過去①
クラブの中には、よくこれだけ入ったものだと感心するほど沢山の人がいて、すれ違う人たちみんながコータ先輩に声を掛けてきた。
コータ先輩の周りに集まり始めた人たちに、あっと言う間に埋まってしまった私は、手を押された勢いで辛うじて繋いでいた離しそうになり、コータ先輩にグイッと腕を引っ張られ、体を引き寄せられた。
「ちょっと通してくれ」
コータ先輩は私の肩を抱いて周りの人たちを掻き分け歩き始め、
「息苦しい……」
「え? 何?」
人の多さに酸欠状態になった私の呟きを、大音響の所為で聞き取れ切れなかったのか、私の口元に耳を近付ける。
「……息苦しい……」
もう一度言葉を吐き出すと、今度はコータ先輩が私の耳に唇を近付け、「すぐ終るから、もうちょっと頑張ってくれ」と呟いた。
その言葉にコクンと小さく頷くと、コータ先輩は店の奥へと進んでいく。
店の奥は少し広くなっていて、いくつかソファが並べてあり、そのソファの一つに男の人が三人座っているのが見えた。
コータ先輩がそこに近付き、「今晩和」と声を掛けると、
「おぅ、コータ。夜来るなんて珍しいじゃねぇか」
真ん中に座っていた恰幅のいい男の人が、コータ先輩に笑顔を向ける。
だけどその目は背筋が凍るほどに冷たく、三人共が何とも言えない独特の雰囲気を醸し出していた。
「何だ、女か?」
左側に座っている男の人に指を差され、私が思わず身を震わせると、
「はい。俺の女です。手出しせんようみんなに言ってもらえますか」
コータ先輩は私の肩を抱いたまま平然と答え、その答えに男の人たちはニヤニヤと笑いながら気持ちの悪い目を私に向ける。
そしてすぐにコータ先輩に視線を戻すと、
「あぁ、分かったよ」
恰幅のいい男の人が不気味に笑った。
「ありがとうございます」
「おい、その子中学生じゃないのか?」
頭を下げたコータ先輩に、右側に座っている男の人が質問しながら私を舐め回すように見つめ、「俺の二個下です」というコータ先輩の返事に、
「顔通しに来るくらい、惚れてんのか」
誰よりもゾッとするような気味の悪い笑みを浮かべる。
だけどコータ先輩はそれに慣れているのか、臆することなくフッと口元に笑みを作ると、
「コイツに何かあったら、俺どうなるか分かりませんから」
そう言って、他の人たち同様の笑ってない冷たい目で三人を順番に見据えた。
「まぁ、幸せになれや。お前がなれるんならな」
恰幅のいい男の人の意地の悪い口調に、コータ先輩は何も言わず、もう一度頭を下げ、私の肩を引っ張ってフロアの方へと歩いていく。
そしてすぐに、「出るぞ」と言って、私をクラブから連れ出し、私は外の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、変わらない路地裏の臭さには少しげんなりしたものの、さっきまで感じていた息苦しさが一気に引いていくのを感じてホッと息を吐いた。
「悪かったな」
肩に回していた腕を下ろし、手を握り歩き始めたコータ先輩の言葉に、「うん。大丈夫」と笑って答えると、コータ先輩も笑みを浮かべる。
だけどやっぱりその目は笑ってはいなくて、
「顔通しだけしてりゃ、俺がいねぇ時も安心だしな」
「あの人たちは、コータ先輩の先輩なの?」
「いや。あの人たちは、ここら一帯仕切ってる人たちだ」
「へぇ」
「後々、俺にくれるらしいよ」
その言葉の意味はよく分からなかったけど、見上げたコータ先輩の横顔が、何故か少し寂しそうなものに見えた。
表通りに出ると、そこはいつもの活気に満ちた繁華街で、ようやく妙な緊張感が解れた私に、コータ先輩は自動販売機でジュースを買ってくれた。
「とりあえず、伝達回るまで三日くらい掛かるから、それまでは一人でここ来るんじゃねぇぞ?」
自動販売機の横にしゃがみ込みジュースを飲む私に、隣に立つコータ先輩は、通りに目をやりながら口を開く。
「……うん。でも平気だよ? 今までも何も無かったし」
「今まで、ずっと俺が一緒だったからな」
「あ、そっか……。うん。分かった」
そう答えながら、今しがたクラブであった事を思い出し、「コータ先輩ってさ?」と声を掛けると、コータ先輩は人混みを見つめたまま「ん?」と返事をする。
「私の二個上だったんだね」
「今頃知ったのかよ。お前、ことごとく俺に興味ねぇんだな」
私の言葉に、コータ先輩は視線を向けてフッと笑うと、私の頭をクシャクシャと優しく撫でた。
周りの環境が劇的に変わったのは、それから二、三日してからのことだった。
何故か繁華街を歩いていると、すれ違う人たちがコータ先輩だけじゃなく、私にまで頭を下げるようになった。
最初の頃、知らない人に頭を下げられて、慌てて頭を下げ返してから「あの人、誰だったっけ? 忘れちゃった」とコータ先輩に聞くと、コータ先輩は「いちいち下げ返してたら首おかしくなるから、無視してろよ」と笑った。
コータ先輩が用事でどこかに行って一人でいる時も、少し離れた所に目つきの悪い男の子が数人いて何故か私をジロジロ見ていたから、戻ったコータ先輩に「変な人がいる」と言うと、コータ先輩は「お前の護衛だよ」とまた笑った。
前よりもコータ先輩の知り合いと会う回数も増えた。
でも私は正直、その人たちといると、自分がどんどんそっちの世界に行ってしまいそうで怖かった。
平気で人を殴ったり、平気で人を裏切ったり、平気で人を騙したり。自分はそうなってはいけないと強く思っていた。
「シャワー浴びてから出るわ」
いつものように明け方まで遊び、私をマンションまで送ると、コータ先輩はすぐにお風呂場に向かい、私はベッドに横になった。
そのままウトウトしていた私は、
「おい、そのまま寝たら風邪引くぞ」
部屋に戻ってきた上半身裸にジーパン姿のコータ先輩に起こされ、眠い目を擦り、「んー…」と唸ると、「寝るなら着替えろ」とコータ先輩にスウェットの上下を渡された。
黙ってそれ受け取り、着替えるためにセーターを脱ぎ始めると、
「お前、恥じらいって言葉を覚えろ」
コータ先輩は慌てて私に背中を向ける。
だけど私はその言葉を無視して着替え終わりベッドに潜り込んだ。
「おやすみ」
コータ先輩は私に布団を掛け直し、部屋を出ていく。
その背中に、「コータ先輩さ」と声を掛けると、コータ先輩は行きかけていた足を止めて振り向き、「ん?」と小さく聞き返した。
「いつも、どこ行ってんの?」
「お? 俺に興味あるのか?」
深く被った布団から目までを出す私に、コータ先輩は笑いながら近付き、ベッドの横に腰を下ろす。
「興味って言うか……いつ寝てるのかなと思って」
「昼間、寝てる」
「どこで?」
「クラブの二階で」
「……え? 何でクラブ?」
思いもしなかった答えに驚いた私に、コータ先輩は何も答えず寂しそうな笑みを浮かべた。
「……もしかして、私がいるから……?」
「いや、お前は関係ない」
「じゃあ、何で?」
その問いに、コータ先輩は私の頭を優しく撫でただけで、
「今日は寝ろ。この話はまた今度な」
それだけ言って立ち上がり静かに部屋を出ていく。
聞かれたくない話だったんだろうかと思いながら、それでもそれ以上は深く考えることもなく、私は襲ってきた睡魔に身を委ねた。
それからずっと眠り続けた私を目覚めさせたのは、迎えにきたコータ先輩が玄関のドアを開いた音。
「よく寝る奴だなぁ」
すっかり夜になった寝室のベッドで、起き上がったばかりの私を見つけたコータ先輩は小さく笑った。
「寝る子は育つ」
「全然育ってねぇじゃねぇか」
寝癖のついた髪を触りながら言い返す私を指差し、コータ先輩は声を出して笑う。
そんなコータ先輩を無視して、私はさっさとお風呂場に向かった。
「今日行きたいトコあるから、途中ちょっとだけ別行動してもいい?」
シャワーを浴び終わり寝室に戻って、煙草を吸いながら待っていたコータ先輩にそう声を掛けると、コータ先輩は「ん?」と眉を上げ、
「誰かについて行かせるか?」
「ううん。大丈夫」
「分かった」
私の返事にそう答え、煙草を揉み消し、私を繁華街に連れ出した。
繁華街でご飯を食べたりゲームセンターに行ったりしている内に、時刻はすっかり零時になり、繁華街の中央にある大きな時計で時間を確認した私は、「ちょっと行って来る」と前を歩いているコータ先輩を止めた。
呼び掛けに、コータ先輩は振り返り、
「あぁ、分かった。ここらウロウロしてっから、終わったら探せ。誰かに声掛けりゃ俺に連絡来るし」
チラリと腕時計を見る。
私は「分かった」と返事をして、コータ先輩に小さく手を振りその場を離れた。
歩き慣れた表通りから裏通りに入り、細い道を通って一軒のお店の裏口に辿り着き、五分ほどそこにいると「お疲れ様でした」という声と共に、ヨウちんが裏口から顔を出した。
「ヨウちん」
呼び掛けに、「よぅ」と笑ったヨウちんは嬉しそうで、
「久しぶりじゃん、樹里ちゃん」
変わらない笑みを浮かべて近付いてくる。
ヨウちんと会うのはコータ先輩に抱かれてから初めてのこと。
本当は会いたかったけど、コータ先輩に抱かれたことを何となく後ろめたく感じていて、会いに来れなかった私は、
「うん。ちょっと色々忙しくて……」
適当な返事をして目を伏せた。
お店の裏口から離れ、少し広くなっている道端に二人で腰を下ろす。
ヨウちんと会って話す時は決まってその場所で、
「最近どう?」
そう問い掛けるとヨウちんは、「うん」と小さく呟いて寂しい影を顔に落とした。
「何か……良く分からないんだ」
「何かあったの?」
「……女が借金してるって前に言ったじゃん?」
「うん」
「何で借金したのかって聞いたんだよ」
「うん」
ヨウちんは、俯いたまま顔を上げようとしない。
「まぁ……簡単に言うと親の借金だったんだけどさ。元々片親で、その親が逃げちゃって。あいつ、妹いてさ。妹には苦労かけられないって風俗したらしくて」
「……うん」
「あいつ……風俗してから、何度か自殺未遂とかしてて。何かさ? 何つーか……自信なくなった」
「……自信?」
「前さ? 樹里ちゃんがケンの家で家庭の事情を話してくれたでしょ?」
「あぁ……うん」
「あん時は『可哀想だな』とか『大変な思いしてたんだ』とか思ってたんだよ」
「うん」
「でも……実際、自分の身近ってか……これからずっと一緒にいようって思う相手のそういう話になると、重さが違うんだよね」
「うん」
「あいつの過去の話聞いて『俺が聞いて良かったのか?』って考えちゃって。そう思った自分が情けなくて……。あいつの過去ごと支えてやれるのかって思うと自信無くなった……」
「そっか」
「俺、情けねぇよな」
その言葉と共にヨウちんは、眉を下げて悔しそうに笑った。
「あいつがどんな気持ちで昔の話したのかって考えたら、聞いただけで動揺した自分が情けなくて……。最近、あんま会ってないんだよね」
「……それでも」
「うん?」
「それでもヨウちん、逃げずにここにいるじゃん。ずっと働いてるじゃん。それは彼女のためでしょ?」
「あぁ……うん。……そうか。そうだな」
私の言葉にヨウちんは少し納得したように呟き、
「何かちょっと元気出た」
立ち上がってお尻についた砂を手で払い落し、私の腕を掴む。
「そっか。良かった」
ヨウちんに腕を引っ張って立ち上がらせてもらいながらそう笑って答えると、「樹里ちゃんは?」と、ヨウちんが小さな声で問い掛けてきた。
「うん?」
「樹里ちゃんは、幸せ?」
「……よく分かんない」
そう答えた私の言葉は、本心からのものだった。
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