第7話 甘える猫
「ニトラン、ニトラン」
ステラは自然と、よく知るオス猫の姿を求め、ミャアミャアと鳴いてはニトランを探した。これだけの猫が芋洗い状態で存在する中で、たった一匹の顔見知りを見つけ出すのは至難の業である。耳も鼻もそれほどよくはない。しかし、元来、猫は夜行性のような気がした。暗い時こそ闇にまぎれてその目を鋭く光らせる生き物。暗さが増すにつれ、猫の個体同士を識別する能力が高まってきた。
しばらく歩くと、偶然にもニトランを見かけた。
「ニトラン、ニトラン。ステラよ」
ステラは猫の言葉で呼びかけた。ニトランはそれに気づき、体をしなやかに使ってぴょんと屋根の上から地面に降り立った。
「ステラ。ステラじゃないか。遠くへ行ってたのか」
「ええ、そうなの。猫のユートピアは何もかもが新鮮だったわ。あれこれ目移りしている間に、もう日没を迎えちゃった」
「それはよかった。このユートピアは猫の安息地。猫同士の争いもない。明日も今日同様、ゆっくりすればいい」
「ねぇ、ニトラン」
ステラは猫撫で声で、いや、オスに媚びるような裏声でもって、ニトランに甘えてみた。
「なんだか、まだ猫の気ままさに慣れなくて」
「そりゃまぁ、昨日までは人間の体だったから」
「そうなんだけどさ。ちょっと体が痒いの。甘えていい?」
「う、うーん」
曖昧なニトランの返事を聞くのを待たず、ステラは彼の懐に入り込んだ。同類の体温が体に心地よい。彼の吐息はこの上なくいい匂いに感じられた。
「なんだよ。甘えたがりだな、ステラ」
「別にいいじゃん。たまにはロマンチックも」
目を閉じてゴロゴロと鳴き、ステラはニトランに体を寄せて甘えた。けっして発情期でも、特別な恋愛感情を持ったわけでもない。ただ、ずっと一匹のままでは、いくら仲間がたくさんいたって寂しい時もあるだろうと思った。
しばしの間、ステラとニトランは体をぴったりとくっつけた。互いの熱で体を温め合うのに理由はいらない。
やがて、ニトランの方から体を離し、ステラは照れ隠しのように猫の家の屋根に上った。屋根の上にお腹をつけて体を丸め、目をつむった。昼間の太陽からもらった熱量で屋根の表面は熱を持ち、猫にとっては快適な空間だった。移動の疲れもあり、そのままぐっすりと眠りについた。
ステラが目を覚ましたのは、朝の遅い時間だった。太陽はずいぶん高く上がっている。ひとつ大きな欠伸をし、おもむろに立ち上がった。向こうの屋根にも同様のことをする朝寝坊の仲間がいた。
「さてと。何か食べ物を探そうかなっと」
左右を見ながら、地面にぴょんと着地した。どうやら、他の猫たちは猫のユートピアの外の方へ出て行くらしい。大部分の猫たちが招き猫の石像を通り過ぎて、どんどん石垣の外へ向かっている。
「つまり、ユートピアの中には餌が豊富にないってことなのね」
ステラはそのように考え、石垣の外へ向かう猫の行列の最後尾に並んだ。
石垣を出ると、そこは人間の住む世界だった。のんびりした田舎町ではあるが、人が居住し、田畑を耕す生活を営んでいる。
とある家に入ると、別の猫が入れ替わりに出てきた。
「おまえさんも食事に来たのかい」
その猫は言った。トラ柄のオスの猫だ。
「そうよ。そのつもりだけど」
「いいことを教えてやろう」
「なあに?」
「天井裏に行け。ご馳走にありつける」
「いい話じゃない。親切ね。ありがとう」
ステラはその猫にお礼を言った。足を忍ばせて三和土から部屋へと上がる。家人の隙を狙い、サササッと柱を駆け上る。いとも簡単に天井裏に侵入するのに成功した。
「ご馳走とは、こいつらのことね」
ステラの視界に、小動物が左から右へ横切る姿が映った。ネズミである。猫にとって、いちばんなじみ深い動物。生きたご馳走だ。
忍び足で反対側に行き、背中を丸めて息を殺す。ネズミはステラに気づき、バタバタと逃げ始める。丸めた背中を思いっ切り伸ばし、フニャアと声を出して狙ったネズミに襲いかかった。ネズミは一直線に走り出す。ステラはそれを追いかける。ネズミは壁を直角に曲がり、また走り出す。愚直な相手を、斜めに突っ切ったステラの足が確実に捕らえた。
「やった。ネズミの生け捕りに成功ね」
目を見開いて獲物を押さえつけた。肉球の裏でもがくネズミをぎゅうぎゅう踏んづける。体重を預けておとなしくさせる。首を下げ、押さえた横っちょからガブリとそれをくわえた。生の魚もいいが、生きたネズミの匂いもぷーんと甘い香りがして食欲をそそられる。さっそく前歯で強くかみ、ほ乳類の味を堪能した。独特なかみごたえと肉の甘みや旨みが、口いっぱいに広がる。ステラは思わず目を細めた。
「ああ、満足ね。朝から上手に狩りをして、食事にありつけた。とっても機嫌がいいわ」
ステラはネズミを平らげ、ヒューッと口笛を吹いた。
胃袋を満たした後は、ゆっくり休みたくなった。朝に出発した場所へ戻ることにした。
猫のユートピアに着いた。
芝生に寝そべり、ネズミの血や肉片で汚れた前足を片方ずつ丁寧になめ取った。充分になめると毛づくろいをし、新体操の選手のように体を丸めて後ろ足も器用になめた。どうしてこんなに体をなめたくなるのだろうと思いつつ、猫の性分はきっときれい好きに違いないと合点した。芝生に穴を掘り、排泄したフンを穴に入れて土をかけた。それも他の猫に教わったわけではない。ただ自然にそうしたくなるものらしい。
少し離れた場所にニトランがいた。彼は物見やぐらに上り、別の方角を眺めていた。
「ニトラン、さまになってる。オスらしくて恰好いいわ」
ステラは昨日寄り添った光景を思い出し、ポッと頬を染めた。
物見やぐらはユートピアの猫たちの分布具合を一望にして把握できる。昨日は夕景に見とれたけれども、高所というのは猫にとっていろいろな面で有利な場所に思えた。
ステラも物見やぐらへ行ってみた。
物見やぐらに着いた。トントンと足場を踏み、高みへ上がる。上に行くにつれ、けっこうな勢いの風が吹く。体が持って行かれないよう柱にしっかりと足を絡ませ、上の方まで来た。
ニトラン、と声をかけそうになり、やめた。ニトランは背中を向けていた。彼の背中にもたれているメスの猫がいた。その猫もニトラン同様に三毛猫である。ちょっといい感じの雰囲気だった。ニトランも素敵な猫だ。隅に置けない。
しばらく、その二匹と一定の距離を保って眺めていると、ニトランがステラに気づいた。ニトランは首から上をねじった。
「ステラか」
「その、あの」
ステラはしどろもどろになった。
「ああ、この猫か。彼女は俺の恋人で、ミントというんだ」
ニトランは恋人猫を紹介した。
「よろしくね」
ミントはゆっくり顔をこちらに向け、微笑んだ。
ステラは気まずそうに物見やぐらの上を歩いて一周した。仲のよさそうなニトランとミントを邪魔するつもりはなかった。別れを告げるようにニャアと鳴いたら、いつの間にかニトランとミントはもうそこにいなかった。すでにやぐらから下り、どこか別の場所へ行ってしまったようだ。
やぐらから神殿の方を眺めた。昨日よりも階段のスペースはすいており、そこにいる猫はまばらである。
「猫がいないうちに、さっさと行ってみるか」
物見やぐらを下りた。神殿に向かって早足で急いだ。
神殿に着いた。
大きな柱と梁に、あらためて圧倒された。大理石の階段を上がり、適当と思われる場所を確保して体を丸めた。
目の前にある噴水から、幾筋もの水流がじょぼじょぼとほとばしる。裸婦の彫像は古びており、両腕がもげて痛々しい。彫りの深い顔は、「腕がほしい。腕を返して」と訴えていそうだ。今にも彫像が動き出しそうな気がして、ステラは笑った。
「残念ね。あなたにあげる腕はないのよ。ここは猫のユートピア。人間はいない。彫刻は彫刻らしく佇んでいなさい」
最後にミャアオと鳴いて、裸婦像を冷笑した。
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