第1話 初雪の日

 物々しい足音が幾重いくえにも響き渡り、鎖を束ねたようなジャラジャラという鎧の音が、蘭花ランファシェン氏の部屋――朧月堂ろうげつどうに向かってきていた。


 蘭花は震える沈氏を守るように抱きしめる。


「いったい……一体何だと言うの!?」


 突然、衛士えじが押しかけてきて出入り口を全て封鎖したかと思えば、今度は鎧の音が向かってくるとは。――ただ事ではない。


 やがて足音は門の前で止まり、怒号と共に門戸を打ち壊し始める。


 そうやって数十人もの衛士えじたちにより、門は切り刻まれ、蹴り倒され、あっという間にただの木片へと変わり果ててしまった。


 沈氏と腹の子を守る為に、蘭花は敵に背を向ける。


 そんな蘭花を守るように、薙刀を持った玉容が、一歩前に躍り出た。


「何事です!? ここが沈婕妤しょうよのお部屋と知っての狼藉ですか!」


 小菊は暗器を両手に持ち、


「無礼な! ここには、第四公主の蘭花様もおわすというのに!」


 と叫んだ。


 侍女たちが口々に喚き立てると、睨みを利かせる衛士たちの間から、巻物――黄色地に金糸で刺繍が施されている――を持った太監たいかんが姿を現した。


 陛下の御前に仕えている太監が、『聖旨せいし』と書かれた巻物を広げた。


 現状に納得がいかなくても、不安を抱えていても、聖旨の前ではひざまずいてこうべを垂れなければならないのが宮中のしきたりである。


 蘭花たち一行は、歯痒い思いで、石畳の上にひざまづいた。

 

 聖旨の内容が読み上げられる。


「陛下の勅命ちょくめいを伝える。『婕妤、沈氏は、厚顔にも不義密通を行い、第四公主をバイ氏の娘であると偽った。また、その事実を十五年に渡り隠匿していた。その罪は重く、称号を剥奪し庶人しょじんとなし、終生、朧月堂に幽閉する』以上」


 が、その内容は事実無根の驚くべきものだった。


「……私が、陛下の娘では……ない……?」


 頭を下げることも忘れ、蘭花が呆然としている間に、沈氏が太監に追いすがる。


「わたくしは密通などしておりませぬっ! 蘭花は正真正銘陛下のお子でございます! なにかの間違いです! こんな……ありえないこと……。これは……これは陰謀……陰謀に違いありません……!!」


 白く細い腕のどこに眠っていたのか、沈氏は凄まじい力で太監服の裾を握りしめる。

 

「それは私が判断することではございません。私は陛下のご意思をお伝えしたまで。あまりしつこくなさるようならば、その場で切り捨ててもよいとのご命令をたまわっております」


 太監の言葉に、ただでさえ白かった沈氏の顔色が、白を通り越して真っ青になる。

 

「そんな……嘘だわ! 陛下がそんなことをおっしゃられるはずがないっ!!」


 滝のように涙を流し髪を振り乱して反論する沈氏を見て、太監は額の汗を拭いながら、やれやれと首を左右に振って払子ほっすを一振りした。


「――誰か」


 太監の指示に従った衛士が、太監にすがりついたままの沈氏を、荒々しく引き剥がそうとする。


 しかし、沈氏の意思は強く、太監から離れようとしない。


「チッ」


 やがてしびれを切らした気の短い衛士の手にかかり、沈氏は正面から袈裟懸けさがけに切られ、血の花びらを散らしながら純白の雪の園へ倒れ込んだ。


「いや……嘘よ、ねぇ、お母様……おかあさま……? ……ぅ、あ……うぅ……っ、いやぁーー! お母さまぁーー!」


 しんしんと雪が降り積もる中、キンと冷え切り澄んだ空気が、蘭花の慟哭を響き渡らせた。






(お母様が死んでしまった……)


 だというのに、蘭花はシェン氏を弔うことも許されず、ひとり朧月堂に幽閉されている。


 付き人は宮女きゅうじょひとりだけ。あとの者はすべて殺されてしまった。王をあざむいたという罪で、九族皆殺しも避けられないだろう。


 蘭花は第四公主を語ったという謂れのない罪によって、身分を剥奪され、死ぬまでこの部屋から出ることは許されない。


「……太監も官女も日和見ひよりみだもの。どうせすぐに、食事や衣服やら手を抜き始めて、人知れず餓死することになるんだわ……」


 ……そうなるくらいなら。


「そんな無様ぶざまな死に方をするくらいなら……」


 蘭花は、扉の横に置物のように突っ立っている官女に声をかけた。


「ねえ、あなた。頼みがあるのだけど――」


 そうして蘭花は、官女に用意させた毒杯を煽った。


「っ、……ぅ、ぐぅぅっ……」


 液体が通った粘膜全てが燃えるように熱くなり、じりじりと引き攣れていく感覚を覚える。そして、我慢できずに大きく咳き込むと、ゴボリと赤黒い液体を吐き出して口元や衣を汚した。


「ぅ……ガハッ! ゲボ、っ、ふぅ……っ!」


 赤黒い血液は、呼吸を繰り返す度に口から溢れ、そのうち、目や耳、鼻からも漏れ出るようになった。――それでも、無残に切り捨てられた沈氏や、暴力によって命を散らした侍女たちにくらべれば、まだマシな最期に思えた。


「も、し……ぅ……れ変われ、たら……コボッ! ふく、しゅう……っ、して、やる……わ……! ガハッ! か、なら……ず……」


 苦しみ悶えながら床を引っ掻いていた、指の動きがゆるやかに止まり、見開いたままの金色の瞳から光が消えた。


 こうして蘭花は、十五年という短い生涯に幕を下ろした。



 ……はずだった。






 白梅香はくばいこうのほのかに甘く、爽やかな香りが鼻腔びこうをくすぐる。


「……お母様のお好きな香りだわ」


 そうつぶやいて目を開けると、蘭花ランファは見慣れた寝台の上に横になっていた。


「ここは……私の寝台……? あれ……私、死んだはずじゃ……?」


 天蓋を眺めながら混乱していると、桃色のカーテンがさらりと開かれた。


「蘭花様。お目覚めですか? 今日は良いお天気ですよ」


 帳を寝台の端で束ねながら快活に話すのは、蘭花付きの侍女――小梅シャオメイだった。小梅は、青い梅によく似た濃い黄緑色の瞳を瞬かせると、蘭花の顔を覗き込んできた。


「どうなさったんですか、蘭花様。先程からぼうっとして。それになんだか顔色が悪いです」


「えっ。そ、そうかしら?」


 蘭花は自分の頬に手を当ててみた。すると、驚くほど指先が冷えていた。


「……蘭花様。やっぱりお加減が悪いので?」


 小梅は眉尻を下げて首をかたむけた。


小梅シャオメイが生きている)


 その事実が嬉しくて、すぐにでも小梅に抱きつき泣き出したかったが、蘭花は涙腺が緩まないようにぐっと奥歯を咬みしめた。


(突然泣いたら心配させてしまうわ)


 蘭花は気を引き締めると、心配そうにこちらを見ている小梅に、


「……大丈夫よ。ちょっと夢見が悪くて。大したことないわ」


 と言って、にこっと笑ってみせた。


「さようでございますか」


 ホッとした表情を浮かべた小梅から視線を外した蘭花は、自分の小さな手のひらを見つめながら口を開いた。


「ねえ、小梅。私って、いま何歳だったかしら?」


 すると小梅は、一瞬きょとんとしたあとで、くすくすと笑いながらその場にしゃがみ込んだ。


「本当に、今日はどうなさったんですか? 蘭花様は御年おんとし十二歳にございますよ」


「十二歳……嘘でしょう……?」


 蘭花は囁くようにつぶやくと、寝台から飛ぶように降り立った。


 履物を履かずにくつしたのまま、化粧台に走って向かう。


 そして、台座に置かれた銅製の化粧鏡をひったくるようにして手に取り、おそるおそる覗き込んだ。すると、鏡に映ったのは、大きな黄金の瞳と絹糸のように艶のある銀髪。そして、つるりとした白皙のまろい肌――十二歳の蘭花の幼い顔だった。


「なんてこと……」


 蘭花は、子どもらしく丸みを帯びた輪郭にそっと手を添えた。


(子どもの頃の姿だわ。私、本当に三年前に戻ってきたのね……)


 信じられない思いで頬をなでていると、抱えるようにして持っていた重い鏡を、背後からさっと奪われてしまった。


「銅鏡は重いのですから。落としてしまわれたら危のうございますよ」


 頭上に降り注いた、鈴の音に似た可憐な声に振り向くと、もうひとりの侍女――小菊シャオジュが立っていた。


「小菊……?」


「はい、なんでしょう?」


 小菊は姿勢良くたたずみ、蘭花の言葉を待っている。

 

(小菊……あなたも生きて……)


 侍女の小梅シャオメイ小菊シャオジュは、蘭花にとって、姉や友のような存在だ。


(無残になぶり殺されたふたりが生きている……)


 ……ああ、もう、無理だ。


 ついに、蘭花の涙腺が決壊した。


 蘭花の大きな金色の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。


「ら、蘭花様!?」


「えっ! 蘭花様!? 突然どうなさったんですか!」


 あわあわと慌てふためく小菊と小梅の姿を見て、蘭花は泣き笑いを浮かべると、


「なんでもないの。……なんでもないのよ」


 と言って、手の甲で涙を拭い取った。


 涙を拭きながら、すんすんと鼻をすする蘭花の姿を見て、小菊と小梅は顔を見合わせた。


「あの気のお強い蘭花様がこんなにお泣きになられるなんて」


「きっと余程怖い夢を見たのだわ」


 頷き会う二人の姿に、本当に奇跡が起きたのだと、蘭花は胸が熱くなるのを感じた。

 

(このバイ王朝の唯一神である、金武ジンウー様が助けてくださったのかしら? ……そう考えると納得がいくわ。謂れのない罪を着せられて自害までした私を、金武様が憐れんで、やり直しの機会をくださったのだわ。きっとそうよ。だったら、)


 ――この機会を無駄にしてはならない。


(今から準備を整えれば、あの惨劇から逃れられるはず)


 蘭花は夜着の合わせ目をぎゅっと握りしめた。


「……お母様たちを殺した黒幕を見つけ出して、必ず復讐してやるわ」


 そのためには、まずは動き出さなければ。


(……明杰ミンジェに会おう)


 蘭花はさっそく、春宮しゅんぐうに使いを送ることにした。

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