温もり①


 ゴキッ――と、鈍い音がした。



 咄嗟に頭をかばった左腕に一升瓶が直撃した衝撃で、体が右へと倒れ込み、近くにあった下駄箱の角に頭を強打した。



 目の前がチカチカとして、一瞬意識が飛び、その場に倒れ込んだ私のお腹を父親の蹴り上げる。



 うっ――と、呻き声が出た次の瞬間には、酸素を吸い込めずに息苦しさを感じる。



 だけど必死の私は、玄関口に倒れたまま体をくの字に曲げ、両腕で、蹴り続けられる父親の足から、頭を庇った。



 歯を食いしばり、全身に力を入れる。上から落ちてくる父親の蹴りは止まらない。



 何度も何度も踏み付けるように蹴り続けられ、咳き込む度に口の中に血の味が広がる。



 逃げなきゃ死ぬ――と思った矢先、私のお腹を強く蹴り上げた父親がその拍子に体制を崩して、床に尻餅をついた。



 今しかない――と、気力を振り絞り、父親が立ち上がるよりも先に体を起こしてドアノブに手を掛ける。



 そのままの勢いで外に飛び出した私の背中を、



「待て!! 樹里!!」


 追い掛けてくる父親の怒鳴り声が、公団に響いた。



 フラフラの足取りで――それでも私は必死に走った。



 頭の右側から生温いものが流れてくるのを感じる。その上目が回る。左腕が動かない。



 全身が――痛い。



 階段を転がるように降りて、棟を飛び出し、



――もっと遠くへ……。



 そう思うのに足がもつれて、思うように前に進めない。



 無我夢中で走った私は、公団住宅街の中央にある芝生の上に力尽き倒れ込んだ。



 芝生に顔を埋め、必死に息を整える。だけど変な咳が止まらないから上手く呼吸が出来ない。



「……死ぬ……」


 ズキズキと痛む頭の右側から流れる血。



 その生温さを感じる意識が遠のいていく。



 少しずつ頭が重くなる。



 さっきまで感じていた痛みを感じなくなってくる。



 深い闇に引きずり込まれる。



――このまま死ぬのかな……。もう一度、直人に会いたい……。



 直人を思いながら静かに目を閉じた――時、



「樹里っ!!」


 誰かに名前を呼ばれ、閉じた目をハッと開いた。



 ぼんやりとした視界に人影が入る。



 誰かが暗闇の中、こっちに向かって走ってくる。



――父親か。もう死んでもいいや……。



 そう思いながら、ぼやけた視界でその人影を見つめていた。



 近付いてくる人影。芝生の上にある外灯でその姿が露わになる。私の目に、金髪のツンツン頭が――…。



――直人!!



 その名を呼ぶ気力はもうないけど、はっきりとその姿を目にした私に、



「樹理!!」


 直人は駆け寄り、その場に跪くと、私の体を抱き上げる。



 途端に全身を駆け巡った痛みに、思わず「ぎゃああああ」と悲鳴を上げると、「大丈夫か!?」と、直人は抱き上げた手の力を緩め、私の頭から流れ出る血を、片方の手で押さえた。



「待ってろ? 今、救急車呼んでやるからな?」


「ダメ……救急車はダメ……。お願い……やめて……」


 耳元で直人が囁いた言葉に、拒否の言葉をこの言葉を最後まで言えたか分からない。



 ブツリと突然目の前が真っ暗になり、私はそのまま直人の腕の中で気を失った。





 何がそんなに気に入らないんだろう。



 何がそんなに苛立つんだろう。



 私には理解しがたい事だ。



 父親はお酒を飲む度に私を殴る。



 何がどう気に入らず、苛立っているのか分からないけど、私を殴る。



 小学校の頃から始まったその行為は、私の体が大きくなるにつれ強烈さを増した。始めの頃は、「やめて」「助けて」「ごめんなさい」と泣き叫び続けていたけど、いつしか私は気が付いた。



 泣いても、喚いても、誰も助けてはくれない事に。



 泣き叫ぶと無駄に体力を消耗してしまうという事に。そして泣き叫ぶという行動が、父親の行為を煽ってしまうという事に……。



――いつからだっただろう。長期休みが嫌いになったのは。父親に会う回数の増える長期休みが憂鬱になったのは。



 学校が好きとか嫌いの問題じゃない。



 ただ単に、学校に行っている時間が安全な時間だった。



――いつからだっただろう。私の部屋の片隅に紙袋が二つ置かれるようになったのは。いつ入院するか分からないから、紙袋にパジャマや服等を詰め込んでおく癖がついたのは。



 父親が暴れ出すと、自分の部屋に逃げ込み、ドアに背をつけ全身でドアを押さえる。



 しっかり足を伸ばせばベッドに足がつき、体がストッパーの代わりになる。



 背中が痛くなる程力いっぱい蹴られるドア。



 その向こうから聞こえてくるのは父親の怒鳴り声。



 視界に入る紙袋を見て、使わなくて済みますように――と、一晩中泣きながら祈った時もあった。



――いつからだっただろう。生きる事がこんなにも辛く苦しい事だと思い始めたのは……。





 意識を取り戻したのは、ボソボソという誰かの話し声が聞こえたから。



 ゆっくりと瞼を開くと、見慣れない天井が見えた。



 ここがどこで、どうしてここにいるのか、頭がはっきりとしない。



 体の向きを変えようと少し体を動かすと、全身に強烈な痛みが走った。



 痛みで一気に頭が冴える。あった出来事が一瞬をして思い出す。



 その直後に、微かに匂ってくるセブンスターの香りに部屋の中を見回すと、ここがどこなのかはっきりとした。



 見覚えのあるカレンダー。見覚えるあるテレビ。懐かしい――直人の部屋。



「……いや、杏子にはまだ黙ってて」


 聞こえた声に目を向けると、直人がこっちに背を向けて、煙草を吸いながら誰かと電話で話してた。



 私が目を覚ました事にまだ気付いてない直人は、「車、ありがと。マジ助かった。うん、分かってる。うん」と、小さな声で電話の相手にそう言って、



「……直人……?」


 掛けた私の声にビクッと体を震わせ、こっちに振り返った。



「悪い、樹里が起きた。また電話する」


 そう言うと携帯を切った直人が、ベッドに横たわっている私の方へ近付いてくる。



 そして枕元で床に座ると、ベッドに膝をつき顔を近付け、私の右手を両手で優しく握った。



「大丈夫か?」


「……うん。平気。迷惑かけてごめん」


「何言ってんだよ、迷惑なんかじゃねぇよ」


 悲しそうな直人の顔を見つめ返すしか出来ない私に、



「樹里、病院行こう? 頭の血止まったけど心配だし、左腕・……多分折れてる……」


 直人は小さく呟いてその目を伏せる。それと同時に私の手を握る直人の両手に力が入った。



「……大丈夫。大丈夫だよ」


「何でこんな……ッ」


 掠れた声を出す直人の手は少し震えてる。



 だけどそれには気付かない振りをして、



「……直人、電話貸してくれる?」


 そう問い掛けると、「あぁ」と直人は、さっきまで使っていた自分の携帯電話を貸してくれた。



 手渡された携帯の時計が示すのは、朝の五時半。



――寝てるかな……。



 そう思いながらもしっかりと頭に記憶されている番号を押し、携帯を耳に当てると、電話の向こうからトゥルルと呼び出し音が聞こえる。



 三回ほど呼び出し音が鳴った後、



『――もしもしぃ?』


 電話の向こうから声が聞こえた。



「もしもし? 野村さん? 私、樹里」


『あら、樹里ちゃん、どうしたの?』


「こんな時間にごめんね。寝てた……?」


『今日夜勤だから寝てないよぉ。これ誰の電話? 樹理ちゃんの番号じゃなかったけど』


「うん。友達の……」


『友達? どうかしたの?』


「うん。あのね……また怪我しちゃって……」


『えぇ!? 大丈夫なの!?』


「腕がちょっと……。でも骨は折れてないと思う。折れた痛さじゃないから。多分、筋おかしくなってるんだと思う」


『樹里ちゃん、今どこにいるの!?』


「……今、友達のとこ」


『すぐ病院いらっしゃい!』


「……あのね? 入院したくないの。事情は後で説明するけど……」


『とにかく、病院いらっしゃい!』


「……うん」


 野村さんのいつもながらの剣幕に、「今から向かう」と告げて電話を切り、



「電話、ありがとう。何も持たないで出て来ちゃったから……」


 申し訳ないと思いながら、直人に携帯を差し出すと、「電話の相手、誰?」と、低い声が返ってきた。



「……お世話になってる看護師さん」


「何で看護師に世話になってんの?」


「よく……怪我するから……」


「何でだよっ!!」


 突然怒鳴り声を上げた直人は、



「お前、家で誰に何されてんだよっ!! 何でそんな怪我してんだよっ!!」


 怒鳴りながら近くにあったゴミ箱を思い切り蹴っ飛ばす。



 その所為で、ひっくり返ったゴミ箱からゴミが飛び出し、ベッドの足元に散らばった。

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