温もり②
「直人……ごめん……怒らないで……」
「怒ってねぇよっ」
震える右手を直人の方へ差し出し、そっと頬に触れると、その頬には涙がこぼれていて、
「お前……こんな小さい体で、何背負ってんだよ……」
直人は私の右手を握り、涙声で小さく呟く。――そして、
「……ごめん……ッ」
そうとしか言えない私の頬にも涙が静かに伝った。
「抱き締めたいけど、痛いだろうから……」
そう言った直人は、腫れ上がった私の右頬にそっと手を置いて涙を拭い、おでこに優しくキスをする。
ゆっくりと離れていく直人の瞳は、真っ赤に色付いていた。
「直人が……運んでくれたの?」
「うん。ツレに頼んで車出してもらった」
「ありがとう」
「病院……行くか?」
「うん。起きるの手伝ってくれる?」
ちょっと動かしただけで激痛が走る私の体を、直人はなるべく動かないように起こしてくれた。
階段を下りるだけで息が切れる私の隣で、体を支え続けてくれていた直人は、外に出るとすぐにタクシーを拾って戻ってきた。
「ついて来なくてもいいよ」
タクシーに乗り込みそう言った私を「黙ってろ」と一喝して、直人は一緒に乗り込んでくる。
走り出したタクシーの窓の外。夜がすっかり明けていた。
病院に着くと、入り口には野村さんが車椅子と一緒に待機していてくれて、直人に抱えられるようにしてタクシーを降りた私の方へ、車椅子を押して走ってくる。
そして私がその車椅子に座ると、野村さんはそこで初めて直人に目を向けた。
「えっと、検査とかがあって一日掛かるかもしれないから、一旦帰宅した方がいいかもしれないわよ?」
野村さんの言葉に、直人は「……待ってます」と小さく答えて、握っていた私の手を離す。
無理強いするつもりはないらしい野村さんは、
「じゃあ、何か用があったら、ナースステーションで『野村』を呼んで下さいね」
にっこり笑ってそう言うと、私を病院の中へと連れて行った。
「樹里ちゃんの彼氏凄く格好いいねぇ」
車椅子を押しながら、楽しそうにそう笑った野村さんに、
「……彼氏じゃない」
答えた私の声は余りにも小さすぎて、野村さんには聞こえていないようだった。
検査は結局ほぼ一日かかり、頭のCTスキャンや腕のレントゲン。腹部エコーも撮った。
夕方になり、検査結果を聞きに外来診察室へ行くと、そこにはよく私の担当をしてくれる山本
だからこの病院の中で一番好きなお医者さんだった。
そんな山本医師の目の前まで、野村さんが車椅子を押してくれて、
「えっと、頭に異常はないね。ちょっと切れてるけど、今は出血も止まったし縫う程でも無さそうだよ」
山本医師はすぐにカルテに目をやり、検査結果を教えてくれる。
「左腕も筋が違っちゃってるけど、骨は折れてないね。内臓にも異常はないし……」
この感じなら入院しなくて済むと、「ありがとうございました」と帰ろうとすると、山本医師は、それでもね?――と、言葉を続けた。
「安静にしてなきゃいけない状態には違いはないんだよ。出来れば数日入院した方がいい」
「入院はしません」
きっぱりと言い切った私の言葉に、山本医師は「でも……」と躊躇う。
それでも私は何があっても入院だけは出来なかった。
「入院は出来ません。学校の先生と約束したから。次、私が入院したら、先生が教育委員会や警察に相談してしまう。そしたら、みんなにバレちゃう。絶対嫌なの」
「樹里ちゃん……」
「山本
「樹里ちゃん、僕は思うんだよ。みんなに知られてしまう事は嫌かもしれない。でもこのまま家にいるよりはいいと思う。それに僕や学校の先生にだって報告する義務が――…」
「
私の大きな声に、山本医師は言葉を詰まらせる。それは、私の言葉の意味が分かるからだと思う。こういうのはきっと――他人には分からない。
「お願い。
懇願の目で見つめると、山本医師は大きな溜息を吐き、
「絶対……安静にするんだよ?」
渋々ながらもそう口にした。
「する」
「何かあったら、僕か野村君に連絡するって約束出来るかい?」
「出来る」
「……分かった。じゃあ、今日は帰っていいよ」
「山本
優しく笑った山本医師にペコリと頭を下げると、野村さんが車椅子を押して診察室の外に連れてってくれる。
そしてそのまま受付に向かい――…。
「野村さん、私今お金持ってないから、支払い明日でもいいかな?」
何も持たずに逃げてきたからと説明しようとしたのと同時に、野村さんは「あぁ、それは大丈夫」と笑った。
「昼間に樹里ちゃんのお母さんに電話して来てもらったの。もしかしたら入院になるかもしれなかったから、着替えも持ってきてくれてるわ」
言われて初めて気付くのは、着てる制服が泥だらけだって事。
こんな格好でずっといたのかと恥ずかしく思った私の視界に、受付の前のソファに座る直人の姿が入った。
直人はすぐにこっちに気付き、野村さんに頭を下げる。
野村さんは私を直人の前まで連れて行くと、
「お待たせしました。怪我の方は大した事なかったけど、安静にしてなきゃダメだそうよ。打撲してるから熱が出るかもしれないわ。何かあったらわたしに電話して下さいね」
笑顔で直人にそう告げた。
はい――と、返事をした直人は、私の腕を掴んでゆっくり車椅子から立ち上がらせる。
そして体を支えると、「行くぞ」とさっさと歩きだし、
「ちょ、ちょっと待って! 親が来てるはずなの!」
私は慌てて直人を止めて、辺りを見渡した。
でも見える範囲に母の姿はない。
トイレにでも行ったのかと、更に遠くを探そうとすると「帰ったよ」と、直人は当然のように口にした。
「帰ってもらった。お前、とりあえず怪我治るまで俺の家にいろ」
驚く私に直人はそう言い切り、再びゆっくり歩き出す。そんな直人の手には紙袋が――いつも私の部屋にある紙袋が――二つ持たれていた。
帰りのタクシーの中は静かだった。
直人は何も言わないし、何も聞いてこない。
だから私も何も言わず、ずっと窓の外を眺めていた。
終始無言のまま直人の家に着き、支えられながら階段を上がって部屋に行くと、直人は紙袋からピンクのパジャマを取り出し「着替えろ」とだけ言って部屋を出て行く。
そんな態度をされるから、妙な不安が押し寄せてきて、
――直人に言われて着いてきたけど、本当にここにいていいの? 直人の彼女にバレたら大変な事になるんじゃないの?
パジャマに着替えながら、どうすべきか考えていた。
着替え終わった頃、見計らったように部屋に戻ってきた直人は、私をベッドに寝かせると、持ってきた濡れタオルで、血で固まった私の髪を拭いてくれた。
その間も直人はずっと無言まま。表情も硬い。明らかに機嫌が悪そうなその態度に、
「……直人、迷惑かけてごめんね。怒ってる……よね」
直人を見つめ謝ると、直人は「怒ってねぇよ」と髪を拭いていた手を止めた。
そして直人はまた寂しそうな瞳で私を見つめる。
「……樹里?」
「うん?」
「俺と付き合ってよ」
「・……え?」
「樹里、好きな奴いるのか?」
「いない……けど……」
「俺の事嫌いか?」
「直人……彼女いるじゃん」
「別れたよ」
「別れた……?」
「うん」
「嘘……」
「本当」
「いつ……?」
「夏休み」
驚く私とは対照的に、直人の声は落ち着いていて、
「何で……?」
「好きな女出来たから」
その瞳は真っ直ぐに、私を見つめていた。
左手で手を握り、右手で顔にかかってる髪を優しく撫で払ってくれる。
そしてその優しい声で、
「樹里、俺が守ってやるから。だから俺の彼女になってよ。――好きなんだ、樹里」
告白をされる。
その告白に思わず涙が溢れ出し、頬にポロポロと涙が流れていった。
「樹里? どした? どっか痛いか?」
「ずっと……」
「ん?」
「ずっと直人が好きだったの……」
そう言って、直人の手を強く握り返した私に、
「やべ……俺、泣きそうかも」
直人は顔を真っ赤にして嬉しそうに笑い、チュッとキスをした。
――それが、先が短いながらも、欲しかった直人の温もりを、やっと手に入れた瞬間だった。
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