アイスクリーム。

『あぁ、この子すっごい勉強できるからの家庭教師として雇う事にしたの。』


『だからこの子で遊ぶのはもう終わり。』


『そろそろ私も七星の為に勉強を始めないといけない時期だから。私達が勉強している間はそっとしておいてくれる?』


『あ、後。言った通りうちの専属家庭教師なわけだから、必然的にこの子は私のモノになるわけ。』


『だから手を出したら誰であろうと容赦しないから。そこの所よろしくね。』


 母との件を一旦解決として、姫乃ちゃんと共に久しぶりに登校した今日。


 『恋人同士というのは隠す』『専属の家庭教師というていでのり子を側に置く』というのを事前に打ち合わせていた私達。学校で一緒にいる為の偽装工作である。


 その事をいつものように姫乃ちゃんを取り囲んだ取り巻きさん達に、姫乃ちゃんが告げた。


 勿論それを聞いたみんなは口をポカンと開けて、驚いたように私を見つめていたけれど、さすがは権力に取り巻いている人達というべきか。方向転換の速度は段違い。姫乃ちゃんの一声で右にも左にも命令されれば簡単にその方向へ振り向く。


「…静かですね」


「当たり前よ。あぁ見えて私の言いつけは絶対守る奴らだから。ある意味あんたより扱いやすいわ。」


 業間休み、机をくっつけてノートにペンを走らせている私達。そこでポツリと呟いた私の言葉。


 それに返ってくる姫乃ちゃんの言葉に納得する。


 朝、姫乃ちゃんが釘を刺したおかげで、こうして2人で勉強をしている間、私達にちょっかいをかけてくる人は1人もいなかったし、教室内までその範囲を広げても騒ぐ人が1人も見当たらない。クラスの全員で私達の邪魔をしないように注意をしているようだった。


 姫乃ちゃんの言葉一つでこうも統率が取れてしまうのは、やはり恐ろしいまでの発言力である。


「おかげで学校でもこうしてあんたと密着できるから、幸せだわ。」


 姫乃ちゃんはそう言って、周りから見て不自然にならないくらいの寄り方で身体を乗り出してくる。


 その行動のせいで、姫乃ちゃんの身体の柔らかさと、嗅ぎ慣れた匂いが私を襲う。


「…ひめのちゃん」


「ふふ。ダメよ。」


「え?」


 そんな中、急に『ダメよ』と言いながら、胸元で指を使ってバッテンを作った姫乃ちゃん。私はその意味がわからずに、ポカンとする。


 …すると、姫乃ちゃんはクスクスと笑って、口を開いた。


「自覚なし?…今すぐキスしたいー…って、思いっきり顔に描いてあったわよ?」


「っ…」


 そして言われた言葉のせいで、急激に顔に熱が溜まった。


 指摘されてから改めて思い返すと、確かに私はすぐにでも姫乃ちゃんとそういことをしたいと思ってたかもしれない。


 だって、姫乃ちゃんに触れると、その感触や匂いで姫乃ちゃんとの行為を全部思い出してしまうから。


 そして、そんな無意識に思っていた事が人にバレてしまう程分かりやすく顔に出ていたという事実は、私にとってものすごく恥ずかしい事だった。


「可愛い。…けどやっぱり今はダメ。」


 それからまた、顔を真っ赤にしているであろう私を揶揄うようにクスクスと笑って、私のしたい事にバッテンを付ける。


 勿論、私だって場を弁えているつもりだ。ただ、内心のコントロールが効かないというだけで…。


 そうやって心の中で言い訳をしていると、姫乃ちゃんはさりげなく小指を、私のペンを持つ手に当ててきた。


 もうそんな些細な仕草にも、ドキッとさせられてしまう。


「…だから昼休みになったら、誰もいない所でたくさんしよ?」


 しかし、続く言葉には、その比じゃないほどに心臓を大きく揺さぶられた。


 そして、私を見つめる姫乃ちゃんの目が、狐のように細くなっていることに気がつく。少し視線をずらせば、潤ったプルプルの唇から赤い舌が見えた。


 その妖艶な笑みと、私を誘う仕草に、揶揄われているんだと分かっていても釘付けにされてしまう。


「は、はい…っ」


 そんな魅惑的な姫乃ちゃんに私は、ゴクリと喉を鳴らして、なんとか声を絞り出す事しかできなかった。


 ここまで早く昼休みが来て欲しいと思ったのは、人生で初めての経験だった。



「のり子。自習しに行くわよ。」

 

「あ、はい。」


 お昼休みを告げるチャイムが鳴ったと同時に、隣の席の姫乃ちゃんに声をかけられる。


 ちなみにだが、姫乃ちゃんの権限により私達は窓際の一番後ろの席に席替えをしている。


 現在のクラスの席順を簡単に表すと、6×5の四角形の端に+2をするように私達だけ飛び出しているような形。おかげで授業中も周りにバレないように身体のどこかを触れ合わせることができた。なんとも都合のいい席順である。


「ほら急いで。1秒でも時間を無駄にしたくないの。」


 姫乃ちゃんは、のろまな私を即すように、私のスクールバッグに勉強道具を詰めてくれる。


 勿論、これはカモフラージュだ。


 お昼休みは2人で勉強するという事で取り巻きさん達に説明してあるから、そのアリバイ作りに勉強道具を入れたスクールバックを持っていく。


 しかし、この後2人きりですることは勉強とはかけ離れた情事である。そして、姫乃ちゃんがこんなにも急かしてくるのは恐らく我慢していた欲求が限界に近いからなんだと思う。


 なんだかこうやってコソコソと裏工作をしていると、一緒に悪い事をしているみたいでドキドキしてしまう。


 私は相手が姫乃ちゃんならば、何の躊躇いもなく共犯になれる。


「さ、行くわよ」


 そんな事を考えていると、姫乃ちゃんはいつのまにか私の支度を終わらせてくれていた。


 私は急いでそのバッグを持って立ち上がる。1秒も無駄にしたくないという思いは、私も同じだから。


 スタスタと早足に私の前を歩く姫乃ちゃんの背を追う。


 そのまま教室を出て廊下に出ると、他クラスの生徒から奇妙な物でも見るような目で見られた。


 当然だと思う。全校生徒が私達の事情を知っているわけではないから。


 むしろ殆どの人は、私みたいな底辺の人間が姫乃ちゃんと2人で居る事に対して違和感を感じているはずだ。


 …だけど、なんでも、どうでもよかった。


 今はとにかく…とにかく早く姫乃ちゃんと2人きりになりたいという気持ちしかないから。だから、そんな視線は全部無視でいい。


 ─…でも、この校内には簡単に無視できない存在がいることを私は完全に忘れていた。


「四ノ宮さん!!」


 聞こえてきたのは私の名前を呼ぶ低い声。


 人に向かってこんな事を思うのは申し訳ないけれど、本当に不快な声。


「…嘘でしょ。」


 そして、その声のせいで立ち止まった姫乃ちゃんの口から、不快感を100%露わにした声が漏れた。


 恐らく、私と同じ気持ちなんだと思う。


 …ズカズカと私達の方へ歩いてくる声主の男…確か、神谷なんとか君。


 以前、何故か私を助けようとしてくれた人。今でも彼がなんであんな事をしたのかはわからない。彼の頭の中が全然分からない。何を考えているのか本当にわからない。


 そんな印象の人。それ以上でも、以下でもない。


 ただ、ここまで彼を不快に思うのは、私と姫乃ちゃんの邪魔をしているという事実がそこにあるから。


「良かった。無事だったんだね…長いこと休んでたから、七星に何かされたんじゃないかとずっと心配してたんだ。」


 …こんな風に、根拠なく姫乃ちゃんを悪者にする所も嫌いだ。


 私なんかが人様を好き嫌いで分別するなんて、おこがましいにも程があるのは分かっている。


 けれど、今は私という人間を形成する殆どが姫乃ちゃんを基準にしてできているから、当然彼のような人間を否定する感情が出てくる。これに関しては、怒りにも似た感情だ。


「神谷…邪魔だからそこをどいて。」


 低い声で、どこか威嚇するように言葉を発する姫乃ちゃん。


 しかし、その威嚇をもろともせず、私達の前で壁のように佇む男。


「それは無理な相談だ。」


「は?」


「これ以上お前と四ノ宮さんを2人きりにさせるわけにはいかない。」


「何言ってんの?」


「四ノ宮さん。今度こそ君を救ってみせるから。」


 男から私を守るように全ての返事を姫乃ちゃんがしてくれていたけれど、残念ながらそこで話は終わらなかった。


 男が姫乃ちゃんを無視して、私の方に視線を向け、前と同じように訳のわからない事を言ってきたのだ。


 それと同時に、男が足を動かして更に前進してくるのが見えた。


 背筋に悪寒が走る。純粋に恐怖に私の身体は震えた。


「ちょっと!近寄ってこないでよ!」


 姫乃ちゃんは男の前進を遮ろうと、怯える私を庇うように手を広げた。


 しかし、その瞬間だった…


「うるさいっ!お前こそ邪魔するな七星!」


「きゃっ…!」


 男は怒鳴ると同時に、なんと姫乃ちゃんを突き飛ばしたのだ。


 まさか手を出してくるとは思わなかったのであろう姫乃ちゃんは、不意を突かれた形になり、抵抗できずにどさっと尻餅をついてしまった。


 私はその光景に、大きく目を見開いた。


 それから、私の方に歩み寄ってくる男が視界に入る。


 怖い…けど、それ以上にこの男が憎かった。


「もう大丈夫だよ。一緒に逃げよう四ノ宮さん。」


 文字通り手を伸ばして届く距離に男が来ると、腕が伸びてくる。


 情けない事に身体はまだ震えて動いてくれないけれど、唇は動いた。動いてくれた。


 私は姫乃ちゃんと出会って、恋人同士になって、変わったんだ。


「………ぃで」


「ん?なに?よく聞こえな…」


「…触らないで…っ!!!!」


 多分、ここまで大きい声は人生で初めて出した。それくらい全力で出した私の大きな声が、抵抗が、廊下に響く。


 もう何も出来なかった私じゃ無い。大好きな人のために、声を上げられる自分になったんだ。


 私の愛する人が愛してくれる私を、私自身で守る為に。


 そして、その叫びにも似た大声の効果だろう。男は私に触れる寸前まで近寄っていた手を止め、呆気に取られたような表情をしていた。


 廊下にいた生徒達も同様に一切の動きを止め、視線は私に注がれた。


 私以外の時間が止まったかのように、場が静寂に包まれる。


 どうにか、一時的に男を止めることはできた。


 しかし、この後のことは、何も考えていなかった。ただ、姫乃ちゃんを傷つけたこの人に触れられたくない…その一心で叫んだだけだから。


「はは。びっくりした。…でも大丈夫だよ。突然の事で混乱してるんだよね。」


 男が再び動き出すのにそう時間はかからなかった。


 以前として動かない身体。私の抵抗は、最早ここまでだった。


 目の前に来た大きな手、私はこれからきたる不快感に備えるように目をぎゅっと瞑った。


 ─…姫乃ちゃんっ


 そして心の中で、祈るように彼女の名前を叫んだ。


「…ぐぇっ!?!?」


 しかし、私に男の手が触れるその前に聞こえてきたのはとても苦しそうなうめき声。


 ぎゅっと閉じていた瞼を、恐る恐る開けてみる。


 すると視界に映ったのは、私の愛する人が素人目に見ても綺麗なフォームと力強い踏み込みで、拳を男の鳩尾にめり込ませている場面だった。


 男はとても苦しそうにお腹を抑えて、猫背の体制で姫乃ちゃんから後退りをして逃れようとする。


 しかし、姫乃ちゃんはそれを許さなかった。


「…な、ななせっ…おま…ぐぁっ!?!?おぇっ!?!?」


 姫乃ちゃんは拳を握ると、とてつもないスピードでその拳を顔面2発、それを受けて男が顔を守ろうと腕を上げた瞬間にそれを見計らって身体に4発、全弾完璧にめり込ませた。


 そんな姫乃ちゃんの神業のような猛撃に体勢を維持できなくなって、男の体が揺らいだ瞬間。これまた綺麗なフォーム、目で追えない速さの回し蹴りを顔面にクリーンヒットさせて男を吹き飛ばした。


 スカートをひらっと浮かせて、長い金髪を振って、振り上げた片足を地面に着地させる姫乃ちゃん。…勝負ありだった。


 どうやらその一撃で男は完全に気を失ったらしい。姫乃ちゃんが見下ろす先に、男は鼻血を吹き出しながら白目を剥いて仰向けで倒れていた。


 でも、姫乃ちゃんがその勝利の余韻に浸る事はなかった。


「のり子…っ!」


 すぐさま私の方へ振り向いた姫乃ちゃんは、その振り向いた力を利用して一直線に私に駆け寄った。


 そして、そのまま私を力強く抱きしめた。


 その瞬間、私をとてつもない安心感が襲う。同時に、ダムが決壊したように目から涙が溢れ出た。


「…ひめ…の"ち"ゃ…」


「こんなに震えて…怖かったわね。…でももう大丈夫。よく頑張ったわ。」


 震えて声も碌に出せない私を、姫乃ちゃんは強く強くぎゅうっと抱きしめる。


 …大丈夫、もう大丈夫よと、何度も安心させるように、私の背中を叩きながら囁いてくれる。


 それでも、私は自分で思っているよりも恐怖を感じていたらしい。暫く涙と震えは止まりそうになかった。


「…ねぇ、そこのあんた。」


「え?」


「呼んでるんだけど?」


「あ、えと…は、はいっ!」


 そんな中、姫乃ちゃんは私をぎゅっと抱き抱えながら、廊下にいた大柄の男の人を指さして呼んだ。


「この汚物男、どうにかしておいて。」


 そして、命令するように言い放ったその言葉。どうやら処理班として彼を任命したらしい。


「え!?!?ど、どうにかって…」


「ここにこんな汚い物が寝そべってたら邪魔でしょう?どっかに置いといて。」


「ぇ、ええ…!?」


「…なに?文句あんの?」


「い、いえっ!ありません!!やります!!」


 それから、姫乃ちゃんは終始冷たい声音で『七星』の名を使って脅すように追い詰め、男の口から強制的にYESを引き出した。


 久しぶりにみた"権力者七星"としての姫乃ちゃんは、やはり迫力があった。


 結果男は焦ったようにテキパキ動き出し、倒れていた男を背負って、近くの教室に消えていった。


 どうやらこれで、一件落着らしい。


 ただ、やはり私の震えはなかなか治らず。


 結局私達はすぐに早退する事となったのだけど、マリアさんが居ないから帰りは徒歩。


 姫乃ちゃんは私を横から抱えながら、足元のおぼつかない私に合わせた牛歩でなんとか家に辿り着くことができた。

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