ビストロ・ボヌール

長井景維子

幸せ食堂

幸子は愛犬のシーズー、リッキーの散歩から帰ると、コーヒーを沸かして一人テレビを見ていた。一人娘のリサが大学生になると、高校時代とは違ってもう毎日のお弁当作りからも解放されて、自由時間が増えた。テレビではお気楽なワイドショーで、芸能人の不倫の話題で盛り上がっている。幸子はクッキーを齧りながら、コーヒーを啜り、テレビの箱の中で盛り上がる出演者にあまり興味のなさそうな視線を投げた。


リッキーが甘えて膝に乗って来た。幸子はテレビを見ながらリッキーを抱きしめて、壁にかかっている時計を見た。午後一時を回っている。そろそろ一人でお昼ご飯にしようか。


リッキーを抱きながら、キッチンへ歩いてゆく。冷蔵庫を覗くと、蒸しうどんが一人前あった。かまぼこと鶏胸肉もあり、ネギもある。茹でたほうれん草が少しある。おかめうどんを作ることにした。料理は好きな方だ。旦那の誠とリサに毎日美味しいものを食べさせたくて、料理を習ったりしていた時期もある。誠もリサも幸子の料理が美味しいので、滅多に夕飯を外食することはない。幸子はもう何年も四時になるとスーパーへゆき、買い物をするのが習慣になっていた。買い物から帰ると、リッキーを夕方の散歩に連れてゆく。そして、六時からキッチンに立って腕を振るうのだった。


短大を卒業と同時に誠とお見合いして結婚した。社会人になった経験がない。それは、幸子にとっては劣等感に結びつくことが多かった。働く女性を応援します、なんていう、近頃よく聞かれるフレーズを耳にするたびに、私はきっと一生、世間知らずなのだ、という重たい気持ちに負けそうになり、辛かった。


パートでもしてみようか、と思うことはあった。誠に相談すると、必要ないよ、と一蹴されるのが常だった。お昼ご飯のおかめうどんを食べ終えて、さて、本でも読もう。テレビは本当に面白くない。


読みかけの文庫本を開いて十分ぐらいすると、電話が鳴った。

「はい、岡本でございます。」

「あ、幸子?ゆかり。覚えてる?高校の同級生だった。」

「あ、ゆかり!久しぶり。何年ぶりだろう。もちろん覚えてるよ。」

ゆかり、声、昔のままだ。懐かしい。

「明日とか、空いてる?私、東京にきてるの。出張だったんだけど、明日の会議が急にキャンセルになって、1日空いちゃったの。横浜まで出れない?お茶しようよ。」

ゆかりは幸子の故郷、福岡で結婚し、今は福岡市内の比較的大きな会社で管理職に就いていた。子供は確か、アメリカに留学させているはずだ。なんか色々話聞きたいな。

「うん、空いてるよ。横浜まで出るよ。もしよかったらランチでもいいよ。」

「そうね、ランチにしようか。いいね。どこか美味しいところ教えて。」

「天ぷらとかどう?サザンの原坊の実家が美味しいのよ。」

「あ、聞いたことある。それがいい。」

「うん。根岸線の関内駅のすぐそば。横浜駅で待ち合わせしよう。」

「うん、よろしく!明日ね。」

思わぬ予定が入って、少しウキウキしてきた。暇って毒だな。明日は何着て行こうか。


2階に上がってクローゼットを覗いた。思い切って赤いニット着てみようかな。少し刺激に飢えていた。シャネルのバッグを持ってゆこう。少しオシャレもしてみたい。あのブーツにこの革コート着て。ゆかりはきっと生き生きした毎日を過ごしているんだろうなぁ。張り合うわけじゃないけど、ゆかりに刺激されて、私も気分変えたい。


四時になった。歩いてスーパーへゆく。今夜はビーフストロガノフだ。サワークリームとトマトピューレー、牛肉の細切れ、ブラウンマッシュルームを買った。あとは、グリーンサラダ。ドレッシングは玉ねぎをすりおろしてお手製のものを。


誠とリサは夕飯が出来上がって二十分ぐらいの間に続けて帰って来た。

「お母さーん、お腹減った。」

「はいはい。お父さんも今帰ったよ。三人揃って食べよう。」

「この匂いはストロガノフだね。」


三人は揃ってテーブルにつき、夕食のストロガノフを食べ始めた。

「そうそう、明日のお昼ご飯、私、友達と外食させてもらいます。高校の同級生が東京に来てて、横浜駅で待ち合わせなの。」

「へえ。いいじゃない。たまには外のご飯も。」

「ああ、楽しんでこい。」

「ゆかり、知らないよね、二人とも。高校時代から今まで年賀状だけのおつきあいだったんだけど。今、福岡に住んでるの。」

「へえ。あ、このドレッシング、美味しい。」

「あ、そう、よかった。」


次の日はよく晴れて、風が冷たかった。誠とリサが出かけたあと、リッキーを散歩に連れてゆき、帰ってくると、念入りに化粧をして、外出着に着替えた。リッキーをゲージに入れて、玄関に鍵をかけて出かけた。


横浜駅まで約二十分。駅に着くと、待ち合わせ場所に急いだ。しばらく待っていると、背中をポンと叩かれた。ゆかりだった。

「変わってない、幸子。すぐわかったよ。元気だった?」

「ゆかり!懐かしい。ゆかりこそ昔のまま。」

幸子は微笑みながら続けて言った。

「お昼食べに行こうか。そのあと、みなとみらいの美術館行かない?」

「いいよ!よろしく!」


天吉は関内駅から歩いて一分だった。予約はしていなかったが、二階の座敷に通された。天丼の上を二つ頼み、熱いお茶を飲みながら、幸子はゆかりに、

「仕事、大変ね。東京には時々くるの?」

と聞いた。ゆかりは、

「ううん。年一回くれば多い方。出張なんかはみんな若い人に頼んじゃうの。でも、今回はどうしても私が来なくちゃいけなくて。でも結果キャンセルだから、わからないものよ。」

「いいなぁ。私、仕事したことないの。」

「それ、恵まれてるよ。」

「そうかなあ。人間失格みたいに思うよ。」

「そんなことはないよ。仕事したければ、今からでもいいじゃない、何か始めても。」

「うん。でも、何もできないから、私。」

ゆかりは、話題を変えた。

「リサちゃんだっけ、大学生でしょ?良いところに入っていいわね。」

「ひとり娘だから、小学校から付属に入れたの。一人っ子だからできたよ。もうお月謝大変。」

「ははは。うちは三人いるから、だから、私が働かなきゃダメなのよ。」

「でも、ご長男はミネソタ州でしょ?」

「そう、州立大学。親元を離れたくて仕方ない子だったのよ。」

「へえ。立派ね。」

「好き勝手してるよ。アルバイトは留学生はビザの関係でできないから、仕送りが大変よ。」

「私は犬が友達。かわいいよ。シーズー。オスだけど。」

「いいなあ。絵に描いたような幸せな奥さんじゃない。」

そうでもないよ、と言いたかったが、お茶をすすりながら黙っていた。


「はい、天丼の上、お待ち遠様。」


「ここのは美味しいってよく聞いてたの。私も実は初めてなんだ。」

「そうなんだ。原坊のサインとか飾ってないね。」

「そうだね。そういうところもいいね。」

「うん。さりげない。」


二人は食べ始めた。美味しい。タレがたっぷりと掛かってるのに、まだサクサクしている。海老にキス、穴子、ナス、シシトウ。味噌汁は青さで良い香り。良質な油を使っているのがよくわかる香りの良い天ぷらだ。


「サザンってよく聞いたよね。福岡でも。」

「うん。桑田のあのちょっとエッチな感じが妙によかったね。」

「うんうん。」

「幸子、仕事したいなら、自分の得意なことすればいいんだよ。私、人材派遣の会社なんかにいるけど、派遣なんか、やめときなよ。この年になったら、もう、趣味と実益を兼ねた働き方がいいと思うの。」

「ふーん。そうなのね。」

「そうそう。今更、私たちはもう、若い人には敵わないのよ、どう頑張ったって。」

「そうだよね。」

「でもね、年輪ってものは嘘つかないから。それは本当よ。何かあるよ。」

「ウンウン、そうか。」


天丼と味噌汁、白菜のお新香を食べ終えると、二人は顔を見合わせて、

「美味しかったね!あたりだった。」

「うん、よかったよかった。原坊、ありがとう。」

「あはは。」


二人は店を出ると、桜木町まで電車に乗った。降りると、少し歩いて、国立美術館へ向かった。今日は印象派の展示だった。チケットを二枚買うと、ゆっくりと中を歩いた。


「美術館、久しぶりだわ。」

「私も近いけど、あんまり来ないよ。」

「パリにはバブル期に行ったよ。友達と。」

「そうなのね。私はまだ行ってないよ。」

「ルーブル美術館がストライキでお休みだったのよー。残念だった。」

「そうなんだー。」

「うん。」


美術館のあと、インターコンチネンタルホテルでお茶して、二人は別れた。幸子は楽しい時間を過ごせた。「年輪てものは嘘つかない」、ゆかりが言ったあの言葉が頭の中を去来した。私にも何かできる仕事があるかしら。私にも年輪はあるはずだけど。


しばらく悶々として過ごしていた。ゆかりからメールが来て、この間は楽しかったとお礼を言って来た。幸子もメールを書いた。

「ゆかり、またいつでも声かけてね。昔からの友達っていいね。」


テレビを何気なく見ていると、コマーシャルで女優さんが車を改造した食堂の中で、パンを焼いてサンドウィッチを作って食べに来た子供達が美味しそうに頬張るシーンがあった。こういう食堂、海のそばなら流行るんだろうな。私、こんな仕事ならしてみたいなあ。そのコマーシャルでは、キャンピングカーみたいな車をオシャレに改造して食堂にしてあった。そんな余裕はうちにはないけど、このリビングにお客さんあげて、お昼ご飯、食べてもらうってどうだろう。


幸子の家のリビングルームは南側に庭が広がり、日当たりが良い。サンルームもあるので、そこがリッキーの絶好のお昼寝場所になっている。ここに来て寛いでもらえるように、ちょっと工夫したら、私、料理はなんとかできそうだな。日替わり定食で千円ぐらい、飲み物は福岡から取り寄せてる美味しい八女茶。デザートに季節の果物を。野菜もたっぷりで。


この辺りは高齢の方も多い。昼間、家にいる彼らに、ちょっと寛いで食べてもらう。一週間に一回ぐらいなら、美味しかったら通ってくれる人もいるかもしれないよね?子供を幼稚園に行かせてる若い主婦の人でも、たまには外食を家の近くでしたくなることないかなあ?


主婦にターゲットを絞ったら、食べたそうなものも分かりそうだった。苺にバルサミコ酢かけたり、上質なオリーブオイルでドレッシング作ったりしたら、喜んでくれるよね。高齢でも主婦は主婦。長い間台所を任されて来た歴史は、料理の好みにも現れる。パリっと揚がった春巻き。 自家製のチャーシュー。自慢のぬか床のぬか漬け。


誠にはまだ何も言わず、一人で温めていた。商社マンの誠は、家事育児を今まで幸子に任せきりにしてきた。幸子に働きたいという希望があること、社会に出たことがないコンプレックスがあることには不思議なくらい鈍感だった。誠は、残業続きでも美味い飯が待っていれば、なんとか勤めを続けられた。幸子には感謝はしているが、幸子に不満があるとは夢にも思っていなかった。


リサは手のかからない子だった。幼い頃から体は丈夫で、バレエを習わせたら、見事に上達した。その後、何度か発表会に出て、華やかな舞台にもあがっが、高校に入学すると同時に急に辞めると言いだし、高校では生徒会の役員をした。大学は推薦で入ることができたので、本当に親孝行してくれた。小学校、中学校は公立大学の付属に入れた。勉強はあまりさせなかったが、負けず嫌いなところもあり、テストが悪いと自分で参考書を買って来て、努力していたようだ。


このダイニングテーブルなら、六人座れる。あと、一階の六帖の座敷も使えば、10人はキャパできる。毎日、千円の日替わり定食を十人前。一万円の売り上げで、三千円利益が出ればいいや。


献立は一応、前の日までには考える。そして前日までに買い出しにゆこう。八宝菜に春巻きを一本。ご飯と杏仁豆腐をつけて、千円。中華ならこんな感じ。ローストビーフ丼もいいな。小さなサラダとオレンジをつけて、これも千円。ドレッシングはバルサミコと塩胡椒、エキストラバージンオリーブオイルで手作りする。


ランチョンマットと、スリッパ、食器もそんなに上等じゃなくていいから、実用的なものを。ホームセンターで売ってるような食器で十分だわ。へそくりから五万円を予算にあげた。


週末、誠の誕生日だ。ケーキでお祝いしながら、さりげなくこの話題を話そうと思った。


先手を打って、一人、ホームセンターに行った。ランチョンマットは飽きのこないシンプルな麻布でできた草木染めのものを10枚ずつ、三種類買った。食器は何にでも合いそうな白い四角い大小の皿と小さな丼用の丼、サラダボウルとデザート用のガラス小鉢をそれぞれ10個。ご飯茶碗も10個。お箸は割り箸でいいとして、フォークとスプーンも10本。お湯のみもシンプルなものを10個。スリッパはセール品を十足。悪くなったら、すぐ買い換えれば良い。そうそう、味噌汁椀を忘れてた。家にある使ってない輪島塗があったな。あれでいいわ。


買い物を済ませて、考えた。誠に話す前に、リサに打診しとこう。あの子の方が理解があるのよね。


リサは金曜日の夜、帰って来て、自室で勉強していたが、幸子がコーヒーを持って部屋にゆくと、不思議そうに幸子を見た。

「お母さん、珍しいね、コーヒー淹れてくれたの?」

幸子は、何から話そうかしばらく考えて、

「リサ、お母さん、仕事したいの。」

と、唐突に話始めた。一通り、今の気持ちを話すと、リサは、

「やってみればいいよ。お母さん、料理うまいもん。失敗してもいいと思ってやれば、何も怖くないよ。儲からなきゃダメって思わないで、楽しみのためにやれば?」

「ありがとう。明日、ケーキ食べながら、お父さんにも話すわ。」

「うん。そうすればいいよ。明日誕生日だものね。私、プレゼント買ったの。機嫌がいいときに話せばきっとうまくゆくよ。」


誠は何も知らずにリビングで一人新聞を読んでいた。幸子は誠の前にもコーヒーの入ったマグカップを置くと、自分もコーヒーを飲み始めた。明日、話そう。そう思いながら、ノートパソコンを持って来て、料理のサイトを覗いていた。メニューはどんどん頭に浮かんだ。そうだ、ノートに買って来た材料の値段と売り上げを書いて行こう。商売なんだから、赤字じゃいけないわ。野菜や肉、魚、果物は、市場まで買い出しに行こうかな。


誠の誕生日祝いは土曜日の夕飯を食べながらだった。リサがサプライズでプレゼントのネクタイを渡すと、誠は頬を緩めた。幸子はフルーツケーキをお手製で焼いていた。アイシングを塗った上に、ろうそくを数本立てて、火を点けた。

「お父さん、さあ、吹き消して。」

誠はフーッと息をかけ、火が消えた。暗くしていた照明をもとに戻すと、幸子は誠に話し始めた。得意な料理を仕事にしてみたいこと。このリビングと和室を客席にして、1日ランチ10食の小さな食堂を始めたいこと。売り上げは期待しないで欲しいが、迷惑はかけないこと。リビングも和室も、仕事が終わったら、毎日綺麗に掃除しておくこと。自分の生きがいになりそうな予感がしていること。実は食器などはもう買って来てあること。


誠は不意を食らって驚いた。誠は、幸子が今まで専業主婦として、立派にやって来てくれたことを評価していた。リサも大学生になったし、幸子が自分の得意な料理で仕事したいなら、自宅を解放するくらいいいじゃないか、と思えた。

「やってみたらいいよ。働きたいと今まで言ったことはあったけど、いつも働かなくていいと反対して来たな。社会に出て、人に使われるのは本当に面白くないんだ。そんな思いはして欲しくなかった。でも、自宅で好きな料理を作って食べてもらえれば、誰に気兼ねするでもなく自分でできる仕事だし。お金をもらって働くってどういうことか、勉強にもなるはずだよ。」

誠は幸子に余計な苦労はさせたくなかったのだった。しかし、小さな食堂を自分で経営するなら、料理上手でやりくりの上手い幸子にはもってこいだと思えた。


「嬉しい、誠さん、ありがとう。週にとりあえず3日ぐらいオープンしてみようかな。店の名前、何がいいかな?」

第二外国語でフランス語をとっているリサがしばらく考えて、

「ビストロ・ボヌールは?幸せ食堂っていう意味。」

「それいい!オシャレだね。」

誠も気に入ったように言った。

幸子は、

「リサ、ありがとう。それにする!」


リビングも和室もいつ人がきてもいいように綺麗にしてあるが、レストランを開くとなると、インテリアにも少し手を加えたかった。

「あと、もう少し予算!」

インテリア雑誌を見ながら、ランチョンマットに合う色の生地を買ってきて、新しくカーテンを作って吊るした。レースのカーテンも今まであったものは古くなってしまったので、新しくした。サンルームにも、生成りのロールカーテンを天井から吊るした。観葉植物は今まであるもので十分だった。和室には座卓を四つ買った。


「このくらいにしておこう。あとは売り上げが上がるようになってから、少しずつだわ。」

看板はどうしよう、と思って、ネットで調べると、木彫りのものをネットで注文すると、デザインから彫り、色つけまでで二万円くらいでやってくれるサイトを見つけた。

「これだわ。玄関に一つ、取り付けよう。」


看板を注文し、メニューを考え始めた。ノートにどんどん書き出してゆく。カキフライとポテサラ。苺にバルサミコ酢。ご飯。味噌汁は豆腐とわかめ。ある日は、ボルシチとフランスパン。サラダに伊予柑。ドレッシングは自家製のサウザンドアイランド。


福岡の八女茶はたっぷりと取り寄せた。急須は普段使いのもので。節約節約。


必ず必須栄養素の6種類がとれるようにすること。緑黄色野菜、淡色野菜、タンパク質、炭水化物、海藻、油脂。デザートはフルーツに自家製ヨーグルトをかけたものなどや、寒天でできるものなど、ちょっとしたものだけど、簡単で美味しいものを。


「無理しないでやっていこう。続けることが大事だわ。」


パソコンでPR文を書いて、住宅地を足で歩いて配ろうと思った。メニューを書くオシャレな黒板は、リサがプレゼントしてくれた。


看板が届いた。玄関のインターホンの横に打ち付けた。黒板はスタンド式になっているので、メニューを書いて、玄関に立て掛ける。


PR文を印刷して、2日かけて配り歩いた。インターホンを押して、できるだけ在宅の方には顔を見て話をした。迷惑そうにする人も中にはいたが、大抵が興味深そうに熱心に話を聞いてくれた。

「あら、来週オープンなのね。行くわ、私。千円なら、いいわね。」

「必須栄養素の6種類が必ずとれるっていいわね。母が一人暮らしだから、誘って連れて行こう。」


「ありがとうございます。よろしくお願いします。」


お風呂上がりにビールを飲んでいると、ゆかりを思い出した。ちょっとメールしよう。


「ゆかりへ。私、来週から家で食堂始めることにしました。店の名前は『ビストロ・ボヌール』幸せ食堂っていう意味です。自宅で1日10食限定のランチを出す店をするの。準備は本当に楽しかった。夫と娘も応援してくれてるの。これから責任持ってやって行くわ。何も取り柄のない私だけど、ゆかりの『年輪は嘘つかない』って言葉に勇気付けられたわ。ありがとう。また、報告するね。幸子。」


オープンの日がやって来た。メニュー板に「オープン記念。お箸置きのプレゼント。今日のメニューは、ステーキ丼。豆腐と水菜、人参、天かすの和風サラダ。味噌汁。キウイとバナナの自家製ヨーグルトがけ。八女茶。」と書いて、玄関に置いた。買い物は前の日に済ませた。テーブルを拭き、ランチョンマットを並べた。ポットにお湯を満タンにして、お茶の葉の準備もした。ご飯は炊けている。サラダを作り始める。ドレッシングは玉ねぎのすりおろしと醤油とサラダ油と黒酢。自家製のヨーグルトは冷蔵庫に常備している。BGMは幸子の趣味でちょっと古いけど、今日は小野リサのボサノバ。娘のリサという名前は実はこの人から付けたのだ。


リッキーはお散歩を早朝に起こされたが、文句も言わずに元気にしている。ドッグフードをさっき食べて、ゆっくりサンルームでお昼寝中。


ピンポーン。

「はーい。」


「ごめんください。もう開いてますか?」

「はい。お客様、初めてのお客さんです。」

「まあ、光栄だわ。」

「お一人ですか?」

「はい。」

「どうぞ、スリッパを。」


八女茶を淹れて、急須から湯飲みに注ぎ、ランチョンマットの上に置く。お客さんはキョロキョロ見回しながら、

「まあ、素敵なリビングね、わんちゃん可愛いわね。気持ちよさそうに寝てるわね。」

「ありがとうございます。普段のまんまで失礼します。お店っぽくはないのですが。」

「いえいえ。センスがいいわ。」


お茶を一口飲むと、

「このお茶、美味しい。」

「ありがとうございます。私が福岡県八女市の出身で、そこのお茶です。」


「今日はステーキ丼ですが、ニンニク、大丈夫ですか?」

「はい、好き嫌いはないので。」

「よかった。今焼きます。」


肉を焼く幸子に向かって客は、

「毎日10食なんですね。予約制ですか?」

幸子はハッとした。そうだ、予約制にしてもいいかもしれない。

「いえ。まだ考えてなかったのですが。予約していただく方がいいでしょうかね。」

「そうね。十人以上来ちゃったら困るかも。」


丼にご飯を装い、大葉を散らして、切ったステーキ肉とニンニクチップを乗せる。サラダは絹ごし豆腐を三センチ角に切って、水菜と人参の細切りを上に乗せて、天かすを天盛りに。ドレッシングを別添で。味噌汁はワカメと玉ねぎ。デザートはバナナとキウイに無糖ヨーグルトを掛けて。


それを全部大きなお盆に乗せて運ぶと、女性客のランチョンマットの上に並べた。

「はい、お召し上がりください。お口に合いますように。」


女性客は美味しい美味しいといいながら食べていた。幸子は何か話しかけた方がいいかとも思ったが、あえて、一人、キッチンに下がった。お茶のおかわりにだけ気をつけた。


ピンポーン。

「はーい。いらっしゃいませ。」


次々に客が来て、高齢の夫婦が二組と、二人連れの主婦、それから一人ずつの客が次々。結局、十食全部出た。その後もまだ客が来て、今日はもう終わってしまいました、と申し訳なさそうに断らなければならなかった。予約制にするのも一計だと思った。


土産にオープン記念の竹細工の箸置きを渡すと、皆笑顔で喜んでくれた。今日は千円札が10枚、エプロンのポケットに入って来た。満たされた気持ちで一杯になった。リサは確か初めてのアルバイトの給料で、ハンカチを買ってくれたことがあった。私も二人に何かプレゼントしよう。


明日も店だ。明日の分も買い物はしてある。肉じゃがコロッケ。キャベツの千切り。トマト。たたきキュウリのラー油サラダ。ご飯。卵スープ。オレンジ。八女茶。


小さな名刺を作った。電話番号を書いて、要予約と書き、先着十名様までと書いた。


肉じゃがコロッケの定食も10食全部売り切れた。その後もお客さんは次々にやって来た。幸子はお詫びをして名刺を渡した。

「前の日までに予約していただくと嬉しいです。今日はすみません。これに懲りずによろしくお願いします。」

そう言いながら、お詫びの品として、余っていた箸置きをプレゼントした。


最初の一週間が終わった。幸子は心地よい疲れと達成感を少し味わった。千円札が30枚貯まった。その一枚一枚に、自分の努力、最善の努力が詰まっている。まだまだ始めたばかり。でも、お客さんは喜んで食べてくださった。心が通じた気がする。お料理っていいな。


高齢の母親を連れてきた主婦は、母親の体に良いものばかりだと褒めてくれた。栄養のバランスも良く、ドレッシングが手作りで嬉しいと。ある高齢の紳士は、デザートのミカンの寒天を、懐かしい味だ、母の味だ、と言ってくれた。ある主婦は、豆腐のサラダを真似させてもらいたいと言っていた。ドレッシングのレシピをメモに書いて渡すと、喜んでくれた。

「私は頭が良いわけでもないし、人付き合いがうまいわけでもないけれど、私にも年輪は確かにあったわ。」


週末は次の週の献立を考えて、買い出しをした後、誠とリサに何かプレゼントをしようと思い、アウトレットに出かけた。リサには革の手袋。誠にはランニングシューズ。自分用にはエプロンを二枚買った。帰ってくると、リッキーを長めの散歩に連れて行ってやった。リッキーは最近、愛情に飢えていた。可哀想に、ごめんね。


「ビストロ・ボヌールはその後どうだった?」

誠が聞いてきた。幸子は、

「うん。一生懸命やってるよ。三日間、10食全部売り切れて、その後来た人を断ったの。これから予約制にしようと思って、名刺作って渡したところよ。」

幸子は立ち上がって、電話台の横に置いた名刺を誠に一枚見せた。

「へえ。たいしたもんだ。君、こういうの向いてると思ってたんだよね。」

「あら、そう。ありがとう。もう明日の予約はいっぱいなんだよね。」

「留守にできないね。」

「そうね。何か対策考えようかな。」


「そうそう。誠さんとリサに初売り上げからプレゼント買ったんだ。ささやかですが。これ。シューズ。」

「へえ。ありがとう。あんまり奮発してると破産するよ。売り上げは大事にしなきゃ。」

「リサ。プレゼントだよ。」

リサはスマホをいじっていたが、

「あ、ありがとう、何?」

と言って、袋を開けると、

「あ、かわて。ありがとう、持ってなかったから嬉しい。」


幸子は次の週も三日間営業し、30食を売り上げた。ノートに書きつけたところによると、今の所、黒字だった。幼稚園に子供を預けてきていた主婦が、お子様ランチもやって欲しいと言ってきたが、ここは大人の憩いの場なので、とやんわり断った。また、ある人は、コーヒーとスイーツも出して欲しいと言ってきたが、あくまでランチだけで精一杯ですと断った。


こういう時に断れる勇気は、幸子の場合、自分のスタイルを守りたいという希望と、今のスタイルに対する自信から生まれているのだった。自分にこんな勇気があったとは、自分でも驚いた。しかしまた、ここは自分の店だ、店長は私だ、と思うことが、自分に勇気を与えているとも言えそうだ。曲がりなりにも、主人になったのだから。


ゆかりからメールが来ていた。うっかりしていたが、3日も前だった。

「幸子、すごいじゃない。よかった。今頃、頑張ってるんだね。今度、話聞かせて。日曜日、電話してもいい?」

明後日は日曜日だ。メールしなきゃ。

「ごめん、バタバタしてメール見そびれてた。日曜日、もちろん家にいるよ。」


土曜日に3日分の献立を考えることにした。そして、買い出しは、市場が比較的空いているので、土曜日の午後することにした。傷みの早いものは、前日にスーパーで買う。


日曜日、ゆかりから電話がかかってくると気になっていた。朝の十時ごろ、携帯が鳴った。

「はい。」

「あ、幸子?」

「あ、ゆかり。」

「どう、ビストロ・ボヌール。」

「うん、上手くいってる。今の所。」


二人は延々三十分も話し込んだ。

「あ、ごめーん、これゆかりの電話。長距離なのに。」

「いいよいいよ。飛行機代に比べれば、安い安い。」

「私、ちょっと驚いた。すごい勇気が出たの。お子様ランチやってくれっていう勝手な主婦、断ったよ。笑。今まで弱かったんだ、ああいう若い人の高飛車に。」

「あはは。それで普通だよ。」

「これも年輪ねー。あはは。まだまだ経験、積んでゆかなきゃね。」

「そりゃそうだよ。」

「そう言えばね、高齢の方にも喜んでもらえて嬉しかった。」

「美味しいもの食べて欲しいって気持ちは、みんなに理解されるね。」

「本当。始めてよかった。……… じゃあ、長くなるから、そろそろ。長話してごめん。電話ありがとう。ゆかりも元気でね。無理しないようにね。」


さあ、月曜日はアボカドのサンドウィッチだ。トマトとエビ、マヨネーズ、玉ねぎ。黒パン。クラムチャウダー。缶みかんの自家製ヨーグルトがけ。


誠とリサの食べる食事も手抜きは嫌だ。きちんと作ろう。もう、キッチンが私のお城。

「リッキー。お散歩行くよー。」

きゃんきゃんと元気な声が聞こえた。リッキーにリードをつけて、日が高くなった街を幸子は元気良く歩いて行った。


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