第8話 秋宮 壱

 御華園ぎょかえん明全ミンチェンと会った翌日。


 御前太監ごぜんたいかん聖旨せいしを持って、朧月堂を訪ねてきた。


 蘭花が予想していた通り、聖旨の内容は、蘭花に王太女の称号を授けるというものだった。


 蘭花は地に両膝をついて頭を下げ、御前太監から聖旨を受け取った。……そのとき。


「おめでとうございます、王太女殿下。……これで、偽物公主の汚名を晴らせましたなぁ」


 と、御前太監が囁いた。なよなよしい声に含まれた優悦と、生温い呼気から臭う汚水臭に、めまいを感じるほどの怒りが湧き上がった。


 蘭花は奥歯を食いしばり、転変しようとする身体を地に押さえつけ、太監達が去っていくまで動くことができなかった。


(あの太監……あいつにも復讐してやる……)


 ぎりっと奥歯に力を入れた蘭花は、額に泥をつけたまま、太監の軌跡を睨み続けたのだった。





 勅命が下ってから数日が経ったある日のこと。


 王妃付きの首領しゅりょう太監が朧月堂を訪れた。


「――お義母様が私を?」


 太監は、目礼したまま首肯した。


「……わかりました。すぐに支度を整えてから参ります、とお義母様にお伝えください」


「御意」


 と言って、再び首肯した首領太監から視線を外した蘭花は、室内をきょろりと見回した。


「――小梅。リー太監をお見送りして」


 部屋の隅で花を生けていた小梅は、


「かしこまりました!」


 と笑顔で返事をすると、タタタと小走りで蘭花の側にやってきた。


「では。私はこれで失礼いたします」


 片膝をついてお辞儀をした太監に向かって、蘭花は鷹揚に頷いた。


「お気をつけて」


 蘭花がそう声を掛けると、首領太監は微笑んで会釈をし、小梅と共に部屋から出ていった。


 蘭花は、読んでいた書を閉じて立ち上がり、小菊を呼んで身支度を済ませた。


「それじゃあ、小菊。秋宮しゅうぐうへ行くわよ」


 小菊は、王妃への手土産の点心を食盒じゅうばこにしまうと、こくりと頷いて蘭花に追従したのだった。





 秋宮に到着すると、蘭花は、王妃の歓待を受けた。


「おお。蘭花よ。よくぞ参った」


「お義母様。ご無沙汰いたしております。……お変わりありませんか?」


 蘭花は悠然と微笑みながら、王妃の挙動を観察する。


 自分の息子が王太子の称号を奪われたのだ。心安らかでいられずはずはないだろう。


 そう思っていた蘭花の予想に反して、王妃の反応は実に落ち着いたものだった。


「まだ幼いのに愛々あいあいしいことを言う。ときどき、持病の頭痛で寝込むことはあるが、それ以外はなにも変わらぬよ。心配をかけたな」


「いいえ。お義母様の御身おんみを案ずるのは娘として当然のことにございます」


 そう言って、蘭花は板張りの床に両膝をついて頭を下げた。


「ほほほ。実に聞き心地がよい言葉だ。蘭花よ。そなたの孝行心はしかと受け取ったぞ」


「それはなによりでございます」


 蘭花は頭を下げると、十二歳の少女らしい、無垢な笑顔を浮かべた。


 その後も王妃との歓談は和やかに続いていき、茶会は終盤にさしかかった。


(……てっきり、嫌味の一言でも言われるかと思っていたけれど……私の杞憂だったのかしら?)


 まったく、拍子抜けだと思いながら、お茶を飲み干したときだった。


「――それはそうと、蘭花。そなた。第二王子のことをどう思う?」


 蘭花は内心で、ようやく本題に入ったかと思いながら、こてんと首をかたむけた。


「お兄様でございますか? ……文武両道でお優しく、偽物公主と言われていた私にも別け隔てなく接してくださる、自慢のお兄様だと思っておりますわ」


 ――これはすべて、本心だった。


 蘭花の言葉を聞いた王妃は満足げに頷くと、しゃっと扇を開いて口元を隠し、側仕えの侍女に何事かを耳打ちした。頷いた侍女が部屋から出ていくと、王妃は扇を閉じて、パシッと手のひらを打った。


「蘭花よ。こなたは少し頭痛がしてきてな」


「それは大変です。いますぐに侍医じいを――」


 言って、腰を浮かせた蘭花だったが、なぜか王妃に止められてしまう。


「いや、いつもの軽い頭痛だ。侍医の手を煩わせるまでもない」


「ですが……」


 蘭花は、なおも言葉を続けようとしたが、王妃が再び扇で手を打ったことで沈黙した。


 王妃の気を悪くしてしまっただろうかと、内心焦っていた蘭花は、ちらりと王妃の顔を伺い見た。するとそれに気づいた王妃が意味深な笑みを浮かべた。


(……いったい、なにを考えているの?)


 蘭花は不安を感じつつ、王妃を案じる表情を浮かべる。


「そう案じるでない。本当にただ軽く痛むだけだ。……だが、せっかくの茶会を続けられそうになくてな」


「さようにございますか。とても残念ですが……お義母様の御身体がなによりも大切ですわ。どうか私のことはお気になさらず、ご静養なさってくださいませ」


 そう言って、この窮屈な茶会もようやく終わりかと思ったときだった。


「第二王子殿下のお見えにございます!」


 首領太監の言葉に、蘭花は後ろを振り向いた。そこには、侍女に急かされて連れられてこられたのだろう。蘭花と同じ銀髪を結い上げ、常服じょうふくを着た第二王子――白慶虎バイジンフーの姿があった。


「お兄様……」


 蘭花が小さくつぶやくと、一瞬だけ、べっ甲色――黒みを帯びた深い黄色の瞳と視線が交わった。


「来たか」


 慶虎ジンフーは王妃に向かって両膝をつくと、ほうの袖口を合わせて頭を下げた。


「母上。ご機嫌麗しゅう。……急ぎの用と聞き、馳せ参じました」


 王妃は、開いた扇で口元を隠し、ほほほと上品に笑う。


「よくぞ参った。なに。久しぶりに蘭花との茶会を楽しんでおったのだが、こなたの持病が再発してな」


 慶虎は、ハッと顔を上げた。


「それはいけません。いますぐに侍医を――」


 軽く腰を浮かせた慶虎を片手で制した王妃は、ほほほと楽しげに笑った。


「大したことはない。ただ、茶会を続けるのはつろうてな。お前に蘭花の相手を頼もうと思ってここに呼んだのだ」


 その言葉に、ホッとした表情を浮かべた慶虎は、


「そういうことでございましたか……」


 と言うと、王妃に向かって頭を下げた。


「では、僭越ながら。母上の名代として、蘭花公主のお相手をつかまつりたく存じます」


「うむ。では頼んだぞ」


 王妃は、侍女の手を取り立ち上がる。


「蘭花よ。今日は話ができてよかった。楽しかったぞ。あとの相手は慶虎に任せるゆえ、ゆっくりしていくがよい」


 蘭花は、王妃に向かって頭を下げた。


「お心遣い感謝いたします。どうぞお大事になさってくださいませ」


「うむ。では、またな」


 そう言って、王妃は部屋から去っていく。それに続いて宮女も太監も去っていき、部屋には、蘭花と慶虎だけが取り残された。


(……なるほど。そういうことだったのね)


 ようやく王妃の意図を汲み取った蘭花は、ふぅと肩の力を抜くと、苦笑しながら慶虎を見た。すると、同じように苦笑いを浮かべた慶虎と視線が交わる。


「お兄様。お久しぶりです。お元気でしたか?」


 慶虎は姿勢を崩して胡座をかくと、頭をポリポリと掻いた。


「元気は元気さ。ただ、優秀な妹のおかげで王太子の座を降りることはできたけど、降って湧いた時間を持て余していてね。暇つぶしの相手を探してるんだ」


 慶虎は、手でひさしを作って、きょろきょろと回りを見回すふりをしてみせる。


 相変わらず愉快な方だと思いながら、蘭花は口元に手を当てて、くすくすと笑った。――ならば、こちらも一芝居打ってみよう。


「あら。そうだったの? だったらここにお座りになって? 私は帰るけれど、小菊を残していくから、仲良くお話ししてちょうだい。夕餉の支度があるから、あまり長く引き止めないでね?」


 そう言い蘭花が立ち上がろうとすると、


「蘭花〜。僕を見捨てないでよ〜」


 と言って、慶虎は本気で半べそをかきそうになった。


 蘭花は肩をすくめると、座席に腰を下ろして茶壷ちゃふうを手に取った。手際よくお茶を淹れる蘭花の近くに、にこやかな笑顔を浮かべた慶虎がやってきて、向い側に座った。


「お兄様ったら。まだ小菊のことが恐ろしいの?」


 蘭花は、困った顔をしながら、慶虎の前に中身の入った茶杯ちゃはいを置く。


「僕が『小蘭と結婚する!』って言ったときの、あの鬼の形相! いま思い出しても恐ろしい! あっ……思い出したら、小菊に箒で叩かれた尻が痛くなってきた……」


 げんなりした表情を浮かべる慶虎に、


「……でもお義母様は、私たちの婚姻をお望みのようだわ」


 と言った。

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