 ちょっとした景勝地だなと、春野は深呼吸する。



「お気に召しますか? アカリの風景は」



 柔らかい声が後ろから掛かる。



「あ、ご無理お願いしまして。『コンタクト』の春野です。――いい景色ですね」


「そうでしょう。こんな盆地なんで、夏と冬は厳しいんだけど、お米も果物もおいしいんですよ」


「そうですか。春にでもまた来たいなあ」


「ええ、是非。まあ街の形が……人の目みたいで怖いとか、言う人もいますけれど」



 返答に困りながらも、明るくこじんまりした施設を見回す。



 ――私も老後はこんなところで。



 夜に感じた田舎街の憂鬱な印象は柔らかな朝日に拭い去られ、春野は知らないうちに笑顔をこぼしていた。



「満与さんは原田代議士の……」


「ええ、二番目のお姉さんです。長女さんはお亡くなりになって、下にも妹さんが居るそうです、猛さんが末っ子なんですって。お忙しい人だからこちらには滅多にお顔は出しませんけど、よく猛さんのお話されるんですよ。猛さん、こちらに来てらっしるけどお時間が取れるかどうか」


「そうですか。なるほど」



 斉藤は柔らかな物腰のまま、次から次へと話し続ける。


 婿養子が明市の出身で三十五年前に越して来たこと。


 その夫の事業が大成功を遂げたことと、満与が夫から受け継いだ膨大な資産。


 この施設も満与が大部分を出資していること、それが元になって猛の出馬がこの選挙区に決まったこと。しかし、最近の家庭の状況については巧妙に話を逸らしていた。



「ここに、原田様に来てもらってます。でも、お話になられるかどうかはわかりませんよ」


「はい」



 ゆっくりと開けられた扉から光が零れる。十畳ほどの部屋には据付の本棚とライトグレーの簡素な布張り応接セットが置かれ、満与は窓際の三人掛けの真ん中にちょこんと座っていた。斉藤は、両手を前で結び深々と頭をさげる。いくら出資者といってもやり過ぎではないかと春野は思ったが、ホテルのおばさんが言ってた変った人というのははこれか、と合点がいった気もする。



「原田様、先ほどお伝えしたお客様です」



 表情の無いしわくちゃの顔が、ゆっくりと春野に向いた。



「春野と申します。インターネットの……いえ、新聞記者みたいなことやっています」


「記者さんかい」



 衰えた様子からは想像できないしっかりとした声に驚かされた春野は、おどおどと笑顔を作る。



「まあ、座りなさいな。東京から来たんだって?」


「はい、失礼します。――東京から来ました」   


「遠いところを、なんでこんなばあさんに会いに来た?」


「あ、あの、昨日の家宅捜索についてお話を伺えればと」


「家宅捜索?」


「はい。あの、大変でしたよね。警察とか沢山来ちゃって」



 満与の視線は、テーブルのあられが盛られた菓子鉢にゆっくりと落ちていった。



「交差点有り」


「え?」


「踏切有り、横風注意、徐行、車両通行止め」



 思わず斉藤に目を向けるが、困ったような笑顔が返ってくるだけだった。



「あの、原田さん。昨日はお家に居ましたか?」


「車線減少、追い越し禁止」


「それ以前の清子さんとお子さんの生活は、どのようなものだったでしょうか」


「通行止め、駐車禁止。……清子?」


「はい! 清子さんです。清子さんはお宅で一緒だったんですよね?」


「ああ、そうだよ。ヒミは私の孫でね。その美しさといったら」


「ヒミ? ヒミさんて言うんですね。お孫さん。ええと漢字は……」


「あんた、ヒミを知ってるのか? あんな綺麗な目をした子供はきっとお釈迦様の生まれ変わりに違いない。ヒミは良い子だ。なのに二郎や清子ときたら……」



 春野は、昨夜会ったあの子を思い出していた。それは何故か、すでに遠い過去の記憶を思い起こしているような、薄ぼんやりとしたイメージだった。


「はい。あのそれで、清子さんと、そのヒミさんの暮らしぶりは――」



「警笛区間!」



 まるで若い女性のような、よく通る輝くような声で満与は叫んだ。思わず身を硬くした春野をその目はしっかりと見据える。



「戦争は避けられるものでは無い。時期を延ばせばかえって自らが不利となる。残酷であることが必要である」



 皺に覆われたその顔は毅然として前を向き、その茶色く退色した瞳は春野を射抜く。



「人間は、可愛がるか、さもなけば亡ぼされるべきもの。君主の権力は甚だ大である。何故ならば――」



 満与は突然立ち上がり、右の手は拳に握られた。



「何故ならば、その国には君主ほど尊いものが他に無いからである!」



 満与は言い終わると、ぱたりと座り込み元の老いた女性に戻った。斉藤が話しかけてもそれ以上の言葉は出ず、また最敬礼する斉藤を尻目に、春野は仕方なく部屋を後にした。


 まだ心臓が空回りしているかのような春野に、斉藤が唐突に呟いた。



「原田様は、高校の先生でらっしゃいましたので」


「そうなんですか」


「歴史の先生でした。だからきっと教科書かなにかの一節だと思うんです」


「それにしても……亡ぼされるとか、正直ちょっと怖いです」


「そうですね。道路標識はいつものことなんだけど。――あまり気になさらずに」


「あの、ご家庭のことはなにか御存知ですか?」


「はあ、まあヒミさんと呼ばれているのはお孫さんの美月さんのことですね。双子だったのですが片方は死産されたとか」


「では、あだ名のような?」


「そう思います。これ以上のことは、知らない、ということにさせてください」


「まあ、そうですよね」


 


 言葉すくなに挨拶を終えると、春野は車に戻った。情報も得られず、満与の迫力におじけた心は、周りの風景さえ味気ないものに変えていた。



「行きましょピンキー」



 ハンドルをさすって、シフトをドライブに入れると、春野は溜息をつく。



「ピンキーだって、馬鹿みたい」



 三百馬力のエンジンは春野に少しだけ安心感を与える。いざとなればこの車に鞭を入れて逃げ出せばいい。そう思うと、胸が軽くなる。



「逃げるって、何からよ」



 少しだけ笑いながらそう呟いた。

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