第3話 猫ヒジキと、友人の回想

 どうやら、タケルの家族には気づかれてない模様だ。フー、とひと息つき、黒猫について考えてみた。少し昔なら、黒猫を飼っていた。ヒジキという名前をつけた。ヒジキはよくなつき、聡よりも私の方に寄って来た。寄って来ては甘えた声で鳴き、椅子に座る私の膝の上に飛び移った。しばらくの間、腿の上で体を丸め、至福の時を過ごしているように見えた。そんな時は、体の毛並みがフサフサしていて気持ちがいいので、私は優しくヒジキの背中を撫でてやった。オス猫のヒジキはミャアと鳴き、こちらを上目づかいで見つめたり、目を細めて気持ちのよさを示したりしてきた。

 ヒジキがラッキーアイテムだったりして。他には、野良猫で黒いのもいるが、ここ数日は近所で見かけてなかった。

 しかし、である。ヒジキは七年前の雨の日に、忽然と姿を消した。自宅で飼っていたのに、家のどこを捜してもおらず、鳴き声も聞こえてこなかった。どこかに隠れているとか、何かに挟まって動けないとか、いろいろと考えを巡らした。隠れていそうな場所をみんなで手分けして捜した。けれど、むだだった。その日を境にプッツリと、ヒジキというオスの黒猫は流家から失踪した。かなり高級な猫であり、血統書もついていた。一生懸命になって家の外まで捜索範囲を広げた。家族総出で血眼になった。母の明子に手伝ってもらい、SNSで迷い猫の告知を出したし、近所の電柱や掲示板に張り紙もした。そんな努力も虚しかった。ヒジキを見ただの、黒猫を見かけただのという目撃情報は、一件も寄せられなかった。当時九才だった私をおおいに悲しがらせた。父の勲は少女の関心をそらそうとしてなのか、高くて珍しいおもちゃを買い与えた。私も幼くて、いなくなった猫に関してずっと心を痛めているほどの繊細さは持ち合わせていなかった。


「はぁ、ヒジキか。懐かしいな」


 かわいかった愛猫のことを思い浮かべているうちに、ヒジキの特徴を思い出した。


「たしか、丸顔で目も大きくてまん丸。尻尾は太くて短かったな」


 もし、七年たった今でも生きているのなら、ヒジキは十才になっているはず。顔はどうだか分からないが、太くて短い尻尾は健在だろう。ぱっと見て、「これがウチのヒジキよ」と断言はできないが、ヒジキならば向こうの方から寄ってきそうなくらいに賢い。きっと円らで大きな目もそのままのはずである。

 ヒジキと命名したのは明子だ。勲が、ペットショップで生後半年だった猫を見つけて気に入り、家族と相談した上で購入して家に迎えたのだ。父にネーミングの才能はなかった。クロだの、クロヨンだの、デゴイチだのと、最初以外はよく分からぬ名称を引っ張り出してきた。見かねた明子が助け舟を出し、「ご近所さんで黒猫を飼ってる人がいてね。真っ黒いから、黒い食べ物がいい、ってことで連想してさ。海苔からカタカナにして『ノリ』とつけたのよ。ウチは、『ヒジキ』にしましょうよ」と言い出した。みんなはそれがいいと頷き、満場一致でヒジキという名前に決まった。ヒジキを「ヒジキ」と呼ぶと、黒い体をしなやかに動かし、ミャアと鳴いて寄って来るようになった。子どもながらに感動した。暇さえあれば四六時中ヒジキと一緒に遊び、家族の中でだれよりもヒジキになつかれた。ヒジキがミャアミャア鳴くと、その抑揚や微妙な声の長さ、高さなどの変化に気づき、私はヒジキと会話している気になった。飼い始めた時にはまだ生後半年と幼かった黒猫は、やんちゃでよく動き回り、とてもかわいかった記憶がある。それが二年と少しで我が家を去ってしまうなんて、あんまりだ。あれほど家族の一員として扱い、丁寧に育てて慈しんだものを。

 ひとしきりヒジキに関する思い出を辿り、感慨に浸っていると、看護師のよく通る声がした。看護師の女がこちらに歩いて来て、言った。


「北斗タケルさんのご家族さま。手術が終わりました」


「息子の手術が終わったんですね。それじゃあ、これから手術室へ行くんですか」


 タケルのお父さんは、やや興奮気味に看護師を問い詰めた。


「私どもが案内します。会議室で担当医がレントゲンを見せ、手術の経過を話します」


「成功したんですか」


 タケルのお父さんは食い下がった。


「それも含めて、会議室で説明があります」


 看護師の女は手術が終わったとしか言わず、成否については医者が言う、の一点張りだった。個人情報を他人に聞かれてはまずいとの認識もあったのかもしれない。

 タケルのお父さんとお母さんは顔を見合わせ、「分かりました」と答えた。

 看護師を先頭にして一同は会議室へ向かった。私は一人で待合所に残された。むろん、私もタケルのことは心配だし、手術が成功したのかどうかを知りたかった。しかし、家族でもないのにその輪に加わるわけにはゆかない。冷めて残ったココアをぐびりと飲み干し、妙に切なくなった。少しお腹もすいてきた。帰宅しても怒られはしないだろうが、ここまで来ていなくなるのは無責任で薄情だ。唇をキュッと閉じた。どんな状況になっても、私はタケルを信じている。彼ならば、きっと元気な姿で戻ってくるだろう。

 しばらく、待つしかなかった。ここにシオンとココハとサクラがいれば、女同士のざっくばらんな話で盛り上がり、退屈な時間はどこかへ行ってしまうに違いない。四人でトランプでもすれば、私がいちばん上手にカードを切れる自信はある。ひとりぼっちでぽつねんと座っているというのは、本当に寂しい。今ごろ、私の家族は食事を終え、テレビを見たり、お風呂に入ったりして、気ままにくつろいでいることだろう。

 食事といえば、子どもの頃にフードコートに行き、家族勢揃いで食事したのを思い出す。なんてことのないものを食べただけであるが、よく覚えている。ときどき思い出す。ラーメンと餃子とうどん、おにぎりを家族四人で分けた。ありがちな普通の夕食だった。裕福でない流家は、三人分を家族四人でシェアするのが常だった。食べている時、偶然に友だちとばったり遭遇した。私は子どもなので、なんの恥じらいもなく、友だちのシオンに声を掛けた。


「シオンちゃんもフードコートなんだね」


「そうよ。偶然ね」


「シオンちゃん、何食べるの?」


「まだ、決めてない。ウチはハンバーガーよ」


「なるほど。チーズバーガー?」


「かもね」


「シオンちゃん、あの酸っぱいきゅうり、食べられるの?」


「分かんない。食べてみないと」


「ポテトがあるなら、ちょっとちょうだい」


「いいよ。少しなら」


 シオンはキラキラした髪飾りをつけていた。いつもは地味な黒の髪飾りであり、その夜にお洒落してきたのは明らかだった。


「シオンちゃん、今日はキラキラだね。おしゃまさんだ」


「フフフ。日曜だし、人前だしね」


 シオンはウインクして手を振り、親に連れられて店の方へ行った。

 日曜日の夜の出来事だった。なぜかその外食は心に刻み込まれた。これまでたくさん外食してきたのに、私の外食の思い出ランキングでは、その夕食の光景が不動の一位でありつづけた。

 まだ、話には尾ひれがつく。その晩、夢を見た。シオンとお菓子の国で遊ぶ夢だ。巨大なケーキの山を滑り降りる。目の前にはパンケーキの船が待っている。それに乗って島を目指す。島に着くとアイスクリームの畑があり、取り放題。手の届くところに綿飴の雲がつかめ、ちぎっては食べた。疲れて泊まったホテルの壁と床は全部がチョコレート。シオンと目配せし、ホテルの人に内緒で床や壁を食べているうちに、ホテルは穴だらけ。シオンと大笑いして目が覚めた。よく覚えている。友だちにも自慢した。本当のところは、よくできた夢であり、夢を忘れぬうちにと、朝起きて夢の中身をノートに丁寧に書き記した。その部分は学校の勉強で習った箇所より何回も見返し、ニヤニヤしたものだ。


 あの頃は楽しかった。大人の年令が近くなるにつれ、大人世界への期待や憧れよりも、つまらなさや面倒くささがチラチラしてくる。私だけだろうか。

 とはいえ、私は高校生である。ある程度は現実を受け入れないと暮らしていけない。あまりにも手持ちぶさたで、カバンから教科書を出して眺めた。英語の教科書を開くと、重要な構文に赤いマーカーが引かれている。いくつかの英単語は覚えていて、何割かはとうに忘れているか、あやふやになっていた。私の英語力なんて、そんなもんだ。クラスのだれかが言っていた気がする。英語を話せないのは日本人だけだ、と。外国では、文字は読めないけれど、老若男女が当然のように英語を喋れる。どうして、そうなるのだろうか。リスニングの授業でも、私の場合、早口で喋られるとついていけない。私がヘッドホンを外し、不安になって友だちを見ると、シオンもサクラもココハですら、舌を出して手を広げたから安心した。これでいいのだろう、日本は。どっかで何とかなる。

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