第9話 秋宮 弐

 室内に沈黙が落ちる。


(やっぱりお兄様も、私との婚姻なんて嫌よね)


 蘭花はハァとため息を吐いた。


 ――蘭花と慶虎ジンフーは、腹違いの兄妹けいまいだ。


 歳は六つも離れているが、ウェイ王妃とシェン氏の仲が良かったこともあり、蘭花が生まれたときから交流があった。


 まるで同腹の兄妹のような二人だが、よくある話、慶虎の初恋の相手は蘭花だった。


 二人が幼い頃。蘭花に首ったけだった慶虎が、


『ぼく。大きくなったら小蘭シャオランとけっこんする!』


 と言ったことがあった。


 しかし蘭花は、明杰ミンジェのことが好きだったので、


『らんふぁは、おにいさまと、けっこんしたくないぃぃぃ〜〜!』


 と泣き喚いてしまった。それで怒った小菊シャオジュが、慶虎を追いかけ回した挙句、ほうきで尻を叩きまくるという事件が起きた。そのときから慶虎は、小菊のことを苦手としているのだ。


 蘭花は乳菓子をかじりながら、くすくすと思い出し笑いをした。


「……なぁーに、笑ってるんだ、よっ」


「きゃっ」


 慶虎に額をツンッと押された蘭花は、額をさすりながら、ぷくっと頬を膨らませた。その姿をニヤニヤと眺める慶虎の口に、食べかけの乳菓子を突っ込んでやる。


「別に? ただ、昔のことを思い出して懐かしんでいただけよ」


 慶虎は乳菓子を咀嚼そしゃくしながら「ふーん」と興味なさげに言うと、いつの間に飲み干したのか、空になった茶杯ちゃはいを手に取った。それを見た蘭花は茶壷ちゃふうを取ろうとしたが、慶虎に横取りされてしまう。


「……お茶くらい注いであげるのに」


 唇を尖らせた蘭花に、慶虎はわざとらしく手を振った。


「いやいや。天下の王太女様に、給仕の真似事などさせられませんよ」


 蘭花はプッと吹き出すと、空になった自分の茶杯を、ずいっと前に差し出した。


「それじゃあ、遠慮なく。ああ! 高貴な第二王子殿下が御自おんみずから給仕してくださるなんて! とぉ〜っても光栄でございますわ〜!」


「お前ねぇ……あんまり調子に乗るなよ?」


 そう文句をいいながらも、蘭花の茶杯にお茶を注いでくれる。


 蘭花はふふっと微笑んだ。


 気心が知れていて居心地がいい。


 これだから蘭花は、慶虎のことが好きなのだ。――もちろん、敬愛する兄として。


 蘭花は慶虎に礼を述べて、茶杯の飲み口に口をつけた。それに続いて、慶虎もお茶をあおる。


「うえっ! 甘ぁ〜〜。……蘭花、お前。まだ乳茶ツァイなんか飲んでるのか?」


 口直しに、甘くない点心をつまんだ慶虎を見て、蘭花はふんっと鼻を鳴らした。


「嫌なら飲まなきゃいいじゃない。それに、私が好きなのは、栗と乳酪にゅうらくの点心と茉莉花ジャスミン茶よ! このお茶や点心は、お義母様が私のためにって用意してくださったものなの! 文句を言うなら、お義母様に言ってちょうだい。……まったく。お義母様もお義母様だわね。お兄様との婚姻を勧めるわりに、私のことを『幼い小蘭』だと思ってらっしゃるんだもの」


 鼻息を荒くする蘭花を黙って眺めていた慶虎は、ふわぁと欠伸あくびをひとつして、あぐらの上に肘をついた。


「――で? 蘭花は僕と婚姻する気があるのか?」


「あるわけないでしょう!」


 迷うことなく即答した蘭花に、慶虎は苦笑を浮かべる。


「そうだよなぁー。なんてったって、僕と蘭花じゃねえ? 夜伽も難しいだろうなぁ……」


「ちょっと、お兄様! 変な想像するのは止めてくださる!? ほら見てくださいませ、この腕を! 鳥肌が立ってしまいましたわっ」


 よく見てみろと、自分の腕を慶虎の顔に押し付けてくる蘭花に、慶虎はめまいを覚えた。


「蘭花……頼むから、こういうことは、僕以外の前ではしないでくれよ?」


 蘭花は腰に手を当てると、胸を張って得意げに言った。


「なにをおっしゃってるの。相手がお兄様だからこそ、私ははしたないことも平気でできるのよ?」


 意気揚々と、『あなたのことは男として見ていません』と宣言した蘭花を見て、慶虎は複雑な気持ちを抱いた。


「……僕は今でも、蘭花と婚姻してもいいと思ってるんだけどなぁ」


 囁くように言った言葉は、蘭花の耳に届かない。


 慶虎は、自分の顔に押しつけられた、蘭花の腕の柔らかさを思い出す。そして、自分の衣に残る、爽やかで甘い蘭花の香りに頬を赤く染めた。


「あら、お兄様。どうなさったの? お顔が赤くなっているわ」


 熱でもあるのだろうかと、蘭花が額を触ろうとすると、慶虎は慌てた様子で卓に突っ伏した。


「……お兄様。それじゃあ、お熱が測れないわよ?」


「わかっててやってるんだよ! こ、これはだな……に、西日に当たりすぎて、顔が赤くなっただけだっ」


「西日?」


 慶虎に言われて初めて、蘭花は日が傾いていることに気がついた。――思いの外、長居してしまったようだ。


 蘭花が、暮色ぼしょくに染まりつつある空から視線を外すと、いつの間にか顔を上げていた慶虎と目が合った。


「お兄様。私、そろそろ帰らないといけないわ」


「おう。……でも蘭花。婚姻の件はどうするつもりだ?」


「……そうだったわ。忘れてた」


 蘭花は視線を泳がせるが、何も思いつくことができず、こてんと首を傾けた。

 

「どうしよう?」


「それを考えるための時間だったんじゃないのか? この茶会は」


 慶虎は呆れたように両腕を組んだ。


(正論すぎてなにも言い返せない……)


 蘭花はようやく真面目に考えてみる。


 王妃は蘭花に優しいが、優しいだけで、後宮の主は務まらない。


 伏魔殿である後宮で、王妃として生き残り、王妃の座を守ることは並大抵のことではないはずだ。その王妃が二人の婚姻を望んでいるということは。


「……なにか思惑があってこその婚姻よね?」


 言った蘭花の耳に、「当たり前だろうが」と、呆れを含んだ声が聞こえてきた。


「僕が王位につけば、母上は两宫王太后にのみやおうたいごうになれたんだからな」


 そう言って、慶虎は後ろに手をついた。


「でも、私が王位についたって、お義母様は母后ぼこう王太后として尊ばれるわ」


 蘭花が眉尻を下げると、慶虎はため息をいた。


「……蘭花。お前は母上のことをなにもわかってない。……あのひとは権力欲の塊だぞ? 僕とお前。どちらが王位につこうが、嫡母である母上が母后王太后になるのは決まっている。だけどな、蘭花。あのひとは、『自分の子ども』を王位につけたかったんだよ」


 蘭花はうっと呻く。


「で、でもっ! 私とお兄様が結婚しても、結局は同じことじゃない! 私にとって王妃殿下はお義母様なんだからっ」


 必死に言い募る蘭花の姿を黙って見ていた慶虎は、よっこらしょと腰を上げて立ち上がる。それから蘭花の側までやってきて、座ったままの蘭花の頭の上に手を置いた。


「……母上は、僕と蘭花を交換した状態で婚姻させたいんだよ」


「――は?」


 蘭花はポカンとしたあと、いやいやと顔の前で手を振った。


「お義母様が私を養子にしたからってなにも変わらないじゃない」


「いいや、変わるさ。母上は『自分の娘』を王位につけた两宫王太后になれる」


 蘭花は開いた口が塞がらなかった。


「そ、んなの……無茶苦茶だわ……」


 呆然とつぶやく蘭花に、慶虎は肩を竦ませた。


「そう。無茶苦茶なんだよ母上は。……知らなかったのか?」


 笑い混じりに言われて、蘭花はふるふると首を左右に振った。


「知らなかったわ……」


 慶虎は蘭花の頭をポンポンと優しく叩くと、蘭花の隣にあぐらをかいて座った。


「……まあ、僕は別にいいけどね。沈氏の養子になっても」


 蘭花はまなじりを吊り上げる。


「私は嫌よ!!」


「そー言うと思った。お前のとこは絆が強いからなぁ」


 言いながら、フッと寂しそうに笑った慶虎の姿を見た蘭花は、たちまち怒りの炎が消えていくのを感じた。


「ねえ、お兄様」


「うん? なんだよ」


 蘭花は胸の前で両手を握りしめると、慶虎のべっ甲色の瞳をまっすぐに見つめた。


「私、お兄様のことが大好きよ。でも、結婚することはできないわ」


「……そー言うと思った」


「お義母様のことも好きだけれど、私は死ぬまで沈氏の娘でいたいわ」


「そりゃそうだ」


 慶虎は、苦笑しながらあぐらの上に頬杖をついた。


 蘭花は、黙って宙を眺める慶虎に、


「……養子にしたいなら養子にしたいと、はっきりおっしゃればよろしいのに。それにお兄様との婚姻は、養子とは無関係だわ」


「それが無関係じゃないんだって。……言っただろ? 母上は権力がお好きなんだ。自分の息がかかっていない人間の息子が王配おうはいになるよりも、沈氏の子どもが王配になるほうが都合がいいし、母上の立場はより強固なものになるからな」


 そう淡々と話す慶虎の横顔を眺める。


 蘭花は、その横顔から疲労の色を見てとった。


「……お兄様。大変だったのね」


「おー、大変だよ。やりたくもない王太子をやらされた次は、王配の座を押し付けられそうになってるんだからな」


 蘭花は両膝を抱えると、顔を半分だけ横に向けて慶虎を見た。


「……この婚姻を断ったら、お義母様は私のことをお嫌いになるかしら?」


「さぁな。……でもまぁ。今までよりは溝ができるだろうな」


「……そっか。それはちょっとだけ、寂しいわね」


 蘭花は遣る瀬なさを感じながら、自分のために用意された乳菓子と乳茶を眺めたのだった。

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