第三話 海風香る神明社-葵との再会-

 江ノ電が高架橋の上を走り、デパートの中にある駅へと入っていく。サーフボードを自転車の脇に載せて、ウェットスーツのまま走り抜けるサーファーのカップル。時折、木の葉が風に吹かれて、既に湿気も無くなった季節でも彼らの海への愛は終わらない。

 今目の前の景色。湘南にはそんな秋の風景も似合う。


 僕は都会の画廊に勤めている。いや、ついさっき三時間ほど前、辞表を出して来たので、勤めていたが正しい。その足で生まれ育った湘南、地元の海を見たくなって、江の島を訪れたのだ。何年ぶりだろう。片瀬海岸を一人で歩いてきた。ちょうど水族館の東にある砂浜。夏の時期なら身動きが出来ないほど人混みになる海水浴場だ。


 そしてたった今、二階にある江ノ電の駅に着いたところだ。ここから僕の家は歩いて約二十分といった場所だ。




「誰だ。この絵を移動させたのは」

金目きんめです」

 先輩は休憩室で煙草を吸いながら人ごとのように笑う。


「え?」

 確かに直接移動させたのは僕だった。しかしそれを指示したのは先輩だ。


「金目、これはお得意先に持って行くフェルメールのレプリカだ。いたむと困るので移動するなと昨日言ったよなあ」とオーナー。


「せんぱ……」

 僕が恨めしそうに言いかけると、先輩は「あ、あとでよく言っておきますよ」と調子の良い、いやずるがしこい声が背後からした。


「そうか」

 オーナーはやれやれという顔で、少しの間、僕を凝視するとその場を去った。


「危ないとことだったな。守ってやったんだ、感謝しろよ」

 恩着せがましく先輩はくわえ煙草で、僕に笑いかける。


 まただ。いつものごとく自分の失態を、さもまことしやかに僕に転嫁する。常にこの人は誰かに責任をなすりつける性分なのだ。


『もともとあんたの責任じゃ無いか!』


 そう喉元まで出かかったが止めた。揉め事を起こしても、僕の方に分が悪くなることは決まっている。そういう雰囲気が出来上がっている職場だ。彼の悪癖、悪知恵、その立ち振る舞いに僕の処世術など無力に近い。とどのつまり、また僕の失態にされて終わるのがオチだ。


 小中高と真面目で通ってきた僕に、のらりくらりと口先だけで世渡りする人間を相手にするのは無理な話だ。損するのはこっちである。向こうがいずれルールを守らないで痛手を被るまで、関わらずに傍観するしか術は無い。近くにいればまた巻き込まれる。

 


 三十歳を過ぎて自分が歩んできた人生に疑問を感じる。多くの人はその疑問を感じても、自ずから触れずに通り過ぎるようにしているという。見て見ぬ振りだ。だが僕はダメだった。軌道修正できるわけでもないのだが、好きでも無い商売、画廊の仕事は性分では無かった。辞めたいのに、言い出せない。どっちつかずの優柔不断は子供の頃からなおらない。そこは自覚している。


 職種や業種の問題では無かった。ただその理由はどちらかと言えば、現状に満足していないと言うより、水が合わない職場という言い方が正しい。なりたいモノややりたいことで無くても水が合えば、ここまで辞めようという気持ちにはならない。それほど頓着はしない性格だ。


 なりたいモノと言えば、映画監督になりたかった。同じ芸術でも全く違う分野だ。カット割りを考えたり、構図を考えたり、舞台設定や撮影角度、スポットライト、多くの演出とシーンを脳内でイメージするその仕事に憧れた。だからといってこの歳から映画監督に転職は無理だ。そもそも恐れ多くて、僕ごときがそんなこと本当に望んでなどいない。


 そんなことを考えながら歩いていると引地川の近くに鎮座する鵠沼くげぬまの神明さまの横を通った。

「ああ、小さい頃、人形山車のお祭りに来たっけ」などと考えながら、軽い会釈を鳥居の前でして遙拝すると参道を横切った。そこから先にある川沿いの遊歩道へと向かった。


 橋の近くでなんとなく見覚えのある女性がこっちを見ている。でも思い出せない。結構な美人だ。夏のおわりの日差しがよく似合う二十代後半くらいに見える人だ。こんな美人が、冴えない僕に用事などあるはずがない。端から他人のそら似と内部処理をする僕。


 僕はラフな長袖Tシャツとジーンズだ。あちらも似たような格好である。


「たーくん?」と声をかける女性。


 僕は孝彦。金目孝彦きんめたかひこだ。そう呼ぶのは幼い頃から僕を知っている者だけだ。

 近寄ってみると、近所でよく遊んだ四つ年下の目春葵めばるあおいだった。


「葵?」

「うん」


 葵は少しもじもじしながら「帰ってきたんだ」とさらさらの長い髪を風になびかせて笑った。最後にあったのは彼女が高校生ぐらいの時だ。化粧したときの彼女の顔を知らない僕が、思い出せなくて当たり前だ。


「休暇なの?」と葵。

「いや、ずっと休暇」とあきらめ顔の弱々しい笑顔で答える。


「本当に戻ってきたって事?」と葵。

「ああ、本当に帰ってきちゃったんだよ」


 彼女はドングリ眼になって、「どゆこと?」と驚く。意味不明という顔だ。

「仕事も辞めて、アパートも引き払って全部捨てて戻ってきたの」と気分爽快な振りをして伸びをしてみせる僕。


「ええ、おじさんとおばさん、知ってるの?」

 慌てふためく葵はオドオドし始める。


「まだ言ってない。きっと怒られるだろうね。かっこ悪い、三十にもなって親に怒られるおじさんだ」と笑うと、


「えええ?」と葵はまたドングリ眼になってオドオドし始めた。そして「どうするどうするどうする」と言ってから、僕の手を引いて川下にある植物園近くの彼女の家に僕を引っ張っていった。


 手を引っ張られながら「なになになに?」と問いかける僕に、「どうしよどうしよどうしよ」と歩きながらも念仏のように繰り返す葵。


 葵の家はロードサイドにあるお好み焼き屋だ。暖簾を潜り、軽い引き戸をカラカラと開けると、

「お母さん、たーくん拾ってきた」と厨房にいる母親に言う葵。


「なに?」とエプロンの裾で手を拭きながらホールに出てくる母親は、僕の顔を見て、

「あら、本当にたーくん拾ってきたわ」と笑う。


 とりあえず僕は愛想良く「ご無沙汰しております」と軽く頭を下げる。この挨拶で間違ってはいないはずだ。


「ねえ、お母さん。今日、たーくん泊めてあげて良いかな?」と言う葵。

 葵の母親は不思議そうな顔で、「たーくんの家、すぐそこじゃない? こんな近くなのに?」と首を傾げた。


「だって仕事辞めて、お部屋も解約して行くとこないのよ。まだお家の人に言ってないんだって」と葵。


「あらまあ、たーくん、随分と思い切ったことしたわねえ」と人ごとのように笑うおばさん。

「いい?」と言う葵の質問に、「うちはいいけど、そっちの家は大丈夫?」と心配するおばさん。

「まだ言っていないから、ここにいることも知らないのよ。二三日したら説明しに帰るって」と勝手にシナリオを作る葵。


「あっ、そう、じゃあ、克美かつみの部屋を使ってもらいなさい」とおばさんは彼女の弟の部屋を使うように指示を出した。彼女の弟は全寮制の高校に通っていて普段は家にいないのだ。こうして僕は何故か葵の家に泊まることになった。



 それから三年が過ぎた頃、僕は親から譲り受けた自宅をログハウス風に建て直し模型屋を始めた。その横の空いた敷地にプレハブ小屋を建て、手先の器用さを活かしたプラモデル教室も開いている。こっちが実はメインだ。趣味が高じた故の仕事なので、模型教室をやりたくて模型屋も始めた。


「おじさん! テツモ社から出た四八五系の国鉄色の新製品入荷した?」

「あれね、メーカー出荷が間に合わないくらい売れているらしくて、ひとつき程遅れるそうだ」

「まじか」

「じゃあ、江ノ電のタンコロは?」

「あれは来週だよ」と優しく諭す僕。

「そっか、じゃあまた来るね」

 残念そうな中学生が僕の店を出て行く。


 すると、「店長。相模模型から出たF15J入った?」と隣で順番を待っていた小学生。

「ああ届いてるよ。三千円のやつな。部品多いけど、作れそうか?」

 無理に売ることはしないのが僕のやり方だ。

「もっと易しいやつもあるぞ」

「F15Jはあれしか出てないし」と小学生の言い分も確かだ。


「そうだな」と納得する僕。


「わかんなかったら、相談しに来るよ」

「よし、分からなかったら、お父さんや僕に訊くこと。いいね」

「うん。サービス券で一割引いてくれる?」

「おお、三十枚ためてくれたんだ。勿論値引きするよ。二七〇〇円になるよ」

「やったー」と喜ぶ小学生。


 エプロン姿で鉄道模型や航空機模型、自動車模型を販売する姿を店の外から笑顔で眺めながら、おなかを大きくした葵が戻ってきた。


「ただいま」

「お帰り。どうだった」

「順調順調。絶えず動き回っているの。元気良くて困るわよ」

 おなかを撫でながら店先から奥の居住部分に入る葵。


「晩ご飯は僕が作るから少し横になると良い」と言う僕に、

「いやよ。私を太らせる気? ごはんは私が作ります。お好み焼き屋の娘が料理しないって近所で噂になったら困るモノ」と悪戯顔で舌を出す。


 そしてしみじみと僕の顔を見ると葵は、

「たーくん、やっぱこういう少年の心で楽しめる仕事があってるねえ」と頷く。

「そうか?」

「爽やかな海風とけがれの無い無垢な業務内容。深読みや人間関係とは無縁の仕事。こっちの方が似合っているよ」とシュシュで束ねた髪をほぐしながら葵は買い物袋からジャガイモとタマネギを取り出す。


「今日はカレーとオムライス、どっちにする?」

「カレーが良いな」と僕。

「オーケー。ほんとお子様メニュー好きだよねえ」と笑う葵。


 僕が仕事や生活に求めていた理想は、プライドや矜持ではなく、駆け引きや勝負でも無い。自分が心許せる人間と手放しで寛げる空間、楽しみながら働きがいを見つける生活だった。


 子どもの頃から感じる潮風と、あの神明さまがそれを思い出させてくれたのかも知れない。


「ちょっと、出てくるよ。店頼む」と言う僕の声に、「神明さまに行くの?」と葵。

「うん」

「じゃあこれ神さまに持って行ってあげて」と手だけ奥から店先に出す葵。その手にはワンカップの日本酒。

「わかった。お供えしてくるよ」

 お酒を受け取るとエプロンを店先にポンと放って表に出る。僕は生まれ育ったこの土地と潮風に幸せを感じながら、神明さまへの道のりを歩き始めた。

                               (了)

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