さくらはいつも

ていねさい。

こんにちは

 運でも奇跡でも何でもいい。どうか。どうか。








 そんな思いも虚しく、俺は数分前、第一志望の大学に落ちてしまったことを知った。あれほどの我慢も犠牲も功を為さなかった。私立大学は受けていないから、俺は浪人一直線だ。地獄の一年が始まる。





 四月。俺はこれから訪れるであろう地獄の一年間を覚悟し、予備校の門をくぐった。

 教室には沢山の浪人生がいた。俺のように葬式ムードをまとっている者。やる気で満ち溢れている者。何で自分がここにいるのかよく分かっていなさそうな者。様々だった。だが、俺は周りの人間なんて興味がない。次こそ受からなければ、後がない。何を捨ててでも合格しなければ。







 四月も後半。予備校に通い出して数週間。俺はまだ気持ちを切り替えられず、だらだら寄り道をしながら時間をかけて帰路を辿った。半ば足を引きずって夕焼けの河川敷を歩く。前方から散歩をしている家族や、ランニングをしているおじさんなどとすれ違う。

 皆、悩みなんて無さそうでいいな。

 どうしても他人を羨んでしまう。周りの人たちは土俵が違うのに。何で俺だけって。

 適当なアイツも、俺に数学を教わっていたアイツも、俺より先にワンステップ上がっていったのに。どうして。


 生きていたく、ないかも。


 涙が出そうだった。その時、土色に染まる俺の視界に一枚の桜の花びらが入り込んだ。

 桜? もう、とうに全部散ったんじゃ……


 顔を上げると、そこに人がいた。先ほどまでは気づかなかった。


 その人は薄ピンク色の髪、桃色のパーカー、焦げ茶色のズボン姿でそこに立っていた。多分、俺と同じくらいの歳。

「こんにちは」

「こ、こんにちは」

 いきなり挨拶されたから、びっくりした。知らない人に挨拶をするのなんて小学生以来かもしれない。

「僕の名前は光樹。君は?」

「……ヒロ」

「ヒロ、いい名前だね。お急ぎのところ悪いんだけど、ちょっとお話ししない? 人助けだと思ってさ」

「……いいよ」

 正直、知らない人と話している暇なんてない。一秒でも長く勉強しなきゃいけないのに。分かってはいるけど、今日は勉強する気になれなかった。だから、こいつと話すことにした。


 俺たちは階段に座って話し始めた。大した話はしなかった。これの何が人助けなんだろう。こいつ、何考えてるんだろう。もしや、こいつは怪しい人なのか。隙を見て俺から金を取ろうとしてるとか? 勘弁してくれ。これ以上の不幸はいらない。

 でも、俺と話している間の彼はとても嬉しそうで、どうしても怪しい人には見えなかった。風が吹くたびにさらさら流れる髪。眠そうな目。安定した話し声。なんだか、落ち着くかもしれない。

「あ、もうこんな時間。付き合ってくれてありがとう。また、お話ししてくれる?」

「うん。俺もなんか楽しかった」

「本当? 嬉しい。よかった」

 花がほころぶように微笑む光樹。

「じゃあ、また明日。ここで会おうね。ばいばい」

 彼はそう言うと走って行ってしまった。あっという間だったので引き留めることもできなかった。

 明日会おうって、何時よ?







 次の日、俺は予備校で授業を受け、自習室で勉強をしてから帰路についたため、昨日よりは帰りが遅くなってしまった。さすがに光樹はいないだろうな。

「ヒロー。おかえり」

 いきなり後ろから声を掛けられた。

「えっ、光樹。まだいたの。もしかして待ってた?」

「ううん。僕の家からヒロが見えたから出て来ただけ。ね、今日もお喋りしよう?」

 俺たちはまた階段に座って少し喋った。光樹は現在、高校三年生なのだと言った。高三でその髪色は大丈夫なのだろうか。校則がかなり緩いのか、光樹がヤンキーなのか。


「じゃあ、光樹は受験生?」

「うん。ヒロも?」

「そう。でも、」

「でも?」

 俺が浪人生だということを言うか、一瞬迷った。光樹はどうせ同じ高校じゃないし、同じ高三ということにしておいてもばれないだろう。それに、「浪人生です」と言ったら気を使わせてしまうかもしれない。それか、見下されるかもしれない。しかし、言ってもいいかもしれないと、光樹に対しては思えた。

「俺、浪人生なんだ。第一志望落ちちゃって。ダサいよな。はは」

 光樹は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにまた眠そうな目に戻った。

「そうなの。じゃあ、勉強で分からないところがあったらヒロに聞くね」

「俺、バカだから聞かれても分からないかもよ」

「いいの。分からなかったら一緒に考えようよ」

 同情も、バカにもしない彼の態度に俺は困惑した。照れ隠しに皮肉でごまかそうとする俺に、光樹は真面目に答えてくれた。

「分かった分かった。じゃあ、一年先輩のヒロ様が教えてやろう」

「うん!」

 どうしてか、彼の方が嬉しそうに応える。彼の頬は、温かな色に染まっていた。







「はいっ、阿倍仲麻呂です!」

「正解! 阿倍仲麻呂は日本に帰って来られなかった人だから! この前も言ったけど、科挙が……」

 俺は文系なので日本史の授業を受けている。この先生は話も面白いし、解説も分かりやすいので人気の先生だ。俺も、現役生の夏期講習でこの先生の授業を受けていたから楽しみにしていた。

 にしても、さっきから先生の質問に答えているあの生徒、凄いな。全部彼女が答えてるや。きっと頭がいいんだろうな。羨ましい。


 授業が終わり、次の授業まで自習室で勉強することにした。席に着くと、ドアが開いて誰かが入って来た。入ってきたのは、先ほど同じ授業で先生の質問に全回答していたあの生徒だ。あの溢れる知識を聞いていたからか、彼女の表情は自信に満ちているように俺には見える。その人は俺の後ろに座った。

 ちょっと緊張するな。少しでも動いたら「うるさい!」とか怒られないかな。




 結局、何事もないまま授業の時間が来たので荷物をまとめて席を離れる。その時、肩に手を置かれた。振り返ると、あの彼女が後ろに立っていた。

「これ、落としたよ」

 彼女は俺の前で手を開いた。そこには俺の消しゴム。いつの間にか落としていたのだろう。

「あ、すみません」

 緊張して、消しゴムを受け取るとそそくさと授業のある教室に向かった。感じが悪かったかもしれない。後から悪口とか言われるのだろうか。面倒臭いな、そういうの。

 まあ、もう関わらなければいいのだから、今は授業に集中しよう。







 授業が終わり、帰ろうと出入り口に向かった。出入口に近づくと、男女三人組がドアの隣で談笑していた。ちらっとその人たちの顔を見ると、消しゴムを拾ってくれた秀才さんもいた。俺は気まずくならないように彼女らの横をすっと抜け、ドアに手を掛けた。ドアを通り抜ける時、視線を感じたような気がした。







「うーん、大丈夫だと思うよ。そんなに心配しなくても」

 俺はまた河川敷の階段で光樹と話していた。今日の秀才さんとのやり取りに不安を感じて、光樹に相談している最中。

「俺、睨んじゃったかも。うわー、しくったな」

「そんなに心配なら、明日話しかけてみれば? 昨日はありがとうって」

「え、変だって思われない? 帰りにだってすれ違ってんのに。華麗にスルーしたけど」

「スルーさせてくれたんなら大丈夫でしょ。怒ってたら一言くらい声掛けてくると思うけど」

「あん時は他にも人がいたからさ」

「だったら尚更だよ。仲間がいたなら、その場では大勢対一なんだから。あっちの方が責めるチャンスじゃん。何も言ってこないってことは、あっちは何とも思ってないと思うな」

 光樹は順序立てて理論的に話してくれる。理系か?

 彼の説得もあり、俺は明日、秀才さんに話しかけて見ることにした。

 そうそう、光樹と連絡先を交換しようとしたら、「そういうのやってないから」って断られた。今時珍しいなとも思ったが、何となく彼らしいとも思った。

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