幸せの時②


 十一月に入ると、三年生が受験や就職で忙しくなった。




「マジで嫌なんだけど!」


「仕方ないじゃん」


 放課後の溜まり場に響き渡るほどの杏子の大きな叫びに、笑いながら髪に毛染めの液を塗ってあげると、液の冷たさから少しだけ肩を竦めた杏子は、「何で面接が金髪じゃダメなのか分かんない」と、不貞腐れたように私を見上げた。



 就職組の杏子は面接のために髪色を黒にしなきゃいけないらしく、美容院に行くのはお金がもったいないからと私に毛染めを手伝うよう頼んできた。



「この髪色じゃどこにも就職出来なくなるよ?」


「やだぁ。まだ学生してたいぃ。遊んでたいぃ」


「なら大学行けばよかったのに」


「頭悪ぃもん。樹里はいいなぁ。後一年高校生じゃん」


 杏子のその言葉に、「んー、どうだろ。後二年とかになりそう」と答えると、杏子は「樹里も頭悪ぃもんね」とケタケタ笑い、



「樹里って将来のこと考えてる?」


 不意にそんな質問を口にする。



 そして私が「……うん」と小さな声で答えると、興味津々の目で見つめてきた。



「最近ちょっと考えてる」


「どんなこと?」


「とりあえず卒業したら児童施設で働きたいなって。どんな資格がいるとかまだ分からないけど、お手伝いでもいいから働きたいと思ってる」


「そっかぁ。ちゃんと考えてんだぁ」


「最近ちょっと思っただけだよ」


 まだ誰にも言ったことのない将来の夢を口に出した照れ臭さから小声で答えて、液を塗り終わった杏子の髪から手を離すと、杏子は髪を鏡で確認しながら、「アタシ何も考えてないよ。やばいよねぇ?」と苦笑いを浮かべる。



 その、何も考えてないという不安を経験しただけに分かる私は、近くにいたケンちゃんに視線を向けた。



「いいじゃん。ケンちゃんにお嫁さんにしてもらいなよ。ねぇ? ケンちゃん?」


 私がそう話を振ると、ケンちゃんは杏子を一瞥して、「あぁ、その内な」と口元を緩める。



 途端に杏子が顔を真っ赤にするから、私はクスクスと笑った。



 将来のことを何も考えてないからって焦る必要はないと思う。



 私たちはまだ若いし、この先何があるか分からない。



 将来なんていうのは、『その時』がくれば見えてくる。



 やりたいことやしたいことは自然と生まれる。



 私がそうであったように、杏子にもそうだと思う。



 そしてきっと他の誰にもそうなんだと思う。



「樹里、そろそろ時間だから送ってく」


「あ、うん」


 腕時計に目をやりながら近付いてきた直人の言葉に返事をして立ち上った私は、杏子に「また明日ね」と手を振って、直人と一緒に溜まり場を出た。



 最近の生活スタイルはこんな感じで、放課後溜まり場に行って門限までの少しの時間を過ごし、児童施設から学校まで電車で通学している私を、直人が駅まで送ってくれる。



 私はその、直人との駅まで歩く時間が好きだった。



 二人で手を繋いで駅まで歩く時間が大好きだった。



 他愛もない話に笑って、他愛もないことで言い合う。



 そういう時間があることに幸せを感じる。



 別れ際の改札口で手を離す時は少し寂しくなるけど、それでも笑顔で手を振ってくれる直人を見るとまた優しい気持ちでいっぱいになれる。



 だからこの日も、「じゃあね」と手を振って改札の中に入ろうとしたのに、「樹里!」と突然直人に呼び止められた。



「何?」と足を止めて振り返った先の直人は、何故か満面の笑みを浮かべていて、



「来週の土曜日、泊まりでどっか行こうぜ」


 唐突にそんな言葉を口にする。



 そして、「私そんなお金持ってないよ?」と言うと、



「俺が持ってる。俺、バイトしてんだよ。樹里送った後」


 そう言って照れくさそうに笑った。



「そうだったの?」


「そうそう。今日もこの後バイト」


「知らなかった」


「内緒にしてたからな」


「泊まりでって、どこ行くの?」


「遊園地とか動物園? 樹里どっか行きたいとこある?」


「じゃあ、動物園行きたい」


「いいよ、動物園な。泊まりって言ってもラブホだぞ?」


「うん」


「決まりだな。施設の先生に言っとけよ」


 そう笑った直人はまだ照れ臭そうで、「気を付けて帰れよ」と手を振ったその顔は少しだけ赤く――…直人と行くこの動物園旅行は、私にとって生涯忘れられない大切な思い出になることになった。





 約束の土曜日、直人は待ち合わせの駅に十分ほど遅れてやって来て、



「悪い。遅くなった」


 息を切らせながら駆け寄ってくると、「いいよ。そんなに待ってないし」と言った私の小さな旅行鞄を受け取り、「おし、行くか」とすぐに切符売り場に向かった。



 動物園までの電車の車内ではずっと手を繋ぎ、「バカップルだと思われるな」と直人は笑っていた。



 生まれて初めて行った動物園は、見える物全てがキラキラと輝いて見えて、直人ははしゃぐ私を、楽しそうに眺めてた。



 初めて見る本物の動物に興奮したり。



 直人がフラミンゴの看板をフラメンコと勘違いしたことに笑ったり。



 ふれあい広場でウサギを追い掛けて遊んだり。



 お昼に私が作ってきたお弁当を直人が美味しそうに食べてくれたり。



 それは私にとってとても楽しい時間で、私を取り囲むもの全てを優しく温かいと感じた。



 だけど楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまい、



「もうすぐ閉園だってさ」


 直人が動物園の中にある小さな水族館の中でそう言った時は、もうそんな時間なのかと驚いほどで、「……そっか」と残念な気持ちを隠さずに声を出すと、直人は「楽しかった?」と、柔らかい笑みを浮かべた。



「うん。楽しかった」


「樹里、はしゃいでたもんな」


「直人ほどじゃないよ」


「俺は樹里に合わせただけ」


「よく言うよ」


 そう言って、眺めていた水槽から直人に目を向けると、クスクス笑ってた直人がスッと笑みを消した顔を近付けてくる。



 それを受け入れるように目を閉じた私は、閉店間際の水族館で、水の中でしているように、直人と深いキスをした。



 手を繋いで動物園を出るとちょうど日暮れで、



「直人、見て?」


「ん?」


「ほら、あれ。綺麗だね」


「だな」


 指差した遠くの空に、真っ赤な夕陽が浮かんでた。



 少しの間そこで見ていた落ちていく夕陽は泣きたくなるほどに綺麗で、その夕陽で出来た私と直人の伸びていく二つの影が、ずっとずっと離れることがないようにと私は願ってた。



 その後に行ったスパゲティー屋さんで、私はさっき見た動物の話を頻りに直人に聞かせ、直人は夢中で話す私の姿を見ながら「俺も見たって」と苦笑してた。



 変な言い方かもしれないけど、まるで夢の中にいるような時間だった。



 その日一日、夢を見てるような感覚の中にいて、現実だと分かっていながらずっとこの夢の中にいたいと思っていた。



 夢のような時間の締め括りは、初めて行くラブホテル。



 パネルで部屋を選んだ直人に連れられるまま廊下を歩き、部屋の中に入った私は、



「すっごい!」


 想像してたよりも広くて可愛い室内に、歓声を上げた。



「何?」


「ベッドがすごく大きい!」


「ラブホも初めて?」


「うん。初めて来た! 凄いね!」


 そう答えながら部屋中を歩き回る私を見つめる直人は、クスクス笑いながらベッドに座ってテレビを点け、



「直人! お風呂も大きい!」


 浴室から直人に駆け寄った私に、「分かったって」と優しく笑う。



 そして、



「施設のお風呂も大きいけど、ここのも大きいね」


 興奮気味にそう言った私の手を握り、「一緒に入る?」と笑みを浮かべて提案した。



「一緒は……恥ずかしいよ」


「エッチしてる時裸見てるじゃん」


「でもお風呂は恥ずかしい」


「いいじゃん。一緒に入ろう」


「……」


「な?」


「……じゃあ、先に入るから、いいよって言ってから入ってきて」


「分かった」


 直人はそう言って手を離すと浴槽にお湯を溜めに浴室に向かい、私はそれからしばらくしてお湯が溜まったお風呂に緊張しながら先に入った。



 手早く体を洗って泡がいっぱいの浴槽に飛び込み、「もういいよ」と部屋にいる直人に声を掛けると、程なくして浴室のドアの向こうから、「入るぞ?」と直人の声がした。



「いいよ」と答えてドアに背を向けた私は、ドアの開閉音と共に浴室に入ってきた直人の気配を感じ、



「何で後ろ向いてんだよ」


 シャワーの音に混じる直人の笑い声にドキドキと心臓を鳴らした。



 すぐにシャワーを止めた直人は、小さな波を立てて浴槽に入ってくる。そしてずっと背中を向けていた私に、



「こっち向いてくれよ」


 笑ってそう言うと、ゆっくりと振り向いた私に、浴槽に腕を乗せたまま「こっちおいで」と微笑んだ。



 恥ずかしさから、背中を向けて直人に近付き、その両足の間に体を滑り込ませた私を、直人は後ろから抱き締め、腕に力を入れる。



 くっ付いてる部分から伝わってくる体温と、お湯の温もりが混じり合って、何ともいえない心地の好さがあった。



「何かいいな、こういうの」


「うん。そうだね」


「こういうの幸せって言うのかな」


「かもしれないね」


 そう言ってクスクスと笑う私を抱き締めている直人の腕に更に力が入り、



「もう二度と抱けないと思ってた……」


 直人は耳元で切なげな声を出す。



 過去を振り返れば今こうして二人でいられることが奇跡のにも思えて、「……うん。私も……」と答えた私を、



「……樹里、出よう。抱きたい」


 直人はそう言って浴室から連れ出した。





 少し遅れて部屋に戻ると、直人はバスタオルを腰に巻いた格好でベッドに座っていて、私が近付くと私の手を取りベッドの上に座らせた。



 ベッドの上で向かい合う形で座った直人は、一瞬顔を俯かせてから正面の私に向き直り、「樹里」と優しい声を出す。



 そして、「うん?」と聞き返した私に、「これ」と後ろから小さな箱を取り出し、差し出した。



「何?」


「開けて」


 言われるままに箱を開けると、中にはゴールドの指輪が入っていて、



「これ……?」


 小さなピンクのハートの石がついているその指輪を見つめる私の声は驚きに掠れていた。



「樹里にあげる」


「何で……?」


「一ヵ月記念。俺らヨリ戻して今日で一ヶ月だよ」


「ごめん、私分かってなくて、何も用意してない」


「いいよ。俺が勝手にしただけ。指輪の裏に日付入れたよ」


 そう言われて指輪を取り出し裏側を見ると、そこには10.23と書かれた横に『It loves.』と書いてあって、「どういう意味?」と私が聞くと直人は私の手から指輪を取り、



「愛してるって意味」


 答えながら私の左手の薬指にその指輪をはめた。



「樹里」


「うん?」


「学校卒業してお互い就職して自立出来たら結婚しよう」


「結婚?」


「ずっと一緒にいよう」


「……」


「俺が守ってやるから」


 たった一言のその言葉に、怖いものは何もないと、怯えることは何もないと、心から思える。



 その救いの言葉を、今まで何度直人に言ってもらっただろう。



 その言葉を何度も言ってもらえる私はなんて幸せなんだろう。



 もう二度と言ってもらえることはないだろうと思っていた誓いの言葉に、「……うん」と答えた私の頬には涙が流れ、



「樹里、泣き虫になったな」


 そう言って私にキスをした直人の優しさに、私は更に涙を流した。





 ……ねぇ、直人。



 あの日のことは今も胸の中で大切にしています。



 あなたに愛された私は本当に本当に幸せ者です。

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