安心セールス
あべせい
安心セールス
男が、インターホンに向かって、
「私、『アトラック』と申します。この地区の担当になりまして、そのご挨拶におうかがいいたしております。お忙しいところ、誠に恐れ入りますが、パンフレットをご覧いただきたいのですが、いかがでしょうか?」
「アトラックって、なに?」
「万が一に備えまして、みなさまの不安を安心に換えるご案内です」
「生命保険でしょう?」
「アトラックは国際的な生命保険会社です」
「パンフレットなら、ポストに入れておいてくださらない?」
「奥さまに直接、お渡ししたいのですが……」
「わたし、いま手が離せないのよ」
「では、ご都合のよい頃に、もう一度、おうかがいいたしますが、いかがでしょうか?」
「あなた、セールス、何年やっているの?」
「ちょうど1年になりますが……」
「1年か」
「1年は、短いでしょうか?」
「主婦が、『いま手が離せないの』と言ったら、『間に合っている』ってことだ、って先輩に教わらなかった?」
「うちの上司は、奥さま方が『いま手が離せないの』とおっしゃったら、ご都合をおうかがいして、もう一度訪問しろ、と部下を指導しております」
「あなたの上司は、主婦の気持ちがわかっていないみたい」
「私の上司は、課長になる前はトップセールスマンとして、社内で何度も表彰されておりますが」
「ということは、あなたの会社はその程度の人材しかいないということでしょうね」
「……」
「あなた、この建物に入る前、表のプレート、見なかったの」
「こちらはマンションでしょう?」
「いまどき、5階建てのマンションって珍しくない?」
「珍しいです。エレベータもない」
「わたしは、その5階に住んでいる。毎日、上り下りがタイヘンなの」
「そうですか」
「5階から下に向かって、1軒1軒セールスしているンでしょう。でも、無駄よ」
「課長から教わったやり方です。『セールスは、根気と根性だ。先入観を持たず、1軒1軒残らず訪問しろ』って」
「無駄は無駄よ」
「無駄とは思っていません」
「ここは社宅。それも、東洋生命の社宅」
「あの日本一有名な東洋生命ですか」
「日本一かどうか、わからないけれど、この建物の入り口に、『東洋生命社宅』とプレートが張ってある。あなたが見落としたのよ」
「存じませんでした。それでは、こちらのみなさまは、生命保険は『東洋生命』さんと契約なさっておられる?」
「当たり前でしょう」
「ぼくも、就活のとき、『アトラック』にするか、『東洋生命』にするか、ずいぶん迷ったンです。東洋生命にしておけばよかった」
「どうして?」
「そうすれば、きょうこんな失敗することはなかったと思います」
「あなた、ノー天気ね」
「奥さん! いまから、ぼく、東洋生命に就職できませんか?」
「いきなり、何をいいだすの。アトラックって、条件がいいンじゃないの」
「とんでもないです」
「わかったわ。話を聞いてあげるから、中に入って」
「ありがとうございます」
主婦、スマホをいじりながら、
「その程度のお給料なの」
「ほとんどが歩合給です」
「東洋生命も、あなたのような社員がいるって聞いている。あなた、いくつ?」
「25になりました」
主婦、スマホをいじりながら、
「お名前が、菊川西方……なるほど、ウソはついていないわ。でも、セールス1年にしては計算が合わない。留年しているのね」
「……」
「住所は、板橋区赤塚……」
「いまスマホでご覧になっているのは、何ですか?」
「アトラックの社員情報。1年以上在籍している社員の経歴は、漏らさず記載されているリストよ。知ってンでしょう?」
「まあ……」
菊川もスマホを取り出し、
「こちらは、東洋生命の人事課長、川代柳さんのご自宅です」
「いつ調べたの」
「玄関で靴を脱いでいるときです」
「ウソおっしゃい」
「はッ?」
「あなたは、この社宅に入る前、東洋生命のプレートを見ている。あんなに大きなプレートを見落とすわけがない。それから、どの家がいいか、各階段下の集合郵便受けの名札を見て、『川代』を選んだ。川代という苗字は東洋生命には人事課長しかいない。だから、うちに来たンでしょう」
「すいません。奥さま」
「あやまることないわ。こういうリストを流して、牽制しあっている業界なんだから」
「ぼくは、よくないことをしたのでしょうか」
「あなたの情報に、わたしのことも出ている?」
「奥さまの記載はありません。家族欄には、長女みどり、長男有人としか」
「みどりは高校何年となっている?」
「これには……峻額学園1年とあります」
「その情報は2年前のものだわ。わたし、去年、彼女の母親になったの」
「再婚ですか」
「年齢だって、娘と10才しか違わない。大学に行っている息子とは8つ違い……」
「奥さまは、まだ20代!」
「そうは見えないってこと? ガックリ」
「そういうつもりでは。落ち着きがおありなので」
「あなた、ここに何しに来たンだっけ」
「東洋生命に転職できないかと思っています」
「そうだったわ。わたし、結婚するまで川代の下で働いていたから、わかるけれど、東洋生命は、給与は世間並みだけれど、アトラックみたいに、奨励金で煽るようなことはしない。社員の努力はある程度、考慮するということ」
「ぼくも最近、つくづく思うンです。セールスは、いいときもあれば、うまくいかないこともある。むしろ、うまくいかないことのほうが多い。だから、月間インセンティブで毎月の給与に大きく差がついたり、半年の成績がボーナスに大きく反映するいまの給与体系は、ぼくの性格に合わないンじゃないか、と」
「外回りはタイヘンよね。わたしも東洋生命で3年やらされたから、よくわかる」
「ぼくはセールスに向いていないのじゃないかと考えています」
「異動願いは出したの?」
「出しましたが、却下されました。『キミは営業職の枠で採用されたンだ、いやならやめるしかない』と」
「ずいぶんね。でも、この業界はそんなものかも」
「高額の給料に引かれて入社したぼくがバカでした」
「それで、あなたは何がしたいの?」
「近頃では、家にこもってコツコツやる仕事がぼくの性に合っているンじゃないか。そう考えるようになりました」
「コツコツ、か。東洋生命でそんな職種といえば、総務か広報、資料室くらいかしら……」
「ぼくは、役所向きなンです」
「役所? 大学では何を勉強していたの?」
「気象学です」
「気象って、お天気の?」
「人間はさまざまな発明をして環境を作り変えてきましたが、いまだに制御できないものの1つが気象です。人間の傲慢さを戒める意味でも、人は気象に学ぶべきものがたくさんあります」
「よくわからないけれど、気象と生保のセールスはどう結びつくの?」
「卒業後はふつう気象庁か、民間の気象予報会社に就職するのですが、ぼくは気象に最も大きく影響を受けるのは農業だと考え、大規模な穀物取り引きを行う商社に興味を持ちました。すると、小豆や大豆の先物価格の商品相場に目が行き、一時小豆相場に狂っていました」
「卒業後しばらく相場に入れ揚げていたのか。それで計算が合うわ」
「しかし、商品相場は、多くの場合、本当の気象に関係なく価格が動くことがわかり、いやになってしまいました。相場で借金を作ったこともあり、金を稼ぐ必要に迫られて、結局セールスに……」
「ここにも来るわよ、相場のセールスマンが。株から小豆、金、毛糸、いろいろ来る」
「ぼくもセールスマンに乗せられて始めたクチです。でも、大失敗でした。上がるといわれて買った小豆が下がりつづけて。アメリカ大豆に切り換えて、損を取り戻して儲けが出たのが、結果的にはよくなかったンです。調子に乗って取り引きをふくらませ、気がついたら、1800万円の借金をつくっていました」
「返せたの?」
「全額、残っています。相場で作った借金ですから、相場で返すしかないと思っています」
「損をしたのに、まだ相場をやっているの」
「ぼくにそんな資金はありません」
「どういうことよ」
「資金をもっている人物と一緒にやっているンです。ぼくは生保のセールスと同時に、商品相場のセールスもしているンです」
「そんなことができるの?」
「どちらもフルコミッション、完全歩合給ですから。だれも文句はいいません。月水金が生保、火木に相場のセールスをしています」
「きょうは火曜日。相場のセールスの日じゃないの」
「きょうはいいンです。特別です。『東洋生命社宅』というプレートを見て、急に生保のセールスをする気になったンです。東洋生命に勤めたいという気持ちがありましたから」
「あなた、本当は、うちの川代が大豆の相場をやっていることを知っていて、うちに来たンじゃない?」
「川代さまはぼくの担当じゃありませんが、うちの会社の大切なお客さまです」
「川代の営業担当は、賀茂さんよ」
「彼から、お名前はよくうかがっています」
「そういう情報のやりとりがあるのか。賀茂さんのほかのお客さんの成績はどう。聞いていない?」
「それはマナー違反なのでお答えできませんが、ぼくと一緒にいま小豆相場をやっているお客さんは、2千万円の含み益が出ています。手仕舞いしたときは、利益の1割をいただく約束になっています」
「そんな約束をするお客がいるの?」
「これは違法です。ここだけの話にしてくださいますか」
「いいわ」
「お客さまに損をさせないよう、それだけ、お客さまにさまざまな情報を提供しているのです。会社の利益に反しても、お客さまの立場を優先する。ぼくが違法を承知でこんなことをするのは、すべて借金返済のためです」
「そうなの」
「ぼくには、これ以外に、借金を返す手段がありません」
「追い詰められているということ……うちの川代も、いま大豆の相場に苦しンでいる」
「しかし、川代さまのお取引は、業界ではまだまだ小口です。そんなに心配なさるほどではありません」
「でも、140万円の損失は、我が家ではイタいわ。川代は毎晩遅くまでパソコンをにらみつけて、ブツブツ独り言を言っている」
「素人が相場に手を出すと、大抵の場合そうなります」
「あなた、川代を助けられる?」
「どういうことですか。よくわかりません」
「あなたのやり方で、川代に有利な情報が提供できるか、という意味よ」
「益金の1割をいただく約束で、川代さまと一蓮托生の相場を張れということでしょうか」
「そういう言い方もできるわね」
「そういうことはいたしかねます」
「あなたの話って、どうもしっくりこない。どうしてお客を差別するの」
「当然です」
「どうして?」
「私が一緒に小豆相場をしているお客さまは、私と特別な関係にあります」
「どんな関係?」
「特別な関係です」
「だから、どんな?」
「私の小豆相場のお客さまは、私が片想いしているご大家のお嬢さまのお祖父さまです」
「大した関係じゃないじゃないの。大恩人か何かと思ったわ」
「奥さん。私は愛情を何よりも大切にします。お金より尊いと思っています。愛にはお金を動かす力がありますが、お金で本当の愛を動かすことはできません。お金で動く愛は、偽物です」
「好きになった相手に、いくらでもお金をつぎ込む男がいるものね」
「私は、図書館で見かけたそのお嬢さんに一目惚れして、交際を申し込みたくて、彼女のお祖父さまに近付きました。益金が出たときは、1割の約束は反故にして、代わりに、お嬢さまとの交際を認めていただくつもりです」
「1割の謝礼を反故にすることもあるの……だったら、わたしと特別な関係になればいいンでしょう?」
「……」
「わたし、いま危ないの」
「どうされたのですか」
「大学生の息子が私に関心をもってきているの」
「8つ違いなら、無理もない」
「川代がそれと気がついて、息子をアパートで独り住まいをさせた」
「当然です」
「するとこんどは、娘が自分も独り住まいがしたいと言い出して。でも、いまの川代の給料では、2軒分のアパート代は出せない」
「ごもっともです」
「あとはどうなる?」
「娘さんに我慢を強いるか。奥さまがパートに出られるか」
「娘は川代が再婚してから、おかしくなって、手に負えない。川代は前妻と死別しているの。娘は、『お母さんが亡くなって、1年足らずで再婚するなんて許せない!』って理屈。正直言うと、私と川代は前の奥さまが重い病気で入院しているときからの関係で、再婚は奥さまが亡くなる前から決まっていた。娘はそれを知っていたようで、DVだけじゃなく、車を勝手に乗りまわしては傷をつける、川代のカードを黙って使う。あげたら切りがない。だから、娘を外に出すのがいちばんと考えた」
「なるほど」
「あとはわたしがスーパーのレジ打ちのパートに出なくちゃならない。でも、どうして?」
「どうしてでしょう」
「つれないわね。わたしは、東洋生命のセールスレディをしているとき、セールス先の大手スーパーで店長の目に止まり、大量の契約をいただいたうえ、店長といい仲になりかけた。それを邪魔したのが川代よ。川代とはその前から関係があったから、仕方ないと言えばそれまでだけれど、営業本部長も間近だったその店長夫人の座を棒に振って、ここに来たの。それなのに、いまさらス-パーのパートができる?」
「できません。ぼくなら、やりません」
「わたしの気持ちがわかったでしょう」
「よくわかりました。奥さまの立場は。ただ、さきほど『わたし、いま危ないの』とおっしゃった意味は、まだ理解できません」
「あなた、ちっともわかっちゃいない」
「……」
「わたし、いま後悔しているの。コブつきの男と結婚したこと。前の奥さんとは死別だと聞いたから、面倒がなくていいかと思ったけれど、同じね。いまならやり直しができる。要はお金。あなた、さっき、愛情でお金は作れるけれど、お金で愛情は作れない、というようなことを言ったけれど、わたしにはいまそのお金が必要なの」
「そうでしょうか」
「なんて言ったの?」
「奥さまにいま必要なのは、お金ではなくて、愛情ではありませんか」
「愛情はもういいわ。お金。だから、わたしに協力して。わたしと相場を張って、大金を掴ませて」
「こ主人の大豆は、賀茂が担当ですから、賀茂と話を進めてください。同じ営業で他人の顧客を横取りするのはご法度です。これは我々のマナーです」
「だから、新しくわたし取引するの。それだったら、いいでしょう?」
「それはかまいませんが、相場は得もすれば、損も出ます」
「ナニ言ってンの。利益の1割を上げるから、絶対儲けさせるのよ!」
「それはできません」
「特別な関係ではないから?」
「そうです」
「だったら、特別な関係になりましょうよォ」
「お断りします。ぼくには、ご大家のお嬢さまがいます」
「片想いじゃないの」
「片想いは立派な愛です」
「あなた、見かけに寄らず堅いのね。でも、大きな勘違いをしている。わたしは川代を愛している。川代を裏切るつもりはないわ」
「特別な関係とはナンですか?」
「あなた、ここにナニしに来たの?」
「東洋生命に転職できればというかすかな望みを持ってやって参りました」
「そうでしょう。その願いをわたしが叶えるかもしれない。だから、その意味でわたしはあなたと特別な関係になれるじゃない」
「そういう考え方もありますが、2人のお客さまと特別な関係を持って、小豆相場に勝つ自信はありません」
「ナニも2人なんて考える必要はないでしょう。相場は上がるか下がるの、2つに1つの勝負。そのお嬢さんのお祖父さまと、同じ売り買いにすれば、問題ないでしょうが」
「そうですね。同じ売り買いにすれば、一人のお客さまを扱うのと変わりない、か。ウーム、しかし」
「どうしたの?」
「奥さまの場合、益金の1割を頂戴いたしますが、ご了解いただけますか」
「それはおかしいでしょう。お嬢さまの場合は、約束を反故にするンでしょう」
「お嬢さまとの交際を認めていただきたいからです」
「だったら、わたしの場合も、わたしと交際させて欲しいといえばいいわ」
「奥さまはご主人を愛しておられます」
「だから、当然、交際はノーよ」
「初めから答えがわかっていることに、ぼくは益金の1割を捨てるわけにはいきません」
「あなた、本心は私と付き合いたいってことになるわよ」
「なんだか、妙な展開ですね。こんなことをしていたら、ぼくはすべてのお客さまと特別な関係を持たなくてはいけなくなります。仕事にならない。失礼します」
菊川、立ちあがる。
「待って。話はまだ終わっちゃいないわ。東洋生命に転職しなくていいの」
「転職は、あきらめます」
「どうして? あと少しじゃない。あと少しで、わたしの不安が消えるのに。生保のセールスって、お客の不安を安心に変える仕事じゃなかったの?」
「長居しすぎました。ここに居続けると、ぼくの安心が不安に変わります」
(了)
安心セールス あべせい @abesei
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