冥土の土産は貴方宛

無知秩序

第1話 黄昏時

 ——いつも夢に見るのは、幼き頃の自分。

 彼の手に握られた短なナイフにこびりつく、鮮烈な赤色がおぞましい。

 赤く染められたナイフを持って、誰もいない森の中、わんわんと泣き喚いている自分を見ると、胸がむかむかしてしょうがなかった。

 そして、夢の中で僕は、小さな自分を惨殺してしまうのだ。

 どろっと、まるで溶けてしまうように消えゆく自分を見届けて、自分の首にも手をかけて。

 残念ながらそれが完遂されたことは、今までない。



 ***



「起きてくださ〜い、ご主人様ッ!」

「お目覚めください、アルジ様」


 朧げな意識、どんな夢を見ていたか、もう忘れてしまった脳にやかましい音と冷徹な音が反響する。

 それが声であることを理解すると同時、重たいマブタもようやっと開く。

 開いて、まず視界を埋めるのは木で出来た天井。次いで両脇を見やれば、ピシッとしたヴィクトリアンメイド服に身を包んだ女性が左右一人ずつ立っている。


「ふわぁぁ……おはようございます、二人とも」


 いつも通りの光景に特に思うところなく、八枷一志ヤカセイッシは身を起こす。


「おはようございます! はい、手拭いですよ〜」

「おはようございます。どうぞ、口をゆすいで下さい。終わればこちらの桶に」


 言われるがまま、一志は右手から差し出された手拭いで顔を拭き、左手から差し出されたコップの水で口をゆすぎ、吐き出す。

 口周りに少しついた水気を再度手拭いで拭き取ってやれば、目覚めのルーティーンは仕舞いだ。


「どうも、ありがとうございます」


 礼を伝え、左右両者にもらったものを返す。


「お粗末さまでした!」

「いえ、大したことでは」


 受け取った二人は足早に、「では、失礼しました」「失礼しました〜」とだけ言い残し、部屋を後にする。


「もうここまでされなくても自分で出来るんだけどな……っと、僕も、準備しなくちゃ」


 こうして、八枷一志の平凡な一日は始まる。



 ***



「ん!」


 着替えを済ませて階段を降りれば、豆の香りが漂うリビングから声がする。

 そこに入ろうと、部屋の戸に手をかければ、一志が開けるよりも早く戸は「ガラガラ」と音を立てながら開け放たれる。


「来ましたね!」

「来ました。おはようございます」

「んも〜、さっきそれは言ってくれたじゃないですか!」

「でも、あれは寝たままでした。今度はしっかりと立ち上がって、挨拶をするんです。そうしなきゃ、自分が正されない気がして」

「なるほどなるほど、ご主人様のいつものよくわからない持論ですね。了解です。私も、それに応じましょう! おはようございます!」


 部屋の入り口、騒がしく、落ち着きのない様子で白髪を踊らせぴょこぴょこしながら、二人のメイドのうちの一人、白が基調のヴィクトリアンメイド服——しかし一般的なものとは違って、スカートの裾が短いメイド服に身を包んだ女性——しろさんが出迎える。


「おはようございます、主様」


 白さんと話していれば、キッチンの奥から濡れ羽色の髪をたなびかせながら黒が基調のヴィクトリアンメイド服——白のとは違い、足ほどまでスカートの裾を残した、きちっとした印象を覚えるメイド服に身を包んだ女性——クロさんに声をかけられる。


「おはようございます、黒さん」


 それらに一志は笑顔で返事して、満を辞してリビングへと足を踏み入れる。

 部屋の外にまで漂っていた豆の匂い、それは部屋に入れば一層濃くなる。

 その匂いをこっそり鼻で堪能して、鼻腔をくすぐるほろ苦い香りにほくそ笑み、そっと席に着けば慌ただしく白さんが料理を運んでくる。


「えーっと、なんか……パンと、コーヒーです!」

「間違いではないですが、品性に欠ける物言いはよしてください、白。主様、こちらは苺のタルティーヌと、いつものエクス・ロッドを挽いたコーヒーです」


 大雑把にメニューの紹介をした白さんと違って、遅れてメイド服のエプロンで手を拭きながらやってきた黒さんが、丁寧にメニューを説明をしてくれる。


「なるほど、ありがとうございます。では、早速ですが、いただきます」

「ごゆるりと」

「黒ちゃん! 私の分は!」

「今準備しますから、その辺に座っててください」

「何分くらいでできる!? できるだけ早くね! 待ちきれないよ〜!」

「はぁ……」


 まるで子供をあやす母のようだ、なんて微笑ましく思いながら、一志は待ちに待ったコーヒーに手を伸ばす。

 持ち上げ、クウで優しくコップを回す。コップの中で小さな渦が生まれたのを見て、素早くその流れに反するようにスプーンでかき混ぜる。

 その流れがピタリと噛み合い、停止する一瞬を一志は見逃さない。

 すかさずコップを口元に運び、液体を口の中、舌、喉へと順にするりと流し込む。


「——美味しい」


 意識せずとも、一志の口からそんな言葉が漏れ出るのが必然的な味であった。

 間髪入れず、心地よいほろ苦さに満たされた口内へ、苺のタルティーヌを一口。

 絶妙な苺の甘さを包み込むパン、それはこのコーヒーの生涯の相棒にもなりえるほど、名コンビであった。



 ***



「ふぅ……」

「あのあの、ご主人様」


 一志がここが極楽浄土かと、舌が溶け天に召されそうな程の味に心を委ねていれば、そろそろと、気付かぬうちに白さんがこちらに近づいてきていた。


「そのコーヒー、そんなに幸せそうな顔するほど、おいしいんですか……? 私、ちょっと前に黒ちゃんに内緒で飲んだんですけど、とてもこの世の飲み物とは思えない苦さでした……。あ、このこと、黒ちゃんには言わないでくださいね。怒られちゃうから」

「あはは、確かに苦いです。でも、この香りが僕は好きですね。そもそも、コーヒーの味を求めて飲む人は少ないと思いますよ」


 一志の答えを聞いてなんだか腑に落ちない顔をして、白さんは「コーヒー、難しいやつですね」とだけ言い残して、苦い表情でキッチンの方へと戻ってゆく。

 きっとご飯がまだで退屈、自分だけ先に食べてるのも悪いな……と一瞬考えたが——ふと時計を見ればその罪悪感も消え失せた。


「八時十六分……?」


 ——学校に遅刻ギリギリの時間であった。

 おかしい、朝食を取り出した頃、まだ時計は七時十分を指していたはず。

 まさか、コーヒーの余韻に浸って一時間と少し、呆けてしまっていたのか。


「あの、黒さん……?」


 そんな馬鹿なと、現実を受け止められるはずもなく、一志はソファに腰掛けてコーヒーを飲んでいた黒さんを呼ぶ。


「どうされましたか、主様」


 コーヒーを置いて立ち上がって、こちらに近づいてくる黒さんに「あ、そのままで大丈夫なんですけど……」と前置きをして。


「——もしかしてなんですけど、僕、一時間くらいここでぼうっとしてましたか……?」


 恐る恐る、聞く。


「——。はい、主様、随分と幸せそうな顔でおられた為、声もかけられず。私たちも、その間に同じ机で朝食を摂らせていただきました」


 なんということだ。魔性のコーヒーの魅惑に抗えず、一志は一時間ほど本当に極楽浄土にいたらしい。

 となると、白さんがキッチンに戻って行ったのは朝食を催促するためではなく、食器を洗うためだったのだろう。

 そんな益体のないことに思考が追いついて、今はそんなこと考えている場合ではないと首を振る。


「すみません、黒さん。僕の鞄と靴下を持ってきてもらってもいいですか……?」

「仰せのままに」


 返事をした黒さんは瞬く間に部屋を出て、二階の一志の部屋から荷物を持って降りてくる。高校生にもなって、付き人にこうも頼ってしまってばっかりいてはダメだ、なんて思いながらとりあえず、一志は急いで歯を磨く。

 そうして足早にその他諸々の準備を済ませた一志は、ドタバタと騒がしく家を出る。


「すみません黒さん、お手を煩わせました。行ってきます」

「大したことでは。お気になさらずに。よろしければ、送っていきましょうか?」

「流石にそこまで迷惑はかけられないですし、朝は色々と危ないので……。とりあえず、ありがとうございます」

「お気をつけて」


 黒さんはぴしっと玄関に立って、小さな動作で手を振って見送ってくれる。

 遅れて、白さんも玄関まで駆けつけて「行ってらっしゃいませ〜〜〜〜!」と。

 その大きな声が、この静かな山に響き渡る。



 ***



「じゃあこれで終礼は終わり。起立、礼」

「「「ありがとうございましたー」」」

「ふー終わった終わった!」

「帰ろー」

「今日部活?」

「カラオケ寄ってかね?」


 終礼が終わって早々、教室の中はやかましくも楽しげな声で満ちていた。

 今朝、時計と見つめあった時はどうなることかと思ったが、授業開始五分前には辛うじて自分の席につくことができていた。

 それから何事もなく授業を終え、あとは家に帰るのみ。


「やーかせくんっ」


 不意に、帰ろうと鞄を持ち上げた一志の背中に声がかけられる。一瞬、誰を呼ぶ声かと考えたが、このクラスの中に八枷という姓を持った人物は一志しかいないため、自分のことだと気づいて。


「はい」


 振り返れば、そこに立つのはクラスのマドンナ、古谷芽衣フルヤメイ。才色兼備、文武両道、容姿端麗。この世に存在する美や優秀さを表す四字熟語は、すべてが彼女のために作られたと噂されるほどのアニメやコミックでしか見ないような完璧美女。

 マドンナと呼ばれるのに相応しく、学校の制服に身を包んだ古谷の姿はモデルや女優に引けを取らない美しさと言える。

 ただ一つ、数ヶ月ほど前から少しずつ一志に声をかけるようになったこの女性のことを、一志は何一つとして知らない、知り得ない。

 それなのに定期的に一志へこうして話しかけてくるので、その魂胆が見えなくて末恐ろしい。


「——。古谷さん。どうかなさいました?」


 一拍、間を開けて返事をした瞬間、クラス中の男子女子問わずに全ての視線がこちらに集まる。それは疑問に思うまでもなく、当然、クラスの紅一点コウイッテン古谷芽衣が例の如くクラスで浮いたよくわからない、冴えない男子に話しかけたからなのだろう。

 あまり注目を浴びたくない、一志のような人間にとっては不都合なイベント。


「んー、呼んでみただけ」


 ちろりと舌を出し、綺麗なウィンクを浮かべた古谷は小気味好さげに教室を立ち去る。切実に、何がしたかったのだろうか。

 こうして嵐のような古谷が後にした教室の中は、いつも通り一志が何者なのかといった空気感に満ちる。その空気に居た堪れなくなって、一志はいそいそと帰路を急く。


「あっははぁ、八枷、大変やったなぁ」


 そのままの急ぎ足で正門を出れば、一志の人生上唯一の友人であり腐れ縁でもある軽間琥太郎カルマコタロウが、目に涙を溜めて飛び出してくる。憎い奴だが、一志が敬語を使わず気楽に話しかけられるのは軽間くらいである。


「軽間、なんで助けに来てくれなかったんだよ?」


 一志の苦労を大笑いしたであろうその男に、一志は恨めしい目つきで訴えかける。


「おーこわこわ。でも、堪忍な? 八枷があの子にそろそろと詰め寄られてた時、俺はもう教室でとったんや。だから、わざわざ戻んのもなーおもぉて」

「お前、それでも僕の友達か? 友達の危機の一つや二つ、救ってくれてもいいだろ」

「あっははぁ、ごめんて」


 適当に手を合わせて謝る友人を前に、これ以上の詰め寄り方を一志は知らない。仕方なく、ここはため息一つついて我慢する。


「ところで八枷」


 唐突に、話題の転換を一瞬で済ませた軽間が、その喋ることをやめない口でまた新たな話を始める。


「——最近、この辺で鬼が出るんやって」

「————」


 鬼。伝説上の生き物で、人の形をした風貌に角や牙を生やした巨体を持つ、いわゆる怪物と呼ばれるような存在。

 それを「何馬鹿なこと言っているんだ」と——笑い飛ばせない。一志だけは。


「なーんちゃって、近所のガキンチョから聞いた噂や。どうせ冗句……ってなんや、八枷、その歳になって鬼さんにガクブルなんか?」


 無意識下で、手が、足が、心臓が、震える。それが恐怖からくる震えではないと、一志は断言できて。


「——。鬼が出るって、具体的に、どこで?」

「————」


 数秒、両者の間に沈黙が生まれる。

 その沈黙の先にある答えが、欲しい。

 

「——。あっはははは! なんや八枷、鬼さん探しか! でも、鬼さんはツチノコと違ぉて見つけてもくれるんは金槌で一発だけやで!」


 「なんてなー! あっははは!」と、一人楽しそうに笑い飛ばす軽間。——今だけは、その馬鹿明るい軽間に構ってる余裕がなかった。


「悪い、軽間。先帰る」


 いつもは嫌いな高鳴る心臓の鼓動が、今日は一志を後押しした。「あ、おい」と背中から声がかかるが、今度は教室の時みたく振り返らない。

 もう、止まらない。

 黄昏時、夕焼けで影が伸びる。

 その淡いオレンジに囲まれた影が、永遠に出れない牢獄に囚われているみたいだ、なんて思った。


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