慟哭①


 手術の後、母は「二度とこんなことはないように」とコータ先輩に言っただけで私をそのままコータ先輩のマンションに戻してくれた。



 その時コータ先輩が自分の携帯番号を母に教えていた気がするけど、よくは覚えていない。



 とにかく私は酷く落ち込んでいて、マンションに戻ってからも殆ど口をきかなかった。



 コータ先輩もすごく落ち込んでいて、そんなに子供のことを楽しみにしてくれてたんだと思うと更に胸が痛んだけど、流産して三日目の夜、



「また子供作ればいい。子供出来ねぇならずっと二人でもいい。お前がいれば俺はそれでいい」


 そう言ってくれたコータ先輩の優しさに少し癒され、それから二人で少しずつ元気を取り戻していった。



 杏子には手術の後に電話した。



「杏子が相当心配してたから電話してやれ」とコータ先輩に言われて電話した私が泣きながら事情を説明すると、杏子はまるで自分のことのように一緒に泣いてくれて、そんな杏子の優しさに感謝し、友達の温かさをまた強く感じた。



 術後一週間は安静にするようにとお医者さんに言われたからずっとベッドの中にいた私は、特に体調を悪くすることもなく経過は順調で、十日ほどが経った頃には体はすっかり元気になって、「久々に外食しよう」とコータ先輩に誘われて二人でファミリーレストランに向かった。





「明日、杏子にマンション来てもらえねぇ?」


 ファミリーレストランでコータ先輩が口にしたのは唐突な質問で、



「何で?」


 食べていたスパゲティーを口からお皿に戻してそう聞き返すと、コータ先輩は「お前、汚ねぇよ」と言いながらナプキンで私の口を拭き、



「実はここ最近ちょっとゴタゴタしてるらしくて、明日出かけなきゃなんねぇんだ」


 そう説明した。



「クラブ?」


「いや、地元の方」


「別に一人でもいいよ」


「いや、お前を一人にするとロクなことねぇ。一人でフラフラ出掛けるから杏子は見張りだ」


「じゃあ帰って杏子に電話してみる」


「まぁ、そんなに遅くはならねぇよ」


 フッと笑ったコータ先輩に「分かった」と言いながら食べかけのスパゲティーのお皿をコータ先輩に渡すと、



「てめぇ、さっき吐き出したの食ってから渡せや」


 コータ先輩はそう笑って、自分が食べていたビーフシチューと交換してくれた。



 マンションに戻ってから杏子に電話で事情を説明すると、「行く行く」と快諾してくれて、久しぶりに杏子と会える嬉しさでニヤニヤしている私を「気持ち悪ぃ」と笑ったコータ先輩は、次の日の昼間に杏子がマンションに来ると、「後頼むな」と杏子に言ってすぐに出掛けていった。





「コータ先輩って本当過保護だよね」


 コータ先輩が出掛けてすぐ、リビングでお菓子を食べ始めた杏子がそう言ってケタケタと楽しそうに笑い、



「うん。日に日に酷くなってる気がする」


「愛されてんじゃん?」


「分かんない」


『愛』という言葉の照れ臭さから言葉を濁した私に、杏子は「……アタシさ?」と少し言いづらそうに口を開いた。



「ずっと黙ってたんだけど……」


「うん?」


「あ、でも別に隠そうと思ってた訳じゃなくてね? どう言ったらいいのか分かんなくて言えなかったんだけど……」


 何故か言い訳みたいなことを言う杏子に「何?」と聞くと、杏子は意を決したように大きく息を吸い、



「……付き合ってる人がいる……」


 そう言って頬を少し赤らめる。



 その言葉に、思いの外驚いた私は、思わず飲んでいたジュースを噴き出してしまい、



「ちょっ、汚っ!」


 杏子は慌てて立ち上がり、タオルを取りに台所に行った。



 その後ろ姿を見つめながら、少し複雑な気分だった。



 私が会わなかった間に、ヨウちんを好きだった杏子にも当然色々とあって、だからこそ新しい恋をしたんだろうけど、その知らない時間があることを少し寂しく思う。



 新しい恋をしていることは凄く嬉しいけど、その恋が芽生えた頃を知らないというのが寂しい。



 だから。



「いつ? 何で? 誰?」


 その空白の時間を埋めるように、私はタオルを持って戻ってきた杏子に矢継ぎ早に質問して、



「あー、色々と話せば長いんだけど……」


 そう言いながら床にこぼれたジュースを拭く杏子は、「ヨウちんがここら辺にいるの知ってるんだ」と小さく笑い、そのことを知っていながらずっと黙っていた私は、後ろめたさから目を伏せる。



 好きで隠してた訳じゃなく、近くに住んでいることや、私がたまにヨウちんに会っていたことを言ったら、ヨウちんに彼女がいることも、その人のために働いていることも言わなけきゃいけないから言えなかった。



 だけどやっぱり隠し事をしていたという後ろめたさは拭いきれなくて、私の口から出た「……うん」という声は小さかった。



「去年の冬くらいかな? ケンに聞いたんだ」


「そう」


「全部聞いた。彼女のこととかも」


「……そっか」


「樹里、知ってるんでしょ? たまに会ってたって聞いたよ」


 そう言って杏子が笑ってくれるから、感じていた後ろめたさが薄らいでいく。



「……うん。何となく……言えなかった」


「いいの、いいの。言えなかった気持ちは分かるし」


 そう言って杏子は本当に気にしてないって感じで笑ってくれるから、罪悪感が和らいでいく。



「……ごめんね」


「いいってば。気にしてないよ」


「……うん」


「まぁ、それでヨウちんのことは吹っ切ったって訳。ずっと想ってても仕方ないしね」


「うん」


「そしたら春くらいに……」


「春に何?」


「告られた。……ケンに」


「え!? じゃあ付き合ってる人ってケンちゃん!?」


 身を乗り出して大きな声を出した私に、杏子は恥ずかしそうに頷き頬を赤らめる。



 私はずっと杏子を想っていたケンちゃんの気持ちを知っていただけに、その喜びは大きくて、



「おめでとう! やった! ケンちゃん!!」


 気付いた時には杏子に抱き付き、そう叫んでた。



 それに対して驚いていた杏子も、「えへへ」と照れ臭そうに笑い、



「ありがと」


 幸せそうに笑った。



 それから杏子とケンちゃんの詳しい慣れ染め話を聞いたりしてるとあっという間に時間は過ぎ、「コータ先輩に晩ご飯作っててあげれば?」という杏子の提案に二人で料理をすることにした時にはもう陽が傾き掛けていて、殆ど見ているだけで何もしなかった私の代わりに杏子が晩ご飯を作り終わって、それをつまみ食いしていると、コータ先輩から電話が掛かってきた。



 私が「もしもし」と言う前に『俺だけど』と言ったコータ先輩は、



『そろそろ帰れそうだから杏子帰ってもらっていいぞ。外暗くなってきたし、あんまり遅くまで引っ張ってんのも可哀想だ』


 そう言って少し疲れたような溜息を吐く。



 だけど、



「分かった」


『俺が帰るまでおとなしく家にいるんだぞ?』


「分かった」


『フラフラ出掛けんじゃねぇぞ?』


「分かった」


『俺が帰ってもしお前が家にいなかったら――…』


「分かったってば」


 コータ先輩のしつこさは健在で、それに呆れて電話を切ると、台所で片付けをしていた杏子が「電話、コータ先輩?」とケタケタ笑いながら問い掛けてきた。



「うん。もう帰ってくるって」


「そかそか。じゃあアタシはそろそろ帰るかな」


 そう言って鞄を手に取り玄関に向かう杏子に、「ごめんね。ありがとね」と言いながらついていくと、



「いいよ、いいよ。遊べて楽しかったし! コータ先輩の過保護ぶりも見れたしね」

「親よりもうるさいよ」


 杏子は靴を履きながら私の言葉にクスクスと笑い、履き終わったのと同時に黙り込んだ。



 訪れた謎の静寂にどうかしたのかと声を掛けようとした時、「樹里さ?」と振り返った杏子の顔は何故か真剣な表情で、



「何?」


「コータ先輩のこと好きなんだよね?」


 聞き返した私に、突然そんな質問をする。



 だけどその質問に、「……え? 何で……?」と聞いた私の体は強張り、



「直人のこともう何とも思ってないよね?」


 その質問にはビクリと小さく震えた。



「何で急にそんなこと言うの?」


 動揺を悟られないように気を付けながらそう聞くと、杏子は少し目を伏せる。



 そして躊躇いがちに口を開いて言葉にしたのは、



「あの終業式の日……樹里が倒れた時さ? 樹里、気ぃ失う前に『直人助けて……』って言ったよ……」


 覚えのない事実。



 確かにあの時、心の中でそう思った記憶はあるけど、それを口に出した覚えはない。



 でももしそれが真実ならと思うと怖くなる。その言動がどれだけの人を傷付けるのかと怖くなる。



――だから。



「……聞き違いだよ」


 そう言った私は、杏子から目を逸らし足元を見つめた。



 そんな私に杏子は「あのね?」と、やっぱり躊躇いがちに言葉を続け、



「これって言っていいのか分かんないけど、あの時樹里を助けたのって直人なんだよ」


「え……?」


 全く記憶にない真実を綴る。



「樹里が倒れた時、アタシすっごいパニックになって何も出来なくてさ? そしたら直人が走ってきて……そのまま樹里のこと抱えて保健室連れてった……」


 語られる真実に俯いたまま顔を上げれず黙っている私に、



「でも樹里、コータ先輩が好きなんだよね? 直人のこと何とも思ってないよね?」


 杏子が焦りを隠さずそう聞いてくるから、私は「……うん。大丈夫」と言葉を吐き出した。だけどそれは口に出来る精一杯の言葉で、



「ならいいんだ。ごめんね、変なこと言っちゃって。じゃあ帰るね! またね!」


 そう笑って玄関のドアを開けて外に出た杏子に、「またね」と笑顔で手を振った私は、バタンとドアが閉まったのと同時に泣いていた。



――この涙は何? どうして私は泣いてるの?



 悲しいような、嬉しいような、それでいて切ないような、理解出来ない感情が心の中に渦巻いてる。



 その渦巻きに飲み込まれそうになった私は、寝室に走っていくと布団に包まり、ただただ溢れ出てくる理由の分からない涙をずっと流していた。



 それからどれくらい時間が経ったのかは分からないけど、そのまま泣き疲れて眠ってしまった私は、帰ってきたコータ先輩に「おい? どうした?」と布団を剥がされ目が覚めて、



「……寝てた……」


「寝すぎだぞ」


 コータ先輩がそう笑って着替え始めたから、泣いてたことはバレてないとホッとした。



「飯作ったんだな。杏子に感謝だな」


 着替えながらそう言ったコータ先輩の、その楽しそうな声に胸が痛む。



 私がまた直人のことで泣いていたのを知らないコータ先輩に対して、込み上げてくる罪悪感が胸をチクチクと痛ませる。



 だから私はそれを誤魔化すように服を脱いだコータ先輩を後ろから抱き締め、



「何だよ? 寂しかったのか?」


 そう笑ったコータ先輩に「……抱いて」と呟いた。



「……何?」


「抱いて」


 困惑の声を出して顔だけで振り返ったコータ先輩を見上げると、「何かあったのか?」とコータ先輩は心配そうに言って体を傾け左腕を私の背中に回す。



 そして、



「あれ以来全然抱いてくれない」


「いや……体の調子が……抱いていいのか分かんなくてな……」


 私の言葉に眉尻を下げ困ったように笑い、



「もう大丈夫だもん」


「そうか。じゃあ飯食ったら……」


「今、抱いてっ!」


 大きな声を出した私に一瞬驚いた顔をして、「分かったよ」と優しく笑うと唇を重ねた。



 重なった唇の隙間からコータ先輩の舌がゆっくりと口の中に入ってくる。



 歯茎の裏まで丁寧に舐め上げられ下半身に力が入らなくなった私の体がコータ先輩の腕に抱えられベッドに倒される。



 上着の裾から入ってくる手が直接肌に触れ、上昇した指先が胸の先端を弄り、反射的に口から洩れた吐息が部屋に広がって――…私はずっとコータ先輩が「樹里」と呼ぶ度に込み上げてくる罪悪感と戦っていた。

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