第24話 淡雪

 追悼の鐘の音と大勢の泣き声が響き渡る後宮。


 軒虎シェンフーは、その故人――小蘭シャオランの母であるシェン氏――を失った悲しみの声から逃れて、静謐せいひつで穏やかな時が流れる御華園に来ていた。


 軒虎は四阿あずまやの柵に腰掛け、煙管キセルで煙草を吹かしていた。柱に背を預け、あぐらを組んだ衣の上に、淡雪あわゆきが舞い降りては泡のように消えていく。小蘭の涙に似た淡雪それをぼうっと眺めては、狂おしいほどの愛しさと、激しい喉の乾きを覚える。


「小蘭……」


 愛しい少女の名を呼び、軒虎は左の手のひらを、宙に差し出した。すると、淡雪の一つが意思を持っているかのように、はらりはらりと舞い降りてきた。そうして軒虎の手のひらに着地すると、淡雪は溶けることなく原型をとどめた。このあり得ない現象に、軒虎は姿勢を正して目を見張る。


「アンタ……小蘭か?」


 雪は当然答えない。当たり前のことだが、軒虎はがっかりと肩を落とした。すると不思議なことに、溶ける気配のない淡雪が、手のひらの上をころころと転がった。『軒。私よ。あなたの小蘭よ』と、言われている気がして、軒虎の心臓がトクンと高鳴った。


『軒。愛しているわ』


「ああ、俺も小蘭を愛してる」


 軒虎は花の甘い蜜に惹かれる蝶のように、自然と淡雪に口づけた。熱を帯びた唇が触れた瞬間、淡雪は夢のように溶けてなくなった。手のひらに、雫一滴残さず消えていった淡雪。軒虎は泣きたい気持ちを抑えるために、交領えりの合わせ目をぎゅっと握りしめた。


 『黄赤色で綺麗』と、蘭花が愛した赤い瞳で雪雲を見上げる。手の届かないそらから、とめどなく舞い降りてくる淡雪を眺めながら、軒虎はあの日――火災が起こった時のことを思い出す。


 ――白虎に転変した軒虎を見上げる小蘭の瞳は、驚愕と憎悪の色に染まっていた。


「……記憶が戻ったんだな。小蘭……」


 ――白蘭花バイランファが記憶の一部を失った。


 御華園の鞦韆ブランコの前で小蘭と再会した時。変な遊びを考えるものだと、内心呆れ返っていた。だが、酉施ゆうし楼での一件を思い出して、もしかしたら本当のことなのかもしれないと思い直した。だから軒虎は小蘭の正体に気づかないフリをした。しかし――


「こんなに深く愛してしまうと分かっていたら、あの時すぐに、小蘭の前から立ち去ったものを……」


 軒虎に人を愛することの喜びと切なさ、相手の全てをむさぼり尽くしたいと願う強い欲望を抱かせたまま、小蘭は軒虎の前に現れなくなった。


 ――もう二度と会うことはないのだろうか?


「そんなことは許さない」


 ――もう二度と触れ合うことは出来ないのだろうか?


「たとえ拒絶されようとも、また何度でもあの唇を奪ってやる」


 ――もう軒虎のことを愛してはいないのだろうか?


 軒虎は煙管をひっくり返し、柵の角に打ち付けた。炭と化した刻み煙草が凍った湖面の上に着地してじわじわと氷を溶かしていく。その様子を無感情に眺めながら、軒虎はクックッと含み笑った。


「小蘭。俺と約束したはずだよなぁ? アンタだけは、俺のことを捨てないって」


 ――約束を違えることは許さない。


 もしも、軒虎の存在を心の底から拒絶したならば、そのときは――


「愛して愛して愛しつくしたあとで食ってやる。アンタを俺の一部にしてやるよ。俺の愛しい女……白蘭花」


 軒虎は、ようやく喉のつかえが取れてまともに息ができるようになった気がした。


 我ながら良い案だ、と一笑して、結い上げた団子髪に煙管を挿し込む。上機嫌で柵の上から飛び降り、宮に戻ろうとしたところで、厄介な人物に出会った。


「あーっ! 軒虎ちゃん、みーつけた!」


 軒虎を指差して楽しげに笑う、すず色の髪と梔子くちなし色の瞳を持つ少女――白蘭玲バイランレイは、海棠かいどう色の生地に銀の糸で精緻な刺繍を施した外套を躍らせながら、軒虎のもとへ駆け寄ってくる。


 待ち人は来ないのに、余計な蘭玲おんなが来たことで、軒虎の機嫌は急降下した。軒虎はあからさまに顔をしかめると、チッと舌打ちする。


 軒虎は踵を軸にして、くるりと方向転換をしたが、周到に回り込んできた蘭玲に道を塞がれてしまう。軒虎が右足を踏み出せば、蘭玲は身体を左に傾けて邪魔をする。その逆もしかり。


 軒虎と同じく齢15の乙女だというのに、この蘭玲という女は、事あるごとに幼稚なことをしてみせるのだ。


 軒虎は、ピンと立つ白虎の耳を意識して――多分、おそらく――結い上げられた蘭玲の頭部を見下ろした。――蘭玲の身長は、軒虎の頭一つ分だけ低い。


「……なんの用だ」


 軒虎は無感情に問いかけた。――別に興味はないが、聞かなければ道を譲ろうとしないだろう。


 蘭玲は両腰に手を当てて、下からずいっと慶虎の顔を覗き込んできた。互いの鼻が触れそうになり、慶虎は一歩後ずさる。蘭玲は、フフッと機嫌よく笑った。 


「なぁーに? 用がなくっちゃ、軒虎ちゃんに会いに来ちゃあいけないの?」


 餌が欲しくて甘えてくる野良猫のような、鼻にかかった甘ったるい声に、軒虎の耳は腐り落ちそうになる。


 軒虎は右耳に人差し指を突っ込むと、チッと舌打ちをした。


「用があっても会いに来るな」


 目も合わせたくなくて、軒虎は明後日の方向を見遣る。すると蘭玲は、ぽってりとした唇を尖らせて、


「ひどぉーい! 将来の妻に向かってしつれーよっ」


 と言った。


 ――戯言を。


 軒虎はハッと冷笑する。


「冗談じゃない。寝言は寝て言え」


 「冗談じゃないもん! あたしは本気よっ」と、蘭玲はふてくされた顔をする。それから、フンと鼻をならして軒虎から離れ、両腕を組んだ。


「そもそも、あんたみたいなニセモノ王子。あたし以外の誰が相手するっていうの?」


 自分以外にいるはずがない、と決めつけてくる蘭玲を尻目に掛けて、軒虎は小蘭の花のような笑顔を思い浮かべた。――無意識に笑みがこぼれていたのだろう。


 蘭玲は目をパチクリさせて、


「あの軒虎ちゃんが……笑ってる……」


 と、呆然と呟いた。それを耳にした軒虎は、思いっきり眉間にシワを寄せた。


「あのな。俺だって笑うことくらいある」


「ふぅーん」


 軒虎の言葉を聞いているのか聞いていないのか、蘭玲は適当な反応を返すと、右手の親指の爪をカリッと噛んだ。そのままじーっと軒虎の顔を見つめてくる。そしていきなり、両手をパチンと合わせると、


「ねえ、ねえっ。もーいっかい笑って見せてよ〜」


 と言って、軒虎に詰め寄ってきた。軒虎は間髪入れずに「嫌だね」と答える。すると蘭玲は、


「ええ〜! 軒虎ちゃんのけちんぼ〜!」


 と、拗ねた態度を取った。


「どうとでも言え。……それより、アンタ。ここで俺と話してること、狸ババア殷貴妃は知ってんのかよ?」


 軒虎が訊ねると、蘭玲は急にどうでも良さそうな態度を取った。


「ん〜? さぁ〜? 知ってるんじゃないかなぁ〜?」


「……傀儡ババア劉賢妃が謹慎刑くらってんだ。あの狸ババアなら、自分の娘を、俺に近づかせないようにするはずだろーが」


 蘭玲は、プッを吹き出すと、キャハハと腹を抱えて笑い出した。


「……何がおかしい?」


 眉をひそめた軒虎を見ながら、蘭玲はヒーヒーと笑って、目尻に涙を浮かべた。


「だぁってぇ。……軒虎ちゃん。あたしのお母様が、普通のお母様みたいな言い方するんだもんっ」


 そう言って、その場でくるりと一回転してみせた蘭玲は、ガラリと雰囲気を変えた。


 道化の仮面を外した蘭玲は、


「あのひとはね。自分以外の人間はただの駒としか思ってないの。それが腹を痛めて産んだ娘だろうと関係ない。あたしの駒としての役割は、白慶虎バイジンフーと婚姻して正妻の座につき、白慶虎を暗殺することだった。……でも、あのニセモノ公主がホンモノになっちゃったせいで、計画は白紙になった……そしてあたしは、無用の長物になったってわけ」


 「おわかり?」と言って、くるりと一回転した蘭玲は、いつもの道化を演じ始める。


「だーかーらぁー、可愛そうな蘭玲のお婿さんになってよ、軒虎ちゃん!」


 蘭玲は、えいっと言って、軒虎の左腕に抱きついた。これには流石の軒虎もゾワッとして、蘭玲の手めがけて手刀を落とした。


「いたぁ〜い! 酷いよぉ、軒虎ちゃん! 罰としてあたしと婚姻してっ」


「嫌だっつってんだろーが。しつこいと殴るぞ」


「きゃっ! 暴力的な軒虎ちゃんもかわいい〜!」


 キャッキャッと楽しそうに笑う蘭玲の顔に、先程の能面のような顔が重なる。


 ――後宮ここは、人間の精神を蝕んでいく。


 だからこそ、己を見失わずに生きている小蘭や慶虎が、次期王の器足り得るのだ。


 軒虎は、ハァと白い息を吐きながら、雪雲を見上げた。灰色ががった雲から、淡雪は次から次へと舞い降りてくる。それを見て思い出すのは、やはり小蘭の泣き顔だった。


「……悲しんでいるんだな。小蘭」


 そう呟いて、小蘭の側に居てやることができない自分の立場を呪った。――どんな時でも、小蘭の側に居て、寄り添ってやりたい。


 そんなことを切実に願いながら、軒虎は御華園を去ったのであった。

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