幸せの時①
「明日の土曜、うち泊まり来る?」
唐突に直人がそう口にしたのは、付き合い直した文化祭の翌週末。
中庭で一緒にお弁当を一緒に食べていた時のことだった。
「んー、施設の先生に聞いてみないと分かんない」
「そっか」
「何かあったの?」
「あぁ。親父とお袋が会いたがってる」
「あ、行く」
まだ許可も貰ってないのにすぐにそう返事をしたのは、直人の家を何も言わず飛び出したことがずっと気になってたから。
直人のお父さんとお母さんは私の為に色々としてくれて家に住まわせてくれたのに、その恩を仇で返すような真似をしてしまったことをいつか謝りたいと思ってた。
いっぱい迷惑を掛けたし、出ていった私をきっと心配もしてくれたと思う。
謝って許してもらえるかは分からないけど、とにかく謝らなきゃいけないと思う。
だから何が何でも許可を貰うつもりで「行く」と返事をした私は、
「……でも、別に泊まらなくてもよくない?」
よくよく考えてみればおかしなことに気付き、ジュースのストローを口に咥えながら直人に目を向けた。
「泊まってけばいいじゃねぇかよっ」
「エッチなこと考えてたんだ?」
クスクスと笑いながらの私の言葉に、赤らめた顔を逸らした直人は「別に……」とパンをかじり、
「施設の先生にお願いしてみる」
私のその言葉にそっぽを向いたまま「おぅ」と素っ気ない返事をした割に耳を赤らめる。
そんな直人を見て私は更にクスクスと笑い、
「何笑ってんだよ?」
「可愛いなと思って」
そう答えると、直人は「うぜぇ」と笑ってゴロンと芝生の上に寝転んだ。
十月の風が頬に当たりとても気持ちのいい日だった。
高い空を見上げぼんやりと流れる雲を見ていると、不意に直人が私の手を握り、「樹里さ?」と呟いた。
寝転ぶ直人に目を向け、「うん?」と声を出すと、
「お化け屋敷で俺の手触った?」
直人は半分笑ったような顔でそう問い掛けてくる。
思いがけなかったその問いに、「……うん」と躊躇いがちに答えると、
「やっぱ樹里だったか。そんな気ぃした」
直人はそう言って座っている私の頭の後ろに手を伸ばし、私の顔を引き寄せた。
そのまま重なった唇は、昼休みが終わるまでずっと離されることはなく、それと同時にあのお化け屋敷で触れたお互いの指がしっかりと絡み合っていた。
翌日、施設の先生に外泊許可を貰って、駅前で買った手土産のケーキを手に直人の家に向かっていると、原付で迎えにきてくれた直人と会った。
家に向かう道中は懐かしい風景ばかりで、近付くにつれ増していく緊張は玄関の前に着くと最高潮になり、
「緊張する……」
私はその緊張から動けなくなった。
そんな私の気持ちが分からないらしい直人は、「何で?」と原付の鍵をポケットに入れながら私の顔を覗き込み、
「だって勝手に出て行って以来だし……怒ってない?」
「あー、ないない。俺はすげぇ怒られたけど。樹里には怒ってねぇよ」
そう言うとさっさと玄関のドアを開けて「ただいま」と家の中に声を掛ける。
その直後、リビングのドアが勢いよく開き、直人のお母さんが飛び出してきて、
「樹里ちゃん!?」
慌てたように声を出して駆け寄ってきたから、焦った私はペコペコと頭を下げた。
「おばさん、あの、私、その、色々と――…」
私の謝罪がそこで止まったのは、目の前で足を止めた直人のお母さんに手を握られたから。
「良かった。元気そうで良かった……」
呟くようにそう言いながらしっかりと握られる手から伝わってくる温もりに、涙が出そうになる。
あんなことをしてしまったのに、「元気そうで良かった」と言ってくれる人がいることに、泣きたいくらいの幸せを感じる。
「おばさん、迷惑掛けてごめんなさい……」
小さな声で言いたかった言葉を紡いだ私に、
「終わったことはもういいの! 元気だったらいいの! とにかく入って、入って」
直人のお母さんは嬉しそうにそう言って握っていた手を離すと、「お父さんが帰ったらご飯にしましょうね」とにっこり笑って、少しだけ目に浮かんだ涙を隠すようにリビングに向かった。
「部屋行こうぜ」
直人にそう促されて久しぶりに入った直人の部屋は、あの頃と変わってなかった。
ただ少し増えたアクセサリーが離れていた時間を思わせ、それをほんの少し寂しく思う。
「いつまで立ってんだよ?」
入口で突っ立っていた私に直人はそう言って自分の隣を指差し、そこに座った私がキョロキョロと部屋を見回すと、「何だよ。何探してんだ?」と笑った。
「変わらないなと思って」
「あぁ……あんま家帰ってなかったし……」
歯切れ悪くそう答えた直人に、私は「そっか」とだけ答えた。
別れてからことはケンちゃんに聞いて知ってるけど、直人は自分から何も言わない。
でもそれはきっと直人の優しさだと思うから、私もそのことについては何も触れないでいる。
それに私も直人と別れてる間にあった出来事を話すつもりはない。
それが私から直人への優しさだと思う。
全てを打ち明けることが大切な時もあるかもしれないけど、そうではない時もあるような気がする。
全てを打ち明けるにしてもまだ早い気がする。
きっと打ち明ける方がいいなら、その時は自然とやってくると思う。
以前の私たちは余りにも急ぎすぎて傷付け、傷付き合ったから、これからはゆっくり進んでいきたい。
「煙草取って」
直人に言われて床に転がっていた煙草を手に取り差し出すと、直人は受け取り火を点ける。
変わっていない、口の端の方で煙草を吸う癖をジッと見つめていると、
「ジロジロ見るなよな」
直人は照れたように笑って、灰皿に煙草を押し当て私に顔を近付けた。
目を閉じて重なった直人の唇の温もりを感じ、ゆっくりと入ってきた直人の舌に自分の舌を絡ませた私の背筋が、絡め取るようなその優しい舌先の動きにゾクゾクとする。
私を抱き締める直人の手が背中を撫で始め、直人は唇を離すと私の体をその場に倒し、再びキスをしながら右手を服の裾から中に入れる。
直人の熱い手が肌に直接触れた途端に私の体はビクンと震え――…
「ご飯よぉ!」
階下から聞こえてきた直人のお母さんの呼び声に、直人は「タイミング悪すぎ」と文句を言い、私はクスクスと笑った。
「ご迷惑ばかりお掛けしてすみませんでした」
リビングに入ってすぐ、食卓にいた直人のお父さんに駆け寄り、頭を下げた私の体は緊張で硬くなっていた。
侮蔑されても仕方ないと思ってはいたけど、そうされたらどうしようとは思っていて、訪れた沈黙に足元を見つめながら更に身を強張らせた。
そんな私に直人のお父さんは、
「元気そうで良かった。君にはうちのバカ息子の所為で悪いことをしたね」
そう言ってその大きな手で私の頭をスッと撫でる。
ハッと顔を上げると直人のお父さんが直人と同じ優しい笑みを浮かべていて、その頬笑みに人の温かさを感じ、また涙が出そうになった。
直人の家族は最初からずっと優しくて、今まで経験したことのない温もりを私に与えてくれる。
だからそんな人たちを裏切ってしまったことをすごく後悔して、二度とそんなことはしないでおこうと思う。
たとえこの先何かがあって、どうしても直人と別れなきゃいけないことになったとしても、ちゃんと筋道は通したいと思う。
「バカ息子って何だよ……」
ブツブツと拗ねたように文句を言いながら椅子に座った直人の隣に、クスクス笑って私が座ると、すぐに直人のお母さんも椅子に腰掛ける。
久しぶりに四人で食卓を囲み、直人のお母さんの美味しい手料理を食べながら、私は施設の話をした。
思っていたよりいい所だと報告すると、「それはよかったわね」と直人のお母さんは自分のことのように喜んでくれた。
直人はお父さんと一緒にビールを飲んでいて、二人の顔がどんどん赤くなるのを見て、私と直人のお母さんは笑ってた。
それはまるで日常の延長のような時間で、いなかった時があったことを思わせない時間だった。
そしてこれこそが――当たり前のように私を受け入れてくれることこそが――直人の家族の温かさだと私は思った。
楽しい夕食の時間が終わって部屋に戻ると、直人はすぐにベッドに寝転び、
「飲み過ぎたぁ」
真っ赤な顔をして大きく息を吐く。
それを見て、「おじさんも酔っ払ってたね」とクスクス笑うと、直人はジッと私を見つめ、「樹里、よく笑うようになったな」と口元に笑みを作った。
「そう?」
「うん。昔はあんま笑わなかった。ってか無表情だった」
「あんまり気にしたことなかった」
そう言った私の頭を撫でた直人はフッと笑い、「おいで」と私の手を引いてベッドに誘う。
その手に引かれるままベッドに上がって直人の隣に寝転ぶと、直人は私をギュッと抱き締めてから、服の裾から手を入れた。
私の唇に触れた直人の唇がゆっくりと首筋に移動する。
直人の手が直接触れる背中が熱を帯び、ブラのホックを外された時には、ドキンッと胸が大きく脈打った。
全身に走る緊張は、初めて抱かれたあの日のような緊張で、
「樹里どした?」
自分でも分かるくらいに体を強張らせた私に直人は少し困惑した声を出す。
だけど、「分かんないけど、すごい緊張する」と私が言うと、「俺も」と少し頬を赤らめた。
鼻先をくっ付けてクスクス笑って唇を重ね合わせ、少しずつ緊張を解いていく。
口から洩れる吐息が僅かな熱を含み始めると、直人は優しく私の服を脱がせ、
「これ、何?」
露わになった胸元のハートのタトゥーを指差した。
「タトゥー。夏休みの最後の日に入れた」
「マジか。痛かった?」
「うん」
「何でハート二個?」
その問いに「内緒」と笑って答えると、直人はタトゥーにキスをして、
「樹里」
「うん?」
「愛してる」
「うん」
「マジで愛してる」
囁くようにそう言って、深く長いキスをした。
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