【土曜日更新】フランケンシュタインの遺産
湊 マチ
第1話 霧の中の呼び声
私は暖炉の火の前で新聞を広げ、今朝のニュースに目を通していた。天候は灰色に沈み、冷たい霧がベイカー街に重々しく垂れこめている。外の様子は生気を欠き、まるで世界そのものが眠りについてしまったかのようだった。ホームズは窓辺に立ち、街のざわめきに耳を傾けているように見えたが、その目は別のところを見ていた。いつものように、何か新しい事件の気配を探っているのだろう。
「ワトソン、フランケンシュタインという名前を聞いたことがあるかね?」
不意にホームズがそう言って、私に視線を向けた。
「もちろんだ。あの有名な小説の怪物のことだろう?」
私は微笑んで答えたが、彼の目の鋭さにその軽い返事が不適切であったことに気づいた。
「そうだ、しかし今回は小説の話ではない。これを見てくれ。」
ホームズは私に一枚の紙を手渡した。そこには、スイスの小さな村からの手紙が書かれていた。村人たちが「巨大な影の存在」に悩まされ、いくつかの家畜が姿を消しているという報告が記されていた。手紙には、村で起こっている奇怪な現象がフランケンシュタインの怪物に関連しているのではないかという恐ろしい推測が書かれていた。
「馬鹿げた話だ!」と、私は手紙を返しながら笑った。「フランケンシュタインの怪物はフィクションの産物だ、科学の限界を越えた幻想に過ぎない。」
ホームズは私の反応に微笑むこともせず、ただ窓の外を見つめ続けていた。
「全てがフィクションで片付けられるとは限らない、ワトソン。人間の心は時として現実を超える。しかし、何かがこの村で起きていることは確かだ。」彼は考え込むように額に手を当て、窓越しの霧を見つめ続けた。
「そして、彼らが助けを求めている以上、我々の手でその真相を確かめる義務があると思わないか?」
その言葉に私は押し黙り、手紙に再び目をやった。確かに、何か異様な事件がスイスの山中で進行していることは間違いなさそうだった。ホームズがこれほど真剣に取り組んでいるのを見て、私の心にも好奇心が沸き上がってきた。
「では、君はどうするつもりだ?」
「出発しよう。我々はスイスへ向かう。」彼は鋭い目を輝かせた。「この事件の背後に、単なる迷信や噂以上のものが隠れているように感じる。フランケンシュタインの名がこうも絡んでいるとなれば、見過ごすわけにはいかない。」
その決断が下されると、私はすぐに旅の支度を整えた。ベイカー街の暗い空気から、山々に囲まれたスイスの小村へと、我々の冒険が始まろうとしていた。
霧の中、列車は山を登り続けた。私は席に沈み込み、考え事をしていたが、ホームズは相変わらず窓の外をじっと見つめていた。彼の目は鋭く、いつものように頭の中で何かを組み立てているように見えた。
「ワトソン、あの手紙には奇妙なことがいくつかあると思わないか?」
「奇妙なこと?」
「家畜が消え、巨大な影が目撃されているが、なぜ村人はそれを怪物だと即座に結びつけたのか。彼らは何か知っている。しかも、過去に失踪事件が何度かあったとあるが、彼らはそれを隠しているようだ。」
私は思い返してみた。確かに、手紙には失踪事件の言及がわずかにあったが、それが怪物とどう結びつくのか、私にはわからなかった。しかし、ホームズはすでにその糸口を掴んでいるように見えた。
スイスの小村に到着した我々を、村の長老が出迎えた。彼の顔は深く刻まれた皺と疲れで覆われており、目には恐怖が宿っていた。
「ついにお越しになられたのですね、ホームズ様。恐ろしいことが起きております。村の皆が怯え、夜も眠れぬ有様です。」
私たちは彼に導かれながら、村の様々な奇妙な出来事を聞いた。村の奥にある古びた屋敷がその中心にあることが、すぐにわかった。
「何か聞こえませんか?夜になると、あの屋敷から奇妙な機械のような音がするのです。」長老は目を伏せながら続けた。「それから…かつて、あの屋敷で働いていた男が数ヶ月前に姿を消したのです。彼が何をしていたのかは、誰も知りませんが…」
その言葉に、私は背筋に冷たいものを感じた。だが、ホームズは一瞬もためらうことなく、その屋敷への案内を求めた。
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私たちは雪に覆われた小さな村の広場に立っていた。到着したばかりの私たちを迎えたのは、薄暗く不気味な空気に包まれた静かな村であり、遠くに立つ古びた屋敷が、一際異様な存在感を放っていた。長老が指さす先、その屋敷の輪郭が、ぼんやりと霧の中に浮かび上がっている。
「フランケンシュタインの屋敷です。あそこが全ての始まりだった……いや、今も続いているのかもしれません。」
長老の声はかすれ、恐怖が彼の言葉を重くしているのがわかった。私はふと背筋に寒気を覚えた。この場所は何か不吉なものに包まれている。単なる迷信ではない、本物の恐怖がここにはあるのだ。
ホームズは無言のまま、屋敷をじっと見つめていた。彼の目は冷静そのもので、私が感じたような不安は一切見受けられなかった。
「ワトソン、何かがここで起きている。それはただの迷信ではない。あの屋敷の中に入って確かめなければならない。」
ホームズの声には、いつもの論理的な冷静さが漂っていたが、その背後には探偵としての異常な集中力が感じられた。
私は言葉を返すことなく、ホームズに続いた。屋敷に向かって歩き出す私たちを、村人たちは遠巻きに恐怖の眼差しで見つめている。誰一人として屋敷に近づこうとする者はいなかった。長老さえも、私たちを見送るとき、再び屋敷を背にして後ずさりしていた。
屋敷の近くまで来ると、その異様さがさらに際立った。建物は年代を重ねて崩れかけており、石造りの外壁はところどころ苔に覆われ、腐り果てた木製の扉がわずかに開いたままになっていた。その扉の向こうに、何か見えない力が潜んでいるかのような錯覚に襲われた。
「ここに入るのか?」と、私は思わずホームズに尋ねた。
「もちろんだ、ワトソン。この屋敷には全ての答えがある。恐れることはない。論理的に考えれば、恐怖など無意味だ。」
私はその言葉に励まされ、後に続いた。しかし、心の奥底で、何か邪悪なものが私たちを待ち受けているという恐れが拭えなかった。
中に入ると、屋敷の中は外の霧よりもなお暗かった。冷たい空気が流れ込み、埃の匂いが鼻を突いた。木の床は軋み、不安定な感触を与えた。私たちが歩くたびに、その軋む音が屋敷全体に響き渡り、まるで古びた壁が私たちの侵入を拒んでいるように感じた。
ホームズはすでに周囲を観察していた。彼は壁の隅々を見逃さないように目を走らせていたが、私にはあまりにも暗く何が何だかよくわからなかった。
「これは面白い。」ホームズが足元に視線を落としながら言った。「この屋敷は長らく放置されているが、どうやら最近何者かがここに入った形跡がある。足跡が残っている。誰かがここで何かをしていたようだ。」
私は彼の示す場所を見ると、確かに薄っすらとした靴跡が埃の上に残っていた。誰かがここにいる、もしくは最近までいたという証拠だった。だが、それが何を意味するのか、私はまだ理解できなかった。
「フランケンシュタインの屋敷だと言われていますが、まさか、例の怪物が……」私は半信半疑で問いかけた。
ホームズは微笑んだ。「怪物がいるかどうかはともかく、この場所で何かが起こっているのは確かだ。これが科学的なものか、それとも我々が見落としている要因があるのか、まだ判断するのは早い。」
私は彼に続いてさらに奥へ進むことにした。屋敷の中はさらに薄暗く、冷気が肌に突き刺さるようだった。壁のあちこちにひびが入り、天井からは古びたシャンデリアが垂れ下がっていた。風が通るたびに、そのシャンデリアがかすかに揺れ、軋む音を立てていた。
その時、何か音が聞こえた。微かだったが、確かに人の足音のようなものが、私たちの耳に届いた。
「誰かいるのか?」私は声を上げたが、返事はなかった。音は屋敷の奥からだった。
「ワトソン、行ってみよう。」ホームズが囁いた。
私はためらいながらも、ホームズの後を追った。音は屋敷の最も奥、地下に続く階段の方からだった。階段は石でできており、手すりは腐りかけていた。その階段を降りると、さらに冷たい空気が私たちを包み込み、地下室の扉が目の前に現れた。
「ここに入るのか?」私は再び尋ねたが、ホームズはすでに扉に手をかけていた。
扉が重い音を立てて開くと、地下室の内部が私たちの目の前に広がった。古びた機械や瓶が並び、まるで実験室のような光景がそこにあった。そしてその中央には、巨大な台が置かれていた。
「これは……」私は言葉を失った。
「フランケンシュタインの実験室だ。」ホームズが呟いた。
その瞬間、私たちの背後で何かが動く音がした。振り返った私たちの目の前には、巨大な影が立っていた。
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私たちの後ろで何かが動いた。暗闇の中で、かすかな音が鳴り響く。まるで、重い金属が擦れるような、異様な音だった。地下室の冷たい空気は、今まで感じたことのない不気味さを一層強めていた。懐中電灯の光が小さな円を描き、暗い部屋の中で不安定に揺れている。
「ホームズ……今の音は?」私は低い声で囁いたが、声はひどく震えていた。
ホームズは冷静に、その音の出所を探るように耳を澄ませていた。
「興味深いな、ワトソン。まるで何かがこの地下室で再び動き始めたかのようだ。注意深く観察しよう。」
私はその冷静さに感心するどころか、心の奥底でさらに恐怖が湧き上がるのを感じた。私の脳裏には、村人たちが語った怪物の影が浮かんでいた。まさか、本当にそんなものが存在するはずがない。そう自分に言い聞かせるものの、この冷たい暗闇の中では、理性よりも恐怖が優勢だった。
地下室の奥にある台の上には、大きな布がかけられていた。それは、何か巨大なものを覆っているように見えた。私は恐る恐るそれを指さし、ホームズに尋ねた。
「ホームズ、あれは……?」
ホームズは一瞬その方向に目を向けたが、すぐに地下室の他の部分に視線を戻した。「後で確かめよう。まず、この部屋全体を調べる必要がある。焦ることはない。」
その時、再び音が聞こえた。今度は明らかに大きな音だった。何かが動いている。私たちの背後、台の方からだ。
「見ろ、ワトソン。今度は私たちの番だ。」ホームズは微笑んだが、その目はいつもの鋭い光を放っていた。
私たちは一歩ずつ台に近づいていった。私は内心で「何も起こらないでくれ」と願っていたが、心のどこかで、これが単なる悪夢で終わるはずがないことを知っていた。
台にたどり着くと、ホームズは慎重に布に手を伸ばした。私は息を飲み、その手がゆっくりと布を剥がすのを見つめた。何がそこに横たわっているのか、恐怖と好奇心が交錯し、私の心を揺さぶった。
布が剥がされると、そこに横たわっていたのは、巨大な人型の何かだった。顔は不自然なまでに硬直し、皮膚は黄褐色に変色していた。体は異常に大きく、普通の人間の倍以上のサイズだった。全身が縫い目で繋ぎ合わされており、まるでいくつかの異なる体を強引に一つにまとめたかのように見えた。
「これは……」私は言葉を失った。
「フランケンシュタインの遺産だ。」ホームズが静かに言った。「見ろ、ワトソン。彼がこの実験でどれだけの人体を使い、どれだけの禁忌を犯したか。これは単なる科学の実験を超えた、狂気そのものだ。」
その時、再び音が響いた。今度は確かに、目の前の「それ」が動いたのだ。かすかに指が震え、次に脚がわずかに持ち上がった。
「ワトソン、離れろ!」ホームズが叫んだ。
私は反射的に後ずさった。目の前の「もの」が、今やゆっくりとその巨大な体を持ち上げ始めていた。私たちは恐怖の中でその光景を見つめた。まさに、死者が甦る瞬間だった。
その生き物、いや、怪物は完全に立ち上がった。無言で、ただ私たちを見つめていた。目は何か感情を持っているかのように見えたが、そこには狂気と混乱が入り混じっていた。私は凍りついたようにその場から動けなかった。
「ワトソン、冷静になれ。これは私たちが想像していた以上に重大な発見だ。彼は……動いている。」ホームズの声は冷静だったが、その目には普段とは違う何かが宿っていた。
怪物は一歩、私たちに向かって足を踏み出した。その動きはぎこちなく、まるで自分の体を操ることに不慣れな存在のようだった。私は背中に汗が流れるのを感じた。ここから逃げるべきだ。しかし、ホームズはまだ冷静さを保ち、その場を動こうとしなかった。
「彼を刺激するな、ワトソン。」ホームズは私に低く囁いた。「この生物は理性的ではないかもしれないが、彼の動きには一定のパターンがある。観察してみろ。」
私はホームズの言葉に従い、怪物を観察した。しかし、そこにあるのは恐怖だけだった。この異形のものがどんな感情を抱いているのか、何を考えているのかは全くわからなかった。
怪物はさらに一歩、また一歩と私たちに近づいてきた。その巨大な体が暗闇の中で揺れ動くたびに、空気が震えた。私はもう耐えられなかった。
「ホームズ、今すぐここを出よう!」
その瞬間、怪物が私たちの方に手を伸ばした。私の心臓が一瞬止まったかのようだった。だが、ホームズは一歩前に出て、その手を避けるように冷静に動いた。
「まだだ、ワトソン。ここで逃げるわけにはいかない。」ホームズの声は冷たかった。
怪物はさらに手を伸ばしたが、何かが変わった。彼の動きは徐々に鈍くなり、次第に止まり始めた。まるで機械が壊れかけたように、彼の動きがゆっくりと停止し、その巨大な体は再び重力に引かれるように倒れ込んだ。
重い音とともに、怪物は再び台の上に横たわった。そして、そのまま完全に動かなくなった。まるで何もなかったかのように、その場は静寂に包まれた。
私はその場で崩れ落ち、震える手で顔を覆った。あれが現実の出来事だったのか、それとも悪夢の一部だったのか、区別がつかなかった。
「ワトソン、これで全てが終わったわけではない。」ホームズの声が私を現実に引き戻した。「この現象は説明がつく。だが、全ての答えはまだ見えていない。何者かがこれを操っているに違いない。ここに隠された真実は、さらに深いところにあるはずだ。」
ホームズの冷静な推理を聞いて、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。だが、その瞬間、私は深く理解した。この恐怖はまだ終わっていない。この地下室には、さらなる謎と恐怖が待ち構えている。
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次回は、2024年10月12日(土)投稿です!
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