第4話 長老猫ハルのお告げ

 何とかなるよ。だいじょうぶだ。自分に言い聞かせていると、ワタルが走って来た。お父さんとお母さんはやって来ない。


「ワタルくん、手術、どうだったの?」


「ああ。けっこうたいへんだったみたいだけれど、心配ないってさ。手術は成功だよ」


 ワタルの言葉を聞いて、ひとまず安堵した。


「そう。よかった。近いうちに退院できるんだ」


 私は顔をほころばせた。


「それがさ。体はだいじょうぶだけど、院長が言ったんだ。『しばらく安静が必要です。静かにして見守りましょう』って」


「つまり、どういうこと?」


「知らない。俺、トイレに行きたくて」


 ワタルはそこで足踏みすると、ぴゅーっとトイレに走って行った。

 ワタルはウソを言ったわけじゃないのだろう。どういうことか。体は何とかなったが、安静にせよ、とは。明日退院の見込みで、病院で一夜を明かすのだろうか。どうしよう。どうなるのかしら。私にできることって、ないのかな。

 少したった。ワタルが歩いて待合所まで来た。

 私はワタルに訊ねた。


「お父さんとお母さんは?」


「まだ院長の説明を聞いてんじゃねぇの? 知らないけどね」


 ワタルはそっけなく言い、会議室の方へ歩いて行った。

 やや時間をおいて、タケルのお父さんとお母さんがこちらへやって来た。どう控えめに見ても、二人の顔色はすぐれなかった。


「どうだったんですか」


 私は不安な気持ちをなるべく抑えて訊ねた。


「タケルのケガだが、CTを撮ってみたそうだ。頭蓋骨を骨折しているんだとさ。頭部に出血があって、頭蓋骨に小さな穴をあけてそれを洗い流す手術をしたそうだ。手術後の経過はいいけれど、意識が……戻らん」


「意識が戻らないって……」


 私は言葉に詰まった。


「とにかく、そういうことだ」


 お父さんは立ったまま拳を握っている。その手はぷるぷるとかすかに震えている。

 病気のことは詳しくない。理解もできない。意識がなくても、体の細胞や組織が動いていれば、ケガの処置はできるものなのだろう。しかし、意識を戻す方法は、医者といえどもむりな時があるのか? 実際に院長に会って、私はそれを確かめたかった。

 私の不安な気持ちはますます募るばかりだった。加害者であるトラックの運転手は姿を見せず、行き場のない怒りを感じていた。

 私は何かを言おうとして、どういう言葉をかけるべきか迷った。適当な言葉が見つからず、無言の時が流れた。雰囲気は重くなるばかりだ。たまりかねて、答えやすい質問をお父さんに投げかけた。


「これからどうするんですか」


「私たちはいったん家に帰る。また明日、病院に行く。とにかく、意識の戻らない息子のことが心配だ」


「本当にそうですね」


「やり切れないよ、まったく」


 お父さんはうつむき加減でそう言った。語尾にお父さんの気持ちがにじんでいた。私はやきもきした。本当のことを言っているのだろうが、下校するまで元気にしていたタケルの体がそんな風になるなんて、まだ信じ切れない部分もあった。タケルの意識が戻ってほしいと切に願った。

 しばらく、私は放心状態でボーっとした。

 意識不明の状態。意識が戻らないって、何が起きてるの? タケルの魂はどこかをさまよっているとでもいうのか。よく理解できない。私の頭には、幽体離脱した魂がふわふわと宙に浮かんでいるような絵しか浮かんでこない。

「てことは、当然、しばらくの間はベッドに寝たきりだし、面会もできない……」

 私は絶望的な気持ちになり、打ちひしがれた。頭を抱えた。へっちゃらだと微笑むタケルの姿は絵空事になった。本当にタケルが哀れでならなかった。

 短時間の間に頭がフル回転した。

 最近の私ときたら、忘れたくてもタケルを何度も意識する。テストがあるのに、タケルの夢をしょっちゅう見る。そして、いちばん思い出したい何かが欠けている。欠けたものは失われる。人の心って、何様なのか。無尽蔵の太陽エネルギーみたい。バカバカしい時もあるけど、いちばんの拠り所。ある時に沸騰し、冷め、また熱を持つ。その持ち主はおおわらわになる。冷静にならなきゃ、私。この切なさはどこから来るのか。もう、胸がぺしゃんこでスカスカ。それくらい好きになった相手が、ベッドで横たわっているのだ。家族も私も、大ピンチに追い込まれたのである。

 院長がやって来た。小さな声で家族に何かを言い、家族は頷いて病院の裏へ向かった。

 彼は私に気づいた。互いに顔見知りである。黒縁のフレームのメガネ姿だ。いつものように優しそうな顔をして私とすれ違った。そのときだった。待合所のテレビが急についた。天井の白い照明がチカチカと不気味に点滅した。真っ白な画面が映り、声がした。男の人の声だ。な、何? 驚いたことに、その声の主はおどろおどろしい声でこんな風に言った。


「事故を目撃したセイナよ。長老猫ハルのお告げがあった」


「ん?」


「もうすぐ猫戦争が起こる。男子に取り憑いた化け猫ジマを倒し、邪悪な魂を壺に封印して七十二時間以内に猫戦争を終わらせよ。そうすれば、タケルの意識は戻る」


 野太い大人の声で、実に冷淡な口調だった。やがて、テレビは勝手に消えた。言葉も聞こえず、静かな待合所に戻った。照明もちゃんとついた。

 何だろう? 意味不明のことばかりだ。

 気が動転した。どこかで聞いたような声でもある。テレビの中に入って私に語りかけたのか? だれ? だれなのよ。実に不気味なメッセージだ。

 テレビからメッセージの音声が聞こえたのも驚きだが、その内容は信じてもよいものなのか。とても疑問である。今夜にかぎって、疲れた私は、聞こえもしない声を聞いたのか。にわかに信じがたい。長老猫とは何だ? そのお告げ。猫戦争。化け猫ジマを倒せ? 邪悪な魂? あげくの果てに、その魂を封印? 七十二時間以内に猫戦争を終わらせろ? 何も知らないし、はじめて聞くことのオンパレードだ。それらをすべて満たせば、タケルの意識が本当に戻るのかしら? とても非科学的な話である。どこにも論理的なものがない。理解に苦しむ。


「これはいったい、どういうこと?」


 私はこうした状況に置かれ、素直に聞き入れられなかった。長老猫だの、化け猫だの、邪悪な魂の封印だの、どれも何かの作り話か小説めいている。いつもの私ならば、バカみたいとせせら笑うだろう。私はタケルの友だちだ。友だちとして、一人の片思いの女の子として、タケルの意識を取り戻す方法があるのなら、その方法を使って試したかった。何とかして彼が元に戻るのに貢献したかった。目の前でトラックにぶつかられ、ケガをした。意識もない。そして、私は何もしてあげられないでいる。何たる無力感。何たる虚無感。このまま意識が戻らなければ、タケルは死んだのも同然ではないか。そうした思いは強かった。強さが高じて、私の思考は冷静さから不可思議さへ大きく針を振り切った。状況の悪さが私の心を追い詰めたといっても過言ではない。私は頭も切れないし、成績もいい方ではない。疲れた私にテレビが語りかけたのはウソなのか。化け猫征伐と猫戦争。

 時間がたつにつれ、しだいに妙な考えに囚われた。だれかの呪いがテレビを通して私に語りかけた。そう思うようになった。平凡な女子高生の私だが、タケルのピンチを見た人間は私。その私に白羽の矢が立った。つまり、患者を救うには、正義の味方に変身し、悪影響を及ぼす化け猫を退治すること。誰かが暗にそんな風に望んでいる。頼りにしている。そう思うようになってきた。

 病院から家までは近い。タクシーを使わず、徒歩で帰宅した。

 自宅に着くと、そうした使命感が私の頭の中を支配していた。使命感だけがメラメラと燃え、食事もとらずに二階の居室へ直行した。パジャマに着替え、眠りについた。

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