第五話 恋文と宮宿の神明社-芽衣の忘れかけてた恋物語-
かつての東海道の宿場町の
本社は名古屋支社と違って、全ての部署が一回りも二回りも大きな組織だった。管理運営部の人数も五倍。つまり人の顔や名刺の数も五倍である。これだけですごい労力だ。
「ついに明日で三十歳の大台だわ。誕生日が憂鬱になる年齢かあ。はあ、あたし、こんな大仕事抱えるまで出世しちゃって。こんなはずじゃなかった。予定では二十五歳すぎに可愛いお嫁さんになる予定だったのに。女課長だって言うだけでみんな気を遣いすぎ。才女だの、器の大きな女性だの、聞き飽きた。ああ、私が欲しいのは台所で、愛する旦那さまの帰りを待って手料理を振る舞う、可愛い奥さんだったのにい……」
神宮の門前で育った彼女は、まだ日のあるうちに熱田に戻ったので、家に荷物を置くと、着替えるまもなく、そのまま熱田の森へとお参りに向かった。旅の無事を報告するためだ。
無事に報告を済ませると、シャンプーを買い忘れていたことに気付き、名鉄神宮前駅の駅ビルにあるドラッグストアで買い物をしてから帰ることにした。
二階にある連絡通路、そこでテナントの入れ替えが始まっている。工事案内の貼り紙に、その仕事が自分の会社の施工である事を知る。
「へえ、こんな小さな仕事もやるのねえ」
そうひとりごちた直後だ。
「ん?」
芽衣はその作業現場の一角で懐かしい顔を見つける。
その懐かしさに思わず芽衣は「磐田さん」と声をかけ手を振る。まるで二十歳の小娘のようだ、と自分でも思った。
その男性は芽衣に気付き、
「あれ? 浜北さんじゃないか」と笑いかける。
彼は図面を小脇に抱え、芽衣に近寄ってきた。
「偶然ですね。いつからここで」と芽衣。
「今日から現場入り、初日なんだ。まだ什器類も入れてないから寸法測りだけに来た」
「へえ、私、この近所なんですよ」
「そう言われてみれば、そうだったね。以前、熱田って言っていたよなあ。懐かしいなあ」
「今も空間デザインですか?」
「うん」
「いいなあ。私もプランナーの資格取ったのに、管理運営ですよ。おまけに役職まで付いちゃって、ますます縁遠くなるわ」
「そう言いなさんな。才能の賜だよ。オレなんか日の目をみないオジサン街道まっしぐら」
「私だって、おばさん街道まっしぐらですよ、明日で三十歳」
「もうそんなになるのか。まだ二十二歳だったよなあ、あの頃」
「そうですよ。一人寂しい誕生日を迎える三十女」
「おお、そうなのか。じゃあ再会も兼ねて、明日誕生祝いでもしてやろうか?」
「本当ですか? 磐田さん、私が新卒の時はいつも口だけで、一回も行かなかったじゃないですか」と皮肉る芽衣。
「あの頃はワイフとの問題がこじれてね」
親指と小指を立てた仕草でバツ悪そうに笑う磐田。
「奥さん、お元気ですか?」
「きっと元気にしていると思うよ」
「なにその
芽衣は冗談めかして冷やかす。
「だって今はもう他人事だもん」
「え?」
「別れて五年になるよ」
「うそ?」
「嘘は言わない」と諦めた笑顔で返す磐田。
「すみません。私知らなくて……」
「いや、シンミリしないでいいよ。知らないでやっちゃうのは君の
そう知らずにやってしまった過去の二人だけの思い出。芽衣はそれを少しだけ赤くなって思い出していた。
七年前の本社デザイン室。新人研修の終わった配属で専門研修に移った芽衣と同僚の美波の教育係を受け持ったのが磐田だった。当時磐田は三十歳。ちょうど今の芽衣の年齢だ。
ミスを五回連続でしでかした芽衣。注意力散漫で、先輩たちに怒られることが日常だった。
「おい、浜北! このレイアウトだとショーケースの一列目だけが突き出した配置になって、動線を阻害するだけでなく、買い物客にとっても危険になる。分かっているのか? 早く訂正案を先方にFAXしろ」
部長のけたたましい声がフロアに響き渡った。
「はい」
半べその芽衣は自分のPCを立ち上げるとCAD仕様のアプリを立ち上げた。
すると横にいた磐田が、
「部長、先方には昨日の段階で、わたしが既に全てを手配してあるので連絡は不要です。それと新しい図面も既に相手先の担当者とその上司にネットで飛ばしてあります。もう解決済みの案件となっています」とフォローの内容を伝える。
すると部長の怒りと慌てぶりは収まり、
「そっか。磐田、すまないなあ。またお前に借りを作ったようで」と満足そうに頷いて廊下へと出ていった。
芽衣は驚く。
「なんで、私、磐田さんに見せていませんでしたよ。図面」
「いや、昨日の晩に君の机の上にあった図面を見てさ。訂正しなきゃって思って、やり直しちゃったのよ。ほら、先月までオレが担当だった案件でしょう。手助けできるなと思ってさ。問題になる前に済ましてしまえば、それはミスにも事件にもならないってことだから。もし余計なことしちゃったって思ったらごめんね」
磐田はそう言って、頭をかきながら笑う。そして芽衣のおでこをツンと突いて、「がんばれよ」と添えて笑っていた。
「いいわあ。磐田さん。憧れちゃう」
ランチを一緒に食べに来た美波は、横であの一件を一部始終観ていた。その感想である。
「私は当事者だから、顔から火が出るほど恥ずかしい思いよ」
「でもさあ、もしかしたら磐田さん、芽衣のことオキニなのかな? あんなにかばってくれてさ」
「なにを馬鹿な……」
パスタの残りを口にれながら美波が言った言葉に芽衣は変に意識してしまった。ランチの後も、仕事帰りも、磐田の顔を見るとドキドキが止まらない。
それから芽衣は変な空想ばかりをしている。自分が愛妻家の磐田の帰りを待つ妻のイメージである。その日、妄想に没頭して、家の前の電柱にぶつかった。おでこにコブを作ったのもいい思い出だ。
馬鹿だった自分をすっかり忘れて、そんな自分が可愛かったとポジティブな思い出に変わっている。
次の日、下調べもせずに、直情に走り、磐田にラブレターで告白した芽衣。磐田が妻帯者であることを確かめずに撃沈したのは、芽衣にとって若気の至り、苦い失恋の思い出である。そして『知らないでやっちゃう』という芽衣の癖、磐田はそのことを言いたかったのだ。
「おーい、浜北さん? もしもーし?」
磐田は無線交信のように芽衣に問いかけている。回顧シーンで妄想する芽衣は心ここにあらずだった。
我に返る芽衣。
「はい。すみません」
「明日六時には仕事終わるからさあ。誕生日のお祝い、ここで待ち合わせね」と磐田はあの頃と同じ笑顔で頷く。
「はい。楽しみにしてますね。私、お洒落してきてもいいですか? 見せる相手もいないので、たまには男性に観てもらいたいし」と笑う。
「オレで良いのならどうぞ」と肩をすくめる磐田。『オレですまないね』とでも言いたげである。
「磐田さんが良いんです。これを機にたまに誘っちゃいますよ」
芽衣のその言葉に、磐田は爽やかに「いいよ、一人者で暇なのでいつでも誘って」と笑って応える。そして彼は、芽衣に一礼をすると奥の現場に入り、また大きなメジャーで部屋の寸法を測り始めた。
磐田と別れると、芽衣は神宮前駅のコンコース階段を降りる。駅前広場の先、目の前に広がる熱田神宮の森に深々とお辞儀をして、彼女は笑顔で「ありがとうございます」と呟いた。そして何年ぶりかの軽やかな足取りで帰路に就いた。
「明日が楽しみなんて、何年ぶりかしら」
芽衣は明日が三十歳の誕生日なのに、心は二十二歳に戻った晴れやかな気持ちだった。
了
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