嫉妬①
まぶしさに目を覚ますと、カーテンが開いたままの窓から朝日が射し込んでいた。
昨日、話をしながらそのまま眠ってしまった私は裸のままで、隣で眠るコータ先輩も服を着ないまま私を抱き締めていた。
眠っているコータ先輩を起こさないように、そっと体に絡まっている腕をほどき、ベッドから降りてカーテンを閉めて、お風呂場に向かった。
手早くシャワーを浴び、体にバスタオルだけを巻き付けた格好で、ペットボトルのお茶をラッパ飲みすると、お風呂上りの火照った体にお茶がしみ込んでいった。
「――…樹里?」
はぁっと息を吐いたのと同時にコータ先輩の声が聞こえ、「何?」と寝室に入ると、コータ先輩は顔を枕にうずめて寝ぼけた目で私を見つめ、
「起きたらいねぇから夢だったのかと思った」
寝起きの掠れた声で溜息交じりに呟く。
「ごめん。シャワーしてた」
そう言ってベッドに近付いた私は、持っていたペットボトルに手を伸ばされたから黙ってそれを手渡した。
受け取ったコータ先輩は体を少しだけ起こしてお茶を喉に流し込むと、空になったペットボトルを私に返して、またベッドに横になる。
こっちに背中を向けた所為で表情は見えないけど、もう一度眠ったんだと思い、私はとりあえず下着をつけようと、ベッドの端っこに座り――…
「わっ!」
下着を探していたのに突然後ろからコータ先輩に腰を掴んで押し倒しされ、思わず驚きの声が出た。
「我慢出来ねぇ……」
吐息交じりにそう言って、キスをしながら体に巻きつけていたバスタオルを取ったコータ先輩に、「夜したばっかじゃん」と呆れた声を出すと、「今まで我慢してた分」と、コータ先輩は早速私の首筋に舌を這わせた。
コータ先輩の抱き方は少し違っていた。
そうは言っても直人としか経験がないから、もしかしたらそれは普通なのかもしれないけど、男性経験の少ない私は、その抱き方に少し戸惑ってしまう。
コータ先輩は行為の最中にずっと声を掛けてくる。
「樹里、気持ちいいか?」
「樹里、もっと声出せ」
「樹里、目ぇ開けて俺を見ろ」
「樹里、どこが気持ちいい?」
言われるたびに恥ずかしさと気持ちよさの両方を感じ、何だか妙な気分になる。
ただ、快感の波に飲み込まれ体を震わせた時に「樹里、イッたのか?」と聞かれることに対しては恥ずかしさしか感じなかった。
それ以外にもコータ先輩には必ずすることがあって、終わった後は長い時間私を抱き締める。
筋肉質な腕の中に私を納め、ずっとずっと離さない。
「ねぇ?」
結局朝から何度も翻弄させられ、ぐったりとコータ先輩の胸に顔をうずめながら声を掛けると、「ん? どうした?」とコータ先輩は機嫌のいい声で返事をする。
だけど、
「コータ先輩ってエッチ慣れしてるよね」
「え!? そんなことねぇだろ!?」
何気なく言った一言に明らかに動揺して、少し上体を起こすと慌てたように私の顔を覗き込んだ。
「よく分かんないけど……そんな感じする」
「俺とヤるの嫌か?」
「別にそんなんじゃないけど、経験豊富なんだろうなって思っただけ」
「お前が経験少ないだけじゃねぇ?」
「あー…、……うん。そうかも」
「マジでそんなに少ねぇの?」
そう聞いてくるコータ先輩の声が少し強張ってるような気がして、
「……分かんない。他の人がどれだけしてるかとか知らないもん。もしかしたら普通かもしれない」
何となく雰囲気がおかしいと思って言葉を濁すと、コータ先輩は起こしていた体を倒し私の髪に指を絡ませる。
「五人くらいで普通じゃねぇ?」
「それ、多いでしょ」
笑ってそう答えた瞬間、指を絡ませ頭を撫でていたコータ先輩の手がピタリと止まった。
どうしたのかとコータ先輩を見上げると、その表情はどこか悲しそうで、でも目が合うとすぐに笑ったから、もしかすると見間違いだったのかもしれない。
「もう一回ヤるか?」
気を取り直したようにチュッとキスをして耳元で囁いたコータ先輩は、
「私、もう無理だよ」
力のない声を出した私の返事に、クスクスと笑った。
それから夜になるまでずっとベッドの中で眠ったり話をしたりして、「飯行くか」というコータ先輩の言葉を合図に、交代でシャワーと浴びて繁華街へと繰り出した。
繁華街に着くと、何処からともなくコータ先輩の知り合いが集まってきて、結局みんなでご飯を食べることになり、「ハンバーグが食べたい」という私の意見が尊重されファミリーレストランに行くことになった。
着いたファミリーレストランは家族連れが多くて、見るからにガラの悪い集団はその和やかな雰囲気に合ってなかった。
だから「ハンバーグが食べたい」と言ったことを少し後悔したのに、人数が多い所為で忙しい時間帯なのにもかかわらず、店の奥のテーブル席を三つも占領する羽目になり更に後悔した。
窓際の席に座った私は、隣のコータ先輩がこっちに背を向けて知り合いと話していたから、黙ってメニューを開き、ワクワクとした気持ちを噛み締めた。
私はひそかにファミリーレストランが好きだった。
子供の頃に一度しか連れて行ってもらったことがなかったから、心のどこかでファミリーレストランに行くということに憧れていたのかもしれない。
うちはアルコール依存症の父親の所為で貧乏だった。
父親の給料はほとんど酒代になっていて、子供の私にも分かるくらいに生活に困っていた。
だからファミリーレストランにすら行きたいと言えず、何に対しても我慢の毎日を送っていた。
そんな私を、母が一度だけファミリーレストランに連れていってくれたのは、小学五年生になったばかりの頃のこと。
作文で賞を取ったご褒美にチョコレートパフェを食べさせてくれた。
美味しかったチョコレートパフェの味は今でも覚えてる。
こんなに美味しい物が世の中にはあるのかとあの時は感動した。
その少し後、私への父親の暴力が始まって、私が家族というものに対してあるいい思い出は、あのチョコレートパフェだけになった。
あれは最初で最後のいい思い出。
その後の日々は――地獄。
「おい、どうした?」
昔を思い出していた私は、その呼び掛けでハッと我に返り、
「え? 何?」
隣に目を向けると、コータ先輩が少し心配そうに私を見ていた。
「何ボーッとしてんだ?」
「あぁ……うん。何ハンバーグにしようか悩んでた」
そう言って、メニューに目線を落とすと、
「デミグラスだろ」
コータ先輩は一緒にメニューを覗き込み、デミグラスハンバーグの写真を指差す。
「あぁ、うん。じゃあチーズのにする」
笑って答えた私に、「この野郎」とコータ先輩も笑って、近くにいた店員さんを呼んだ。
すぐに始まった大人数の注文は色んな方向から声が飛び、店員さんは見るからに大変そうで、
「チーズのでいいのか?」
「うん」
確認したコータ先輩は、「分かった」と言って私から忙しそうな店員さんに目を向ける。
だけど周りの声を縫って注文しようとしたその瞬間、「あっ」と呟いた私に服を引っ張られ、言い掛けた言葉を呑み込み「何だ?」と振り返った。
「……チョコレートパフェも食べたい……」
「出たよ、贅沢病」
コータ先輩は、私のお願いに声を出して笑うと、店員さんにデミグラスハンバーグとチーズハンバーグと一緒にチョコレートパフェを頼んでくれた。
それからほどなくして注文した品が次々と運ばれ、テーブルの上はあっという間に食べ物でいっぱいになった。
でもその光景に妙にウキウキしたのは私だけらしく、みんな食べるよりも話をするのに夢中で、コータ先輩も食事に手をつけず私に背を向け隣の人と話していた。
沢山の笑い声が聞こえる中、黙ってハンバーグを食べ始めた私は、三分の一ほどを食べ終わるとすっかり味に飽きて、チョコレートパフェに手を伸ばした。
細く長いスプーンで生クリームを掬うと、初めてファミリーレストランで食べた時のようにワクワクする。
店内の照明が当たる生クリームは、キラキラとまるで宝石のように輝く。
それを口に入れようとした私は、
「てめぇ、何してんだよ」
その動きを、いつの間にか隣の人との話を終えてこっちを見て笑っているコータ先輩の声に止められた。
「え? 何?」
「ハンバーグ半分も食ってねぇじゃねぇか」
「もうお腹いっぱい」
「嘘吐け」
コータ先輩はそう言うと、自分のデミグラスハンバーグを半分切って私のお皿に入れ、
「お前、味に飽きたんだろ。それ食え」
私の食べ残しのチーズハンバーグを自分のお皿に入れる。
そして、
「……よく分かったね」
「お前の偏食振りには慣れた」
私の言葉に笑って答えると、ようやくハンバーグを食べ始めた。
そんな私たちのやり取りをずっと見ていたのかは分からないけど、
「コータはエロ優しいのぅ」
さっきまでコータ先輩と話していた男の人が突然身を乗り出して口を挟んだ。
途端に周りのみんなも笑い始め、「エロは余計だ」とコータ先輩も少し笑う。
「いやいや、むしろ優しいが余計だろ」
コータ先輩の前に座っていた人が楽しそうにそう言うと、「そうだそうだ」とみんなが頷き、私は特に会話には参加しないで、ハンバーグを食べながらぼんやりその光景を見ていた。
「コータに優しさなんてねぇだろう」
「だな。エロ魔人だな」
「下半身でモノゴト考えるからな」
みんなが口々にコータ先輩のことを言って笑ってもコータ先輩は怒る様子もなく笑って箸を進めていた。
――だけど。
「女なんかヤる道具っつってたもんな。ヤっちゃ捨てヤっちゃ捨て。この界隈コータに泣かされた女が何人いるか――…」
「シン、喋りすぎ」
『シン』と呼ばれた人の言葉に、コータ先輩はハンバーグを食べていた手を止め、低い声を出す。その声に一瞬、空気が凍りつき、
「あ……悪い。この子知らねぇんだ?」
『シン』さんが申し訳無さそうに聞き返した言葉に、「あぁ」と答えたコータ先輩の声は不機嫌そのものだった。
すぐに『シン』さんが「ごめんね」と私に手を合わせたから、私は慌てて首を横に振った。
それから何となく気まずい雰囲気ままみんなでご飯を食べ続け、そんな雰囲気の中で食べた所為かチョコレートパフェは、何の味もしなかった。
ご飯を食べ終わってファミリーレストランを出ると、みんなバラバラにどこかへ行き、必然的にコータ先輩と二人だけになった。
「ゲーセンでも行くか?」
「うん」
誰もいなくなったファミリーレストランの前で問い掛けられた言葉に返事をした私の手を、コータ先輩が握ろうとして――…。
「……何だよ?」
私はその手を払ってしまった。
手を振り払われたことで、不機嫌な声を出したコータ先輩は、
「分かんない」
「は?」
「手、繋ぎたくない」
「そうかよ」
投げやりに言葉を吐き出すと、ポケットに手を入れて歩き出す。
その後ろを追い掛け歩いていた私は、数分もしない内に繁華街の人混みに埋もれ、コータ先輩の姿を見失った。
少しの間辺りを探してみたけど結局見つけられず、人混みに息苦しさを感じてシャッターの閉まった店の前でふぅと息を吐いた時、ポケットに入っていた携帯が鳴った。
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