歩いて泣いて、走って、笑って

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第1話 追いバターの至福

 パンは世界で五~六千種類もあると言われているらしい。そんなに種類があるのに私が食べてるパンの数って本当に少し。それも好きになったらそればっかり食べちゃうんだからそんないろんな種類を食べ比べるのなんかそもそも不可能。


 食べたいものを優先していたら食べてみたいものまで追い付かない。

 あぁ、人の胃袋の限界と限られた時間の儚さよ。


「食べても食べても満腹感を得ない特殊な胃袋と、食べても食べても太らない特別な体の人間だったらなぁ」

 そんなことを呟きながら焼き上がったトーストを取り出し、あんこペーストをたっぷり塗りつけてその上にバターを乗せた。


「この……背徳感……いただきまぁす」

 サクッとしたパン、そこにむちゅっとしたあんこが同時に口の中に押し込まれてきてふわぁっとかおるパンの香ばしさと柔らかい優しいあんこの甘さが口腔内から染みるように体に広がっていく。


「バターがさぁ、絶対ダメなのわかるんだけど、バターがさぁ、絶対ないとダメなのわかるよね?わかるわかる!はむっ!」

 ひとりで声に出して言いながら食べる朝食、ていうか、最近ひとりでごはん食べてるとき絶対コメントや感想声に出しちゃう。


「おいひぃ~」

 食べることが大好きな私。

 子どものころから食べることが大好きで、食べることが生きがいみたいな、食べることが趣味みたいな、食べてる時が一番幸せみたいな。つまり食べることが好き、これしか言い方がない。



 食べ物は全般的になんでもウエルカムだけど、昔から目がないのはパンと甘いもの。甘いパンなんか至高だ。

 それを目の前に出されたらよほどのことがない限り屈服してしまうかもしれない。それくらいパンと甘いものに頭が上がらない。パンの世界に転生したら、私間違いなく屈する下僕にでもなれるだろう。


「小倉トースト、最高ぉ……こんなの三口くらいで食べられちゃうよ」

 あっという間に平らげてしまうパン、もちろんパン一枚で終われるわけがない。トースターに二枚目の食パンを投入しつつホットコーヒーをマグカップに注ぎ込む。


「はぁ、トーストとコーヒーの香り……こんな相性のいいカップルいるのかな」

 バターロールにクロワッサン、フランスパン、ベーグル、白パン、デニシュッパン……あげだしたら身近にパンはたくさんあるけれど、私が特に好きなのは食パン。シンプルで年々好きになる。お店、メーカーによっても様々な味の食パン、どれを食べても同じ味の食パンってない。高級食パンがすべてでもない、手ごろなスーパーに売られているメーカー食パンでももちろんおいしい、パン屋さんの食パンでもお店によるこだわりがあるし、いろんな食パンを楽しめる。

 食パンの良いところってどこにでも絶対に売ってるんだよね。

 パンの基本、パンの原点じゃない?

 いつでも誰にでも食べられる、シンプルが決め手なのに、そこからいろんなバリエーションも楽しめちゃう優秀な存在。


 ちなみに今私が好きなのは最近近所に出来たこじんまりしたパン屋さんのバター食パンだ。そこの食パンはちょっとこってりした濃厚なバターの香りが楽しめる。焼けば耳部分が少しデニッシュっぽくなるのはバターのせいなのかな。


「ここの食パンはぁ、焼いてバターを塗るだけでも充分美味しいの」

 バター食パンに追いバター、この一枚でカロリーは……考えたらダメなやつね、それ。そもそもパンにカロリー考えたらダメ。パンはもう高カロリー食品なんだから。


「悪魔の……食べ物っ」

 はむっと勢いよく口の中に頬張ってバターの香りをふんだんに味わった。


(美味しいものは、高カロリーって決まってるの……)


 そしてそれらは中毒性があるのだ、だから私はこの誘惑に勝てないの。

 いつだって絶対服従、美味しいは正義、幸せを感じる時は、大好きなものを食べている時――。


 そんな悪魔の食べ物を二枚平らげて、私は三枚目をトースターに運び入れていた。




 *



 朝から食パン三枚平らげて、コーヒー二杯、何となく最後に口の中をさらっとさせたくて桃のゼリーを食べました、満腹。

 そりゃ、そんだけ朝から食べればお腹も満たされるだろう。ゆっくりした休日の朝だからいいじゃん、って話でもない、今日は普通の平日ど真ん中、出勤日です。


(食パンが明日の朝足りないかもしれないから今日買って帰らなきゃなぁ……パン屋さん行きたかったけど、仕事帰りに行っても売り切れてるんだよね、残念)


 今日はスーパーの食パンを買って帰ろうかな、あ、お昼はちょっと抜け出して路地裏のベーグル屋さんへ買いに行ってもいいかも……そんなことを考えつつ社員証を取り出して改札通路を通り抜けた時、背後から「きゃあー」と数人の黄色い声が上がって思わず振り向いた。


「これ、昨日の出張のお土産。この間はお世話になっちゃったから経理部のみなさんでどうぞ」

「やだ~いいんですかぁ!ありがとうございます~!!」

「いつもそうやって気にかけてくださるの巽さんだけです~、優しい~」

「いえいえ、またなにか困ったときはお願いします」

「もちろんです~、なんでも相談してくださいね」

 そんな会話が繰り広げられている輪の中で一層目立つスラッとした男性に目が自然と行ってしまう。


 たつみさん、と呼ばれるその人は私と同じマーケティング部に所属している数年上の先輩だ。先輩と行っても年数が、という意味。直接仕事で絡んだりなにかやりとりをする間柄ではない。マーケティング部でもグループ化されておりそのグループは別だからお互い認識くらいはあるけれど、くらいのそんな仲。巽さんとはそれほど距離感のある関係だ。


 さきほどのお土産を渡されていた経理部の数名と更衣室で一緒になって背後でワイワイ楽しそうに話している。


「巽さん、ヤバいよね、カッコ良すぎ」

「優しいしさりげない気配りね、もう落としにきてるわ、あれは。てか、私はもうすでに落ちてる」

「言えてる。欠点ないよね、一個くらい嫌味あってもいいだろ、って探してみたら余計好きになるヤツ、ダメでしょ」

「まちがいない~」


 とにかく絶賛の声しか挙げられないから聞いていてもすごい人だなと思う、そしてそれに同意しかできなくてまたすごいと思うのだ。巽幸弥ゆきやさんはそういう人。


「彼女いるんだろうなぁ、いないわけないよね」

「いないわけないわなぁ、あんな優良物件がフリーってありえないでしょ。たとえフリーでももう次の候補が並んでるよ、選び放題でしょ」

「だよねぇ、ねぇじゃあ並ぶだけでもする?並んでたらもしかしたらご縁があるかも」

「ええ?並んじゃうー?」

 そんな楽しそうな会話は私の人生の中で一度もないなぁ、なんてぼんやり盗み聞ぎしてなんとなくぽっかり穴の開いた心の中に落としていた。


 恋……それは私からしたら縁もゆかりもない言葉だ。距離を置く、でもない。恋なんて自分がするものではないと割り切ってきた。あきらめとも違う、なんとなく、自分に恋なんかおこがましくて無縁なものだ、そう思ってきた。


 それは体型からくる自信のなさがそうさせていた。その自覚もあるが自分はずっとこのまま変わらずに来ている。変わりたいと思うことすら億劫で、そういうことをあえて考えないようにして暮らしてきた。


 別に恋をしなくても幸せだ。

 私の人生で恋をしなくたって幸せを感じられる時間は確実にある。そう思ってずっと暮らしてきたのに、どうしてなんだろう。


「おはよう、紺野さん」

「お、はようございます」

 ニコッと微笑んで気さくにいつも挨拶してくれる巽さん。そのあいさつに答えるたびいつしか感じてしまう気持ちが自分の中で無視できなくなってきていて戸惑っていた。


 巽さんと交わす細やかな挨拶だけで、胸がキュンってしてしまうのは、なんなんだろう。

 自分に向けられる笑顔が特別なものなんて思わないのに、受けとめる私が勝手に特別と感じてしまう。


 そんな日々に最近ちょっとだけドキドキしている紺野杏こんのあん、二十五歳。

 けれどもっとドキドキしていた通知が私の手元に届いたのもちょうどその時期だった。




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