命③


 懐かしいとすら思う匂いに戻ってくる意識を感じ、重い瞼を開くとそこに、心配そうな母の顔があった。



「……母さん……?」


 飲み込めない事態に困惑した声を出すと、母は「樹里……」と小さく名を呼びホッとした表情をする。



 そして、



「私、どうして……ここは……?」


 私のその問いに、「ここは病院よ」と諭すように答えた。



 そう言われてあたりを見回すと確かにそこは病院の個室で、ベッドに寝かされた私の腕には点滴の針が刺されている。



 懐かしいと思ったのは病院独特の匂いだったらしく、



「学校で倒れてね。先生から連絡があって病院に連れてきたの」


 疲れた顔をしている母の言葉に「そっか」と答え、痛みの消えたお腹に触れた。



 その仕草に目を遣った母が、「樹里、あのね?」と躊躇いがちに声を出す。



 そして、「何?」と母を見ないで答えた私に、「あなた、妊娠してたの……」と少し声を震わせた。



「うん。知ってる」


「……知ってたの?」


「うん。結婚して産む」


 決して母を見ない私は、点滴の落ちる雫をぼんやりと見ていて、



「……流産したわ」


 病室に静かに響いた母の声に、ようやく「……え?」と目を向けた。



「流産って言っても……元々きちんと妊娠してなかったの……」


「……何言ってるの……?」


「受精した卵が弱くて、子宮に辿り着けなかったの」


「で、でも病院で妊娠してるって言われて……写真も……袋が出来てるって……」


「……受精したから体が妊娠したと思って袋を作っただけですって。さっきお医者さんがそう説明してくれたわ。袋の中に卵が写らなかったのよ」


「じゃあ……私の赤ちゃんは……?」


「いないのよ、樹里。赤ちゃんはいないの」


「……何で……? だって私の赤ちゃんは……」


「後で子宮の袋を取り出す手術をするそうよ」


「……嘘だ」


「樹里」


「嘘っ!」


「樹里っ」


「そんなの嘘だもん!」


「樹里っ!」


「やだ! 絶対やだ!」


「樹里!!」


「そんなのやだぁぁ」


 いつの間にか泣き出していた私は、お腹を抱き締めるようにしてそう泣き叫び、母が宥めるように私の肩に触れた。



 その直後、廊下からバタバタという足音が聞こえ、病室の扉が勢いよく開き、



「大丈夫か!?」


 息を切らせたコータ先輩が病室に飛び込んでくる。



 一瞬、母の姿を見て足を止めたコータ先輩は、それでも私が泣いていることに気付くとすぐにベッドに駆け寄ってきた。



「樹里、どうした? 子供に何かあったか?」


 雰囲気から何かを察したのか、コータ先輩は緊張した声を出し、



「コータ先ぱ……赤ちゃんが……赤ちゃんが……」


 そう泣きながら私がコータ先輩にしがみ付いた――その時。



 コータ先輩に近付いた母の手が、パンッ――と乾いた音を立て、コータ先輩の頬を叩いた。



「あんたがうちの娘を!!」


 目に涙をいっぱいに溜めてコータ先輩を睨み付ける母に、突然のことで驚いた私もコータ先輩も何も言えず、



「うちの娘を何だと思ってるの!! この子はまだ十七歳なのよ!!」


 そのヒステリックな母の叫びに、コータ先輩は「……すみません」と小さな声を出すだけだった。



「こんなことが許されると思ってるの!!」


「やめて! 母さんやめて!!」


 母は怒りが治まらないのか尚もコータ先輩に怒鳴り続け、私が母の腕を掴むとその目を向ける。



 そして母は大きく息を吸い込み、



「傷つくのはあなたなのよ!!」


 そう泣き叫ぶと、またコータ先輩を罵り始めた。



 そんな母を見て、違うと思った。



 これは――この妊娠は――決してコータ先輩だけが悪いんじゃない。



 私にも責任がある。



 いつの間にか避妊しないことを当たり前に思って、避妊して欲しいと言わなかった私にも責任がある。



 これは私がセックスという快楽に溺れた結果で、コータ先輩だけを責めるのは違う。



 だから。



「違う! 私が悪いのっ!!」


 コータ先輩を罵り続ける母に向かってそう泣き叫んだ。



 私の叫びに母は言葉を止め、私に目を向ける。



 だけどその直後、



「俺、ちゃんと結婚して娘さんと子供大切にしますから」


 そう告げたコータ先輩に再び冷たい目を向けると、「その必要はありません。娘は流産しました」と言い放った。



 途端に「……え?」と驚いたコータ先輩の視線が、母から私に移動する。



「本当……なのか?」


 問い掛けてくるその声は、明らかに震えていて、



「卵が弱くて……死んじゃったって……ちゃんと妊娠……出来てなかったって……」


 私は両手で顔を覆い、泣きじゃくった。



「嘘……だろ?」


 落胆の色を隠すことなく呟いたコータ先輩は近くにあった椅子に座り、私のお腹を震える手で撫でる。



 私がその手をギュッと握ると、コータ先輩は強く握り返し、静かに涙を流した。





 妊娠したと知った時、産んで育てられるのかと物凄く不安だったのに、私はいつの間にか自分の中に出来た小さな命を愛おしいと思っていた。



 だからいなくなったと知った時、不安に思ったことを後悔した。



 そんなことを思ったから、いなくなってしまったんじゃないかと、過去の自分を恨んだ。



 命というのはとても儚く大切なものなんだと、私はこの身をもって思い知らされた。



 こんな悲しい出来事は、二度と起きて欲しくないと心から思った。



 なのにこの時の私には、まだ知らされていない悲しい事実があった。



 私にとってはとても大事なその事実を知らされたのは手術が終わった後。



「不妊症です」


 お医者さんは平然とした表情で、私にそう宣った。



 診察室の椅子に座る私の隣には母がいて、ギュッと私の手を握ってる。



 その手の温もりや感触はしっかりと分かるのに、私はお医者さんの言ってることが理解出来ず、



「生理不順はホルモンのバランスがおかしいからです」


 え?――と、困惑した私に、お医者さんはそう告げる。



「不妊症は妊娠出来ないという訳ではありません。妊娠出来る可能性が人よりも低いということです。そしてたとえ妊娠したとしても、今回のようにきちんと受胎出来ず流産してしまうことが多いんです」


 淡々と、とても事務的に思えるお医者さんの言葉に、母の手を握っている手に力が入る。



「樹里さんはホルモンのバランスが人よりも悪くて、生理不順になっています。卵子を作る力が人よりも弱いんです。たとえ卵を作れても無卵子。つまり、受精する機能のない卵が出来るんです」


 はぁはぁと息切れしているような自分の呼吸音がやけに聞こえる。



「不妊症の治療はありますが、樹里さんはまだ若い。不妊症の治療はもっと大人になってからでいいと思います」


 もう聞きたくないと思っているのに続けられるお医者さんの言葉に、頭の中が真っ白になっていく。



――不妊症。妊娠しても流産しやすい体。今回の流産も私の――…。



 グルグルと頭を巡る言葉たちが、私を追い詰める。酷い頭痛と吐き気に襲われ、座っていることも出来ない。



 ずっと生理不順なことで、自分が女として機能していない気がしてた。



 だけどそれは自分が思っているだけで、本当はそうじゃないと心のどこかで否定し続けてもいた。



 でもそれが本当にそうだと告げられた気がした。



 お医者さんの言葉でそれを認めろと言われてる気がした。



 どうしようもない現実から、逃れるように診察室を飛び出した私は、待合室で待っていたコータ先輩に泣き付いた。





 ……ねぇ、直人?



 私は何の為に女として生まれたのでしょうか。



 女で生まれる意味があったのでしょうか。



 もしも男で生まれてきていたら、あなたの友達としてあなたと一緒の日々を過ごせていたでしょうか。



 でもきっと、男で生まれてきていたら女でありたいと。



 あなたと一緒に人生を送る女でありたいと、私は思っていたでしょう。

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