第2-5話 雪城花恋の特攻
「みーくん」
彼女は俺の名前を呼び、一歩、近づいた。
俺は家の外に逃げることを考えたが、自分が全裸であることを思い出した。
「待て」
「待たない」
壁際に追い詰められた。
俺は人生でも三本の指に入る程の恐怖を感じている。
彼女の思考が読めないのは、いつものことだ。
しかし、今日はいつにも増して意味が分からない。
何よりも不気味なのは、その雰囲気だ。
まるで、何か思い詰めている人がヤケを起こしたかのような……。
俺は知っている。なぜならイケメンだから。
過去、今の花恋と同じような雰囲気の女が暴走した例を体験したことがある。
「花恋」
先手を打つことにした。
「見ての通り風呂上りだ。着替えるから、少し待ってくれ」
花恋の表情は全く変わらない。返事も無い。この反応は完全に予想外だった。故に俺は次の言葉を見つけることができなかった。
「みーくんは、間違っています」
お前にだけは言われたくない。
俺は混沌を極める思考の中で、冷静にその言葉を思い浮かべた。
「屈んでください」
「……なぜ」
「私と視線の高さを合わせてください」
「……」
俺は素直に従うことにした。
銃を突き付けられた人質は、きっとこういう気持ちなのだろう。
ドンッ! という鈍い音。
花恋の両手が、俺の両耳をかすめて壁を叩いた。
「私を、見てください」
お前しか見えねぇよ。
思わず甘い言葉を囁きそうになったが、普通に恐怖が勝った。
「……本当は、こんなこと、したくなかった」
花恋が狂行を起こす理由の九割は妄想である。
一体、どんな設定を生み出したのだろうか。さっぱり分からない。
「みーくんのトラウマは理解しています」
「……トラウマ?」
「あの出来事は、間違いなく悲劇です。それを思えば、みーくんの趣味嗜好が歪んでしまったことにも、一定の理解を示すことができます」
何の話をしているのだろうか。
どこか盛り上がっている様子だが、俺には困惑しかない。
そんな俺に向かって、彼女は言う。
「それでも! どうか、男性ではなく、女性を愛してください!」
何の話!?
「みーくんを矯正するためならば、私は、この身を捧げる覚悟です!」
「……っ、待て待て待て、何の話だ!?」
彼女は体を密着させた。
俺は瞬時に脱出を試みて、見事に成功させた。
「そんなに女性が怖いのですか!?」
「だから、何の話だよ?」
彼女は目に涙を浮かべて言う。
「確かに、幼いあなたを襲ったメイドは悪人です! しかし、それでも……!」
……そういうことか。
いや、でも、どうして急に……。
「大田草彦よりも! 私の方が! 絶対に、あなたを喜ばせることができる!」
――瞬間、時が止まった。
時が止まったかと錯覚するほどに、高速で脳が働いた。
なぜ、花恋が今のような発言をしたのか。
普段は妄想を履き散らかしている彼女だが、今回ばかりは事実に基づいた発言をしている。例えば、幼い俺がメイドに襲われたことは事実であり、これほどのイケメンでありながらも経験人数が一人である理由のひとつだと言えなくもない。
花恋からすれば不思議なはずだ。
なぜ、俺は祖父や父のように多くの女を侍らせることをしないのだろうか。
そして先日のダブルデート。
俺はオタクくんに花恋を口説かせるため、積極的に絡んでいた。
当然、会話を花恋に聞かせてはならない。
まるで密談を交わす恋人同士に見えたかもしれない。
要するに、花恋は――
「俺は普通に女が好きだ!」
魂の叫び。
「……っ!?」
それを聞いた花恋は、硬直した。
そして数秒後、ぽろりと瞳から涙を流した。
「……嘘です」
「本当です」
花恋は言う。
「例えば、今ここで私が全裸になったら?」
「程々に勃起します」
俺は恥を忍んで言った。
それは静かながらも、ゲイではなくノーマルなのだという魂の叫びである。
「…………噓です」
「本当です」
花恋の情緒が全く分からない。
俺が混乱していると、彼女は決定的な言葉を口にした。
「私よりも、莉子さんの方が、良いということですか?」
本日、二度目の感覚に襲われる。
しかし、今度は結論を出すことができなかった。
「……っ!」
花恋は俺に背を向け、走り去った。
不思議とスローに見える姿を目で追いかけたものの、何もできない。
俺は一人、脱衣所に取り残された。
全裸で。すっかり湯冷めした身体に軽い不快感を覚えながら、立ち尽くす。
数分後。
ひとつの可能性が、脳裏を過る。
「……噓だろ」
花恋は幼馴染である。
彼女は妄想の世界を生きる人物である。
正直、手のかかる妹みたいな認識だった。
それほどに距離が近くて、だからこそ、考えもしなかった。
だけど――俺はイケメンである。
心の機微に対しては、人一倍敏感なのだ。
だが、しかし、それでも、受け入れがたい。自分の直感を全力で疑い続け、仮説を立て、やがて背理法のように結論が導き出された。
「……マジかよ」
口をついて出たのは、そんな言葉だけだった。
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