第35話 白軒虎という男 弐
「アンタはしょっちゅう泣いてばっかりだな。小蘭」
そう言って白い歯を見せた軒虎は、蘭花の肩を抱き寄せて、真っ直ぐ偉王妃を見遣った。
「俺は別に、アンタらのことを憎んでも、敵視してもいない。小蘭やその家族に手を下したこともない。……ただ、利用価値のある駒の一人として、ここまで生き長らえてきただけの存在だ」
「軒……」
蘭花は軒の話を聞いて胸が痛んだ。――ただの駒として生きてきた日々はどれだけ悲惨なものだったのだろう。幸せから程遠いことだけは、想像に難くない。
「俺は利用されるだけの存在だった。それでいいと考えることも放棄していた。……だが小蘭と出会って、初めて愛し愛される喜びを知って、生への執着が強まった。……俺は、小蘭と幸せに生きていきたい。小蘭を笑顔にしたい。幸せにしてやりたい。だから、小蘭が望むのなら、俺は殷貴妃を敵に回しても構わない」
軒の熱のこもった想いに、蘭花の心が歓喜に震えた。蘭花は瞳に涙の膜を張って、真っ直ぐ王妃を見つめた。
「母様」
自然と懇願するような、縋るような声音が出た。
王妃はじっと蘭花を見つめ返す。そして、ゆっくり瞬きすると、慈愛に満ちた表情を浮かべた。
「そなたたちの想いは理解した。しかし、互いに想い合っているとはいえ、王子と王太女の婚姻となれば、外朝が騒がしくなるだろう。だが……そなたちの想いが叶うよう、こなたも手を尽くそう」
王妃の言葉に、蘭花と軒虎は顔を見合わせた。そこには、十五歳の少年らしい笑顔を浮かべる軒虎がいて、蘭花の心は暖かくなった。しかし――
「本気ですか、母上! そいつは、ニセモノ王子の白軒虎ですよ? そんなやつが蘭花に相応しいはずがない!」
衛士たちに取り押さえられながら、声高々に叫んだ慶虎の言葉に、蘭花の胸が痛んだ。
「ニセモノ……」
蘭花が囁くように呟くと、慶虎が顔を青ざめさせて、違う! と首を左右に振った。
「……何も違わないわ、お兄様。私だって、ずっと、ニセモノ公主として蔑まれて生きてきたのだもの。……でも、お兄様は……お兄様だけは、そのような戯言を気にする方ではないと思っていたのに……っ」
蘭花は軒虎の胸に額を当てた。――涙を流すところを、慶虎に見られたくなかったから。
「蘭花……! 違うんだ! 僕の話を聞いてくれ!」
「見苦しいぞ、慶虎よ」
「っ、……母上」
王妃は右手を上げて一振りする。すると衛士たちは、慶虎の拘束を解き、王妃の側に戻って整列した。
「……お前達も、本来の主――兄上の元に戻るといい」
「かしこまりまして」
言って、影たちは、その名の通り闇の影に紛れて姿を消した。
拘束を解かれた慶虎は、土の上に両膝をついたまま、上体を倒して土塊を握りしめる。その姿を睥睨した王妃は、衣を翻して慶虎に背を向けた。
「そなたは負けたのだ。慶虎。元王太子の矜持でもって、潔く諦めるのだな。……こなたはこれから国王陛下の元へ行き、蘭花と軒虎の婚姻について話してくるつもりだ。……耳が早い、殷貴妃のことだ。あちらで八合わせることになろう」
「大丈夫なのですか」と、蘭花は問う。王妃は半分だけ顔を後ろに向けて、不敵な笑みを浮かべた。
「あの者はもともと、皇后の座を狙ってはおらぬ。劉氏亡きあと、軒虎の養母になったのが最たるものだろう。……いままで執拗にこなたの命を狙っていたのは劉氏だった。劉氏が死んでから、こなたの命を脅かす者はいなくなった。――これでこなたは晴れて母后皇太后になれる。そして、殷貴妃は聖母皇太后になれる。……蘭花よ。そなたの復讐は遂げられぬが、これで矛を収めてはくれまいか」
蘭花は俯いていた顔を上げて、軒虎を見つめた。軒虎は口元に笑みを浮かべている。――蘭花が復讐を取っても、婚姻を選んでも、どちらでも味方だ……という強い意思を感じ取った。
(……お母様、ごめんなさい。殷貴妃への復讐はできそうにないわ。そのかわり、お母様に手を下した劉賢妃は刑に処された。……これで許してちょうだい、お母様)
蘭花は胸の前で手を合わせたあと、軒虎に微笑みかけて、王妃に向かって口を開いた。
「母様。白軒虎との婚姻を陛下に認めて頂けるよう、どうかお力を貸してくださいませ」
そう言って、蘭花は地面に両膝をついて、上体を倒した。それにならって、軒虎も王妃に叩頭する。
王妃は、ホホホと笑って歩み始めた。
「この母に任せておくがよい。……蘭花よ。こなたの命を救ってくれた借りは、これで返したぞ」
蘭花と軒虎は、王妃の姿が見えなくなるまで叩頭し続けたのだった。
――この日から一ヶ月後。
王妃の尽力のかいがあり、蘭花と軒虎の婚姻が結ばれることとなった。
権力が王妃に偏りすぎすのでは、と懸念する声が上がっていたが、軒虎の養母が殷貴妃であることから臣下たちは口をつぐんだ。
偉王妃は兵権を持つ兄――偉将軍を後ろ盾にもち、さらには王太女である白蘭花の養母となった。
殷貴妃は外朝を牛耳る兄――殷尚書を後ろ盾にもち、さらには王配となる白軒虎の養母となった。
上手く権力が二分されたことで、外朝は静まり、家臣たちもこの決定に意を唱えることはなかった。
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