バッドバイ・メモリー
@kotomi_25
第1話
世界中から色が消えた。音がなくなった。今までさんざん湧き上がっていた感情が残らずすべてどこかへ消え去った。なぜだか何も感じなくなってしまった。それなのに頭の中はたくさんのゴミが詰まったみたいにスッキリしなくて、目の奥がずっしりと重い。
消えてなくなりたい。自殺したいわけじゃない。だって自殺したらもしかしたら魂って言う存在あって、ここに残り続けるかもしれないから。だから私が今ここに生きていたという事実も、私がここに居たことがすべてなかったことになって、私はただの塵となって、消えてなくなりたい。
私は棺の中で、苦しそうに顔をゆがめたまま時間が止った母を眺めた。頭にはバスタオルがまかれていて、本当にそこに母が居ないのだと分かった。まったくこの人が生きていたなんて感じられないほどのもぬけの殻。
魂がはっきりと抜けてしまっている。
そろそろ火葬らしいけれども、私は棺の顔が出ている四角い穴の縁を掴んで離さなかった。
「ユキ、離しなさい」
「うるさい、黙れ」
自分でも聞こえるか聞こえないかと言うほどか細い声だった。今まで父親に反抗したことが無かった。でも私は初めて父に反抗の言葉を告げた。
「ユキ!」
強く肩を掴まれても、私は棺から手を離さずにいた。
「黙れって言ってんだよ!」
父親からつかまれていた肩を手で振り払って、強く憎しみと怒りを込めて睨みつけた。
なぜ善良で誰よりも優しい母が死んで、こんな父親がのうのうと生き残ったのか。なんで母が死んだのか。なんで、こいつが死ななかったのか。でも一番嫌なのは、母親がこのクソみたいな父親をかばって死んだこと。
「お前が代わりに死ねばよかったのに」
母の棺を抱きしめるようにしたまま、私はつぶやいた。
言ってから後悔した。生きていたときの母が目の前に居て、こんなこと言ったら、すごく怒られる。なんでこんな最後のお別れの時、こんなお別れ方をしなければいけないのか分からない。
「おい!ユキ!いい加減にしろ!」
殴られる気がして目を強くつむった時、一瞬の静けさがおとずれた。
「ちょっと待ってください」
後ろを見ると、背の高い細い男性の背中が見えた。頭や肩には雨粒がぽつぽつとついている。
誰だったか、思い出せない。でも見たことがある。
「私も、まだ姉の顔を見ていないんです。最後に姉にお別れの挨拶をさせてください」
「遅かったじゃないか。薫くん」
「高速道路で渋滞に巻き込まれまして」
こちらを向いたその人の顔は、母そっくりだった。やさしそうな目元に美しい黒髪に、筋の通った鼻、それからおっとりと困った風な眉。そして私のことを愛おしそうに眺めている瞳。
母が男になったら、きっとこんな風になるんだろうなと思いながら、思い出した。この人のことを。
「叔父さん?」
「うん」
伯父さんは棺の中の母のことを覗き込んで、眉を顰め目を丸くした。それから、悲しそうに顔をゆがめる。
「おやすみ、姉さん。天国ではゆっくり休んで」
そう言ってその瞳から涙が一筋零れると、頬を伝って、母の目元にぽつりと落ちた。
「さあ、ユキちゃんも最後のお別れをしないと」
さっきまでの表情が嘘みたいに笑って、私の方を向いた。
「このまま、ここにいたら、お母さんもきっと上手く成仏できないだろうから。早く火葬してあげないと」
思わず目の前が歪んだ。喉の奥が締め付けられて、上手く言葉が出なかった。
「…う、ん」
さっきまで意地を張っていた自分が嘘みたいに、手から力が抜けていき、母の棺を離した。その手を叔父さんは優しく両手で包み込む。大きくて、骨ばっていて、外が雨で寒かったせいか、冷たかった。
「上手くお別れが出来てよかった」
涙があふれ出てきて、制服の袖で、涙をゴシゴシ拭いた。今までずっと涙なんて一滴も出てこなかったのに。突然涙で目の前が見えなくて、ただ、母が運ばれていく音だけが聞こえていた。
嗚咽を漏らして泣きじゃくっていた私の涙を拭いてくれたのは叔父だった。ハンカチを渡してくれた。
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