第39話 限界

 海斗はまたギターの練習に忙しくなり、部活の引退試合も近づいて来て、体力的にきつい毎日が始まった。学校からの帰りと、弁当の時間以外は、ほとんど岳斗と一緒に過ごす時間がなくなった。日曜日に邪魔をしない事と、部活の試合の後も時間を取らせない事。岳斗は寂しさを我慢して、海斗の体力温存に努めた。


 一方、坂上の家の方でも変化があった。坂上が家にいる時間が減ってきた。それは岳斗にとって良い事なのだが、酔っぱらって夜遅くに帰って来る事が多くなった。ほぼ毎日になったと言ってもよい。ちゃんと働いているのかさえ疑わしい。そして、岳斗は食費を下ろそうと銀行へ行き、愕然とした。かなり残高が減っていたのだ。

「な、なんだこれ。」

坂上の預金口座である。岳斗は月に一度食費を下しに行くだけだ。坂上の給料もそこに振り込まれているわけで、坂上が金を下ろして使うのは当然だ。だが、城崎の両親が振り込んでくれる分まで使われては、光熱費も払えなくなる。

「食費を下ろしたら、もう残高ほぼゼロじゃん。電気とか止まるのか?どうしよう。」

岳斗は怖くなった。だが、城崎の両親に相談したら、もっと金をくれるだろう。そんなのは申し訳ないと思った。それでは、岳斗の為にではなく坂上の為に金を出してもらうようなものだ。

 岳斗は意を決して、意見する事にした。

「坂上さん、今日銀行に行ったら、お金がほとんどなかったんですけど。」

岳斗が坂上に話しかけると、多少酔っている風でゴロンと横になっていた坂上は、岳斗を見上げた。

「あん?なかった?なかったら城崎さんの所でもらえばいいだろう。」

岳斗はカッとなった。だが、カッとなって何かしでかしたらこの人と同じだと思った。だから、黙った。

「俺だって働いてんだよ。」

坂上が捨て台詞のように言って、そっぽを向いた。


 次に城崎の両親から金が振り込まれた時に、無事に光熱費が支払えたが、食費が足りなくなった。岳斗は仕方なく、かなり切り詰めた。昼に洋子の弁当があるからと、他は野菜をかじるだけとか、飲み物だけで済ませる時もあった。時々我慢しかねて、城崎家にご飯を食べに行こうかとも考えたが、変な行動をすると心配をかけると思い、やめた。正月にもらったお年玉も、とうに使い果たした。

 やっと金が振り込まれる日が来て、岳斗が学校から帰ってすぐに銀行に行ったら、なんと既にほとんど引き出されていた。岳斗は目の前が真っ暗になった。食費がない。もう、耐えられない。

 坂上が帰って来たので、岳斗はとうとう怒りを抑え切れず、

「お金、返してください。」

といきなり言った。

「何の事だ?」

坂上はとぼける。

「今日、下ろしたでしょ。今月分の食費ですから。」

岳斗が言うと、坂上はカッと目を見開いた。

「なんだ、その態度は!お前、自分が働いたわけでもねえのに、偉そうに返せだ?働いてから言ってみろ!」

坂上はそう言って、ぷいっとまた出て行こうとした。

「ちょっと、金、返して!」

生死がかかっているように思えて、岳斗は坂上の腕を両手でつかんだ。あの金を使われてしまったら、自分は餓死すると思った。

「放せ、こら!」

坂上はそう言うと、岳斗の腕を振り払い、体を押した。岳斗は床に倒された。すると、坂上は足で岳斗の腹を蹴った。何度も、何度も。


 岳斗がしばらく体を丸めて我慢していると、坂上は出て行った。岳斗はどうしようもなく絶望した。思考回路が正常に働かない。だから、いつもは気を使って我慢しているのに、今日はためらいもなく海斗に電話をかけた。床に転がったまま。

「もしもし?どうした、珍しいじゃん、電話くれるなんて。」

海斗の嬉しそうな声が聞こえた。

「海斗、俺、腹減った。」

「岳斗?どうした?飯食ってないのか?」

のん気な海斗の声に、涙が溢れた。

「飯、買えないんだ。金がもうない。」

岳斗が涙声で言うと、海斗は一瞬黙った。

「岳斗?どうしたんだ?何があったんだよ!」

海斗が言ったが、岳斗は何を言えばいいのか分からず、ただ電話を握り締めていた。

「今行く!」

電話が切れた。そして、驚くほど早く、海斗が来た。玄関のカギは閉めていなかったので、海斗はいきなりドアを開けた。

「岳斗?お前、どうしたんだよ?どこか痛いのか?とにかく、うちに来い。今父さんに車で連れてきてもらったから、車に乗れよ。」

岳斗は海斗に抱き起こされ、車に乗せられ、城崎家へ連れていかれた。家に入ると洋子が飛び出して来た。

「岳斗!あら、こんなに痩せて……。海斗、どうして気づかないのよ!」

洋子も無茶を言う。毎日見ていたら気づかないものだ。

 岳斗は、これまでの事情を話した。話さざるを得なくなった。この一、二カ月の間ほとんど食事をしていない事、坂上が金を使い込んでいる事、坂上に乱暴された事。

「どうしてもっと早く言わないの。」

洋子は涙を流しながら、岳斗の事を抱きしめて、背中を何度も撫でた。

「ああ、そうだ。今何か作るわね。ラーメンでいい?」

洋子がそう言って台所へ立って行った。岳斗はまた涙を流した。この家に住んでいた時なら、インスタントラーメンなんて、粗末な食事くらいに思っていたのが、今では何と豪華な御馳走に思える事か。すぐにできるインスタントラーメンには、卵やほうれん草が入っていて、湯気がもうもうと立ち込めていた。

「いただきます。」

岳斗は深々とお辞儀をしてそう言った。美味しいなんてものではない。弁当もいつも美味しいが、出来立ての温かい料理はまた格別だった。


 「もう、あのアパートへ返すわけには行かないな。」

隆二が言った。

「そうね。私、とにかくあの人に電話しておくわ。」

洋子も言った。

「でも、ここに住むわけには……。」

岳斗が言うと、

「とにかく、今日はここで寝なさい。明日は土曜日だし、明日話しましょう。」

洋子がそう言ってくれたので、岳斗は体の力がどっと抜けた。気を失うようにして、かつての自分のベッドで眠ったのだった。

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