HIMI()~明市事件~

L.Caffe

国崎 1

国崎は苛立ちを手の平に込め、ハンドルにぶつけた。



 ――映画に遅れちまうよ。



 早春の週末、明市あかりしの狭い通りは、動かない車達と排気ガスで覆われている。


 お前達の都合など知らぬと言わんばかりに、信号機は真っ赤な光を車の屋根に落とし続けている。



「いつもいつも、旧市街はよお!」



 琴美に電話を入れておこうか、と助手席のバックへ首を捻り何となく窓の外を見ると、庭から路地へと乗り出し、山側へ走り去ろうとしているセダンを見つけた。



「よっし」



 近所の住民ならば渋滞の抜け方を知っているはずだ。


 国崎は咄嗟にウインカーを上げる。


 その道は、期待通りに通る車もまばらでスピードも上がった。


 走ったことの無い道だったが、琴美の家に近づいていることは確かだろう。しだいに家並みは途切れ街灯も少なくなって、市街を囲う山並が迫って来る。



 赴任してまだ半年も経たない国崎が、住まうアパートは街の反対側だったし、二ヶ月前に付き合いはじめた琴実の部屋に行くのも、数度目だった。


 こっちでいいはずだ、と口にして不安を振り払う。


 実際、市街の南側を東西に貫くバイパスまで抜けられれば、琴美のアパートまではすぐだということはわかっていた。いまさら勘を頼って曲がっても、迷う可能性のほうが高い。



 ミネラルウオーターで喉を潤し、前のセダンに目を移す。高級外車だ。


 対向車のヘッドライトが、運転席の小さい頭をシルエットで一瞬映し出す。どうやら女性が一人乗っているらしい。


 デカいセダンで奥様のお出かけか、と顔を歪め、やっと買った中古の軽自動車の、アクセルを煽る。



 辺りは疎らな林になっている。そおいえば、この辺は湿地帯だったな、と聞いた話を思い出す。


 緩いカーブを曲がると、少し道幅が広がり、並ぶナトリウム灯が再びセダンの車内を照らす。


 その時、助手席から細い手が運転席に伸びた。


 それと同時に、ブレーキ灯が国崎の視界を真っ赤に染める。


 ゆっくりとセダンが左に回り、真横になった途端、激しく横転を始めた。タイヤの焦げる匂いや道路に車体を打ち付ける音が、スローモションで展開する信じられない映像に、かろうじてリアルさを与え続ける。



「クソ!」



 慌ててブレーキを踏んだ国崎の車も左右へ後輪を振ったが、懸命のハンドル操作で、車線を塞ぐようにひっくり返っているセダンの五メートルほど手前で横向きに止まった。


 ハンドルに身をあずけ、フロントガラスに広がっている暗く寂しい景色から視線を落とすと、ゼロを指すスピードメーターを見つめる。



 ――危ねえー!



 鼻から息を抜き、跳ねまわる心臓のリズムが落ち着くのを待つ。だが首を右に捻ればそこにあるだろう惨状を想像してしまう。



「全く、なんだってんだよ」



 怒りを言葉に乗せながらサイドガラスを開けると、やはり思った通りの事態が目の前にあった。ひっくり返った車の開いたトランクからは荷物が落ち、助手席の扉も開いている。


 そして、運転席からシートベルトで吊られた体からは、黒いものが滲み出し、暗色のブラウスを汚していた。


 助手席の足下に転がった携帯を探りながら、国崎は何かを振り払うように喚いた。



「まず、救急車と警察。来るまで……救命措置……あー!」



 携帯を掴み上げ、再び潰れたセダンに目をやると、彼は意識に一瞬の違和感を感じた。身体ごとどこかに放り出されたような浮遊感と同時に、頭に血が上って熱くなる。背筋から瞬時に登り上がる震えで首が痙攣すると、感覚は元に戻る。


 残る違和感を振り払おうと目を瞑って首を振り、再び瞼を上げると、そこには白いモノが佇んでいた。



「はあ、ああああ!」



 国崎の腹筋は無意識の叫びを搾り出す。



 それは、女の子だった。


 姿はまるで今ベッドから起き出してきたかのようだ。長い漆黒の髪は何年も手入れされていないようにゴワゴワで、Tシャツとパンツだけを身につけ靴すら履いていない。


 異様に大きな黒い瞳は人工的な光を放ち、気だるく落とされた上瞼の下を真っ黒く塗りつぶしている。


 口を開けたままでその姿を呆然と見つめていた国崎は、自分の表情に気づくと慌てて口を閉じ、もう一度少女を確認する。確かに場違いな姿ではあるが、しっかりとセンターラインを跨いで立っている。傷を負っている様子も無かった。足も生えているし、しっかりと影も落としている。


 上げた悲鳴に恥ずかしさを覚えつつ、国崎は窓から首を出した。



「大丈夫だった? 怪我は無いかい?」



 精一杯の優しさを込めたつもりの言葉だったが、少女は反応を示さなかった。その生気の無い眼は、ただ手前の路面に視線を落としている。


 仕方なく国崎はドアを開け、その母親と思われる運転手の方へ向かおうとした時、少女の右腕が動いた。


 彼女はゆっくりと手を持ち上げ、トランクから落ちた黒いゴミ袋のような物を指差す。


 言葉になるはずだった息は、国崎の喉を震わすことなく、不快な塊となって口から吐き出される。ナトリウム灯に照らされる半裸の少女は、まるで大理石の彫像のように微動もせず、じっと路面を睨んだままで真っ黒な塊を指差し続けていた。



 ――やばい。



 国崎の本能は全身から汗を噴出させ、鼓動を再び急き立てる。「逃げろ」という声が急激に理性を圧倒していった。


 そして、対向車線に母親のものだろう肘から下だけの腕を見つけてしまった瞬間、国崎は運転席に逃げ込み、キーを捻っていた。


 汗で滑る手で懸命にハンドルを手繰りUターンすると、前だけを睨んで、床を踏み抜かんばかりにアクセルを蹴った。

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