不感症③


「マキ!」


 大きな声が聞こえたと思った直後に、痛いくらい抱き締められた。



 ハッとして目を開くとコータさんの腕の中だった。



 いつの間に眠ってしまったのか分からないけど、悪夢を見た私の震える体は、汗でべっとりとしてる。



「大丈夫だ。俺がいる」


 耳元で囁かれた声に、震える手をコータさんの背中に回し、しがみ付いた。



「……怖い……夢を……」


「分かってる。魘されてた」


 カラカラに渇いた喉から声を絞り出すと、コータさんは更に強く抱き締めてくれて、



「喉……乾いた……」


「ああ、そうか」


 そう言って、ベッドから起き出し冷蔵庫からお茶とビールを取ってきてくれた。



 お茶を一口飲むと、少し気持ちが落ち着いた。



 そうして落ち着いてやっと、テレビから小さい音が聞こえてくる事に気付いて、眠ってから然程時間が経ってない事を悟った。



「私、どれくらい寝てた?」


「一時間くらい」


「そっか」


 そう答えた私の隣にコータさんが座ったから、その体に擦り寄るようにして身を寄せた。



 そんな私を片腕で抱き寄せたコータさんは、



「どんな夢見た?」


 何故かそんな事を聞いてきた。



「……言いたくない」


「何で言いたくねえ?」


「……思い出したくない……怖い……」


「俺が傍にいるだろ。怖くねえからどんな夢見たか言ってみろ」


 コータさんがそんな言い方をして頭を優しく撫でるから、不思議に本当に怖くないかもって思えた。



 だから出来れば口にしたくない夢の内容を話し始めた。



 実際話し始めたら物凄く怖くなったし、物凄く気分が悪くなったけど、コータさんがずっと頭を撫でてくれてたから、何とか最後まで話す事が出来た。



 そして全てを話し終わると、それまでずっと黙ってたコータさんは、「マキ」と優しく呼びかけ、



「押さえ付けてた手はもうねえ」


 はっきりとそう言った。



「……え?」


「指、折ったろ。もうお前を押さえ付ける手はねえよ。気持ち悪い笑い顔も潰した。お前に無理矢理突っ込んだモンも潰したから使い物になんねえよ。荒い息もない。もう虫の息だ。アイツらの歯はバキバキに折ってやったから、当分口も開けられねえ」


 コータさんはそう言って真っ直ぐに私を見つめると、



「いいか? 今度また変な夢見たら今日のアイツらを思い出せ。お前を苦しめたもんはもうどこにもねえって事を思い出せ」


 真剣な表情で言う。



 その表情が余りにも真剣だったから、内容を理解する前に自然と頷いてた。



「よし。分かったら寝ろ。ずっと傍にいてやるから」


 そう笑ったコータさんは、チュッと音を立ててキスをした。





 それはまるでマインドコントロールだった。



 クラブでの出来事の翌日から、コータさんは私が魘される度に「もうその手は潰した」と言い続けた。



 抱き締めながら言ったり、電話の向こうから言ったりと、その時によって状況は違ってたけど、何日も何日も言い続けた。



 そうやってコータさんは私の頭の中にクラブで見た瀕死状態の男達の姿を刷り込んでいく。



 もうあの手はない。



 もうあの顔はない。



 もうあの口はない。



 もうあのモノはない。



 はっきりとした言葉にして、刷り込んでいく。



 何度もコータさんに「夢の中で戦え」と言われた。



「指を折った瞬間を思い出せ」と何度も何度も言われた。



 そして私は言われた通りに戦った。



 毎晩毎晩夢と戦った。



 それは自分との戦いであり、トラウマに打ち勝つための戦いだった。



 コータさんに洗脳された脳が私を強くする。もうアイツらは――いない。





 悪夢と戦い始めて一ヶ月が経った八月のある暑い日、自分の部屋のベットで寝ていた私は、部屋に射し込んでくる朝の光で目を覚ました。



 パチッと目を開いた瞬間から、これがどういう事なのか分かってた。



 これもまた一度経験した事のある、すっきりと感覚だった。



「コータさん!」


 すぐに通話中のままの携帯電話に向かってそう叫ぶと、電話の向こうからガタガタッと大きな音が聞こえ、



『どうした? 大丈夫か?』


 次いで寝起きのコータさんの慌てた声が聞こえてきた。



「見なかった!」


『え? 何?』


「夢、見なかった!」


『……マジか?』


「うん! 見なかったよ! 本当に見なかった!」


『ああ……そうか……よかった……』


 嬉しさから明るい声を出す私とは対照的に、コータさんは安堵の溜息と共に言葉を吐く。



 その声にはほんの少し疲れもあった。



「コータさん、長い間ありがとう」


『ん? ああ、気にすんな』


「もう一回寝る?」


『んー、目ぇ覚めたしなあ……』


「そっか。起こしてごめん」


『いや、それは別にいい。そうだな。どうせなら、泳ぎにでも行くか?』


「え? いいの?」


『ああ。どうする?』


「行きたい! けど、刺青あっても行けるの?」


『海なら問題ねえ。用意出来たら電話してこい』


 そう言ってコータさんが通話を切ってすぐに、クローゼットの中から水着と浮き輪を引っ張り出して鞄に詰め込んだ。



 寝起きなのにも拘らず動きが軽快だったのは、トラウマに打ち勝った清々しさのお陰だと思う。



 だから用意をするのも物凄く早くて、電話を切ってから一時間もしない内に「用意出来たよ!」と電話をかけると、コータさんは『早えよ』と笑った。



「コータさん、まだ時間かかる?」


『いや』


「じゃあ、もう出られる?」


『まあ、そうだな』


「ふたりで海行くの?」


『そのつもりだけど、誰か誘いたいのか?』


「……カナ。夏休み入ってから会ってなくて……」


『ああ、別にいいぞ』


「あっ! そうだ! そしたらシンさんも誘うっていうのはどう?」


『あー、アイツ誘ったら大変な事になるぞ?』


「でも、この前の時から会ってないし……ちゃんとお礼言いたいし……」


『どうなっても知らねえぞ?』


「悪い人じゃないでしょ?」


『いい悪いの問題じゃねえ』


「大丈夫! じゃあ、カナに電話するから、また後でね!」


 そう言って通話を切ってすぐにカナに電話をかけた。



 朝早くからの急な誘いだったのにも拘らず、カナはふたつ返事で了承してくれて、三十分以内に用意するとも約束してくれた。



 だからコータさんにすぐ折り返し電話をかけて、今から繁華街に向かうって言ったら、私の家の最寄りの駅まで迎えに行くって言ってくれた。



 電話を切ってすぐに家を出て駅に向かった。



 最寄の駅に着いて十分ほどすると、駅前のロータリーにコータさんの車が入ってくるのが見えた。



 だからすぐに駈け寄ったら、ちょうど目の前で車が止まり、



「よお」


 助手席の窓が開いて、そこからコータさんが顔を出した。



「おはよ!」


 そう言いながら、運転席にいるシンさんにも挨拶をしようと、助手席の窓から中を覗き込むと、運転席にシンさんがいなかった。



 そこにいたのは、全然知らない男の人で、なら後部座席にいるのかと後ろを見てみても、そこには誰もいない。



「あれ? シンさんは?」


 だからきょとんとしてそう聞くと、コータさんがげんなりした声で「あっち」と車の後ろを指差した。



 指差された方に目を向けると、コータさんの車の後ろに、フルスモークの黒いバンが停まってる。



 そのバンの助手席からこっちに向って手を振ってるシンさんの姿が見える。



 何がどうなってるのか分からないままシンさんに手を振り返してると、



「だからどうなっても知らねえって言ったろ……」


 コータさんが疲れた声で呟いた。



「何これ? どういう事?」


「シンに連絡したらアイツめちゃめちゃ人呼びやがった……あっちのバン八人くらい乗ってっぞ……」


「へえ……」


 不測の事態にそんな言葉しか出てこない私は、



「とりあえず乗れ。カナ迎え行くぞ」


 コータさんに促され、後部座席に乗り込んだ。



 それからカナを迎えに行って、海へと向かった。



 コータさんはやっぱり眠かったのか、移動の車の中でずっと眠ってた。



 私とカナは久しぶりに会った嬉しさでふたりでずっとはしゃいで喋ってた。



 海は沢山の人で溢れ返ってた。



 焼けるような砂浜を歩き、誰かが確保してくれた場所にビニールシートを広げる。



 その間私とカナは海の家の更衣室に行って水着に着替えた。



 カナはビキニを着てたけど、貧相な体型の私はロンパースタイプの水着を着て、左手首にしっかりとリストバンドを付けて更衣室を出た。



 シートに戻ると、コータさんが私の浮き輪をポンプで膨らませてた。



 コータさんは下は海パンだったけど上は黒いTシャツを着たまま。



 よく見るとシンさんや他の何人かもTシャツを着たままだから、みんな刺青があるんだと理解した。



「痩せすぎだな」


 膨らませ終わった浮き輪を渡しながらコータさんがそう笑ったから、



「もうちょっと太ってたんだけど、ここ最近でまた痩せた」


 受け取った浮き輪をモタモタと体に通しながら答えると、コータさんは「知ってる」と笑って、浮き輪を腰までずり下げてくれた。



 それを隣で見てたカナが何故かジッとこっちを見つめてくる。



 だから「どうしたの?」って聞いたら、浮き輪を指差された。



「マキちゃん、それって……子供用の浮き輪じゃない?」


「うん。そうだよ?」


 そうだからそうだって言っただけなのに、途端に周りにいたみんなが笑いだしたからびっくりした。



「何? 何が可笑しいの?」


「お前、何で子供用! やけに小せえと思ったら子供用って!」


 コータさんに至っては、浮き輪を指差して笑い転げてる。



 直後に少し離れた場所から物凄く笑ってる声が聞こえたから目を向けると、そこには案の定コータさんと同じように笑い転げてるシンさんがいた。



「え? 何がそんなに可笑しいの? 私ずっとこれだよ?」


「ずっと!」


「別にいいじゃん。困らないもん」


「分かった。デカい浮き輪買ってやる」


「これでいいよ! 大人用大きいから落ちるもん!」


「落ちたら助けてやるよ」


 そう言ったコータさんはヒーヒー笑いながら私を海の家に連れていった。



 別に欲しいとは思ってなかったけど、海の家に行ってみると、色んな色の浮き輪が吊るされて売ってたから、ちょっと欲しいかもって思った。



 ふたりで並んで浮き輪を見上げて、どれにしようか悩んでた。



 どうせなら好きな色の浮き輪にしようと、緑色の浮き輪を指差そうとした。



――その時、



「お前、ピンクが好きなんだろ? ピンクのでいいじゃねえか」


 徐にコータさんがそう言った。



 思わず「え?」と顔を見上げると、



「あれ? お前ピンクが好きなんじゃなかったか?」


 コータさんはそんな事を言う。



 でもその表情が少し強張ってるように見えたから、この場を誤魔化そうとしてるような気がした。



「……ううん。そんな事言った事ないよ」


「ああ……そうか。勘違いだ」



――ピンクが好きなのは誰ですか?



 喉まで出かかったその言葉を呑み込んで、



「あれにする」


 ピンク色の横にある、緑の浮き輪を指差した。

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