国崎 2

「一〇六号室」


 国崎は確かめるように呟きながら古いアパートのチャイムを鳴らす。


 暫くして憮然とした表情の琴美が鉄製の頑丈な玄関ドアを開けた。



「もう! 映画間に合わないよ。だから市役所のとこで待ち合わせようって言ったのに」



 つまらなそうな声でそう言いながら国崎の顔を見ると小さな丸い目を更に見開く。



「顔色悪い。隼人どうしたの?」



 国崎はそれに答えず、無言で部屋に上がると、ちゃぶ台の前で腰を下ろした。



「今日は、映画――無理っぽいね」



 彼女はそう言うと、溜息をつきながら上着を脱ぎ、コンロのスイッチを捻る。


 しばらくして国崎はやっと言葉を発した。



「事故があってさ……」


「え!」



 驚いて振り返る琴美に、国崎は視線を合わせず先を続けた。



「いや、事故を見てさ。おれはぶつかってないよ。前の車がスピンしてさ。派手に転がったんだ」


「まじで。じゃあ怪我人とか居たの?」


「うん」



 琴美は国崎の横に座り体を寄せてくる。その柔らかな胸が国崎の腕に当たる。



「じゃあ、警察とか来たの?」


「いや。俺……逃げてきた」


「逃げた?」



 琴美はさっと国崎から体を離すと、膝を立て見下ろした。非難の視線は、次の瞬間には同情のそれへと変わる。



「まあ……仕方ないよ。他に通ってた車も――」


「いや違うんだ。その……おばけがさ」


「おばけ?」



 声を裏返して叫ぶと、ことみは吹き出した。



「あーあ。心配して損しちゃった。冗談ならもうちょっと面白いのにしてよ」


「嘘じゃないんだって! 多分女の人とその子供が乗ってて、なんの前触れも無く……いや、あったか。とにかく急ブレーキかけて、横転して。血が出てた。腕がちぎれて対向車線に落ちててあのオバサンはきっともう……」



 国崎は、一気に言葉を吐き出すと口を押さえてえずき始める。琴美は咄嗟に背中をさすり、ごめんと呟いた。そのまましばらく顔を伏せていた国崎が顔を上げると、少し笑ってみせる。



「子供が立ってたんだよ。めちゃくちゃになった車の横に。そしてさ、トランクから落っこちたビニール袋を指差して。めっちゃ怖かった」


「ええ! 子供が居たの?」


「うん」



 彼女は顔色を変え、さっと立ち上がると寝室のクローゼットを開けながら、現場はどこ、と怒鳴った。



「郵便局の手前から左に入ってしばらく行った辺りだけど」


「じゃあ、もう山のほうじゃないの? 行かないとダメだよ」


「行くの? 現場へ」



 支度を終えた琴美は、決意の視線で国崎を見下ろして頷く。



「怪我してるんだったら? 隼人がそれを見捨てて来たんだったら? あの辺は夜になったら車通り減るのよ。寒くなってきたし」


「そうだ、あの子シャツとパンツだけだった」


「なんで。それを先に言ってよ。もう!」



 彼女はもう一度クローゼットに向かうと、ピンクのジャージを紙袋に詰め込み、国崎を引きずるように車へ乗り込んだ。



「もう三十分くらい経っちゃったよね?」


「うん」


「急ごう」


「うん……」



 バイパスから現場へ抜ける道を指示し終わると、琴美は風で揺れる荒地の草を見つめていた。肘をドアに掛け、小さい背中を国崎へ向けたままじっと外を見る姿は、拗ねた子供のようにも、思い出に耽る老人のようにも見える。やがて彼女は言った。



「風、強くなって来たね」


「うん。どうしたの」


「……寒いの嫌だなって」


「俺も」


「違うって。ほら、あたし母子家庭だし。いい子だったから、学校大好きで」


「へえ、そうなんだ」


「突っ込んでよ。――みんな、学校終わると一秒でも早く家に帰りたそうだったけど。あたし嫌だったんだ、寒い部屋。だから……かなあ。嫌だなって」



 国崎は琴実の話に、ただうんと相槌を打つことしか出来なかった。


 朗らかでしっかりしたいつもの琴美は好きだが、時折みせる心の深部に渦巻くものには、得体の知れない重さを感じ、尻込みさせられた。


 決して表には現さない激しい感情、それは多分怒りなのだろう。よそ者である国崎には、誰もはっきりとは言葉にしないが、この古く小さな街には旧家や政治家・企業による根深い争いがあることはわかっていた。そして琴美の苗字はその旧家である『土居』だった。



 国崎はそれを共有しようとはしなかった。恐れや弱さなのだという事もわかってはいたが、それ以上に彼女の感情は重く、国崎の手に負えるようなものでは無いこともわかっていたから。



 ――だから、せめて、琴美の側に。



 強烈な風が小さな車体を煽る。


 それはあっという間に空を覆っていた雲を割り、東の空低く、赤黒い満月が姿を現した。それは、街の、遠く弱弱しい灯を従えて夜空にくっきりと張り付いている。


 横転した車を見下ろしているかのようなそれに魅入られながら国崎は、静かに車を止める。



「そのままだ」

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