聖餅を持った堕天使処理者に関する注意書き(私の後に堕天する者はこれを読むべし)

広河長綺

第1話

天使が降った日、朝起きてすぐに、おばあちゃんはパンを片手に家を出た。パンと言ってもただのパンではない。

聖餅ホスチアと呼ばれるキリスト教徒が儀式で使う崇高なパンだ。


外で何らかの儀式をするつもりなのだろう。昔は身に着けることがなかった、十字架をあしらったネックレスを何個も首から下げていて、私は思わず目を背けた。


雰囲気が変わっていたのは、服だけじゃない。中身も、昔とは全く違う。おばあちゃんの目つきには厳かな雰囲気があり、その瞳には、昨夜5年ぶりに帰省してきた孫娘である私は映っていないようだ。


昨夜この家に転がり込んだとき「入院中に医者と喧嘩して、病院を抜け出してきた」というとんでもない事情を正直に話したのだが、それに関して問いただすこともない。


5年前に会った時はこんな性格ではなかった。当時から母親ともクラスメートとも上手くコミュニケーションをとれていなかった私が、プチ家出としておばあちゃんの家に転がりこんだ時、頭をなでて、孤独を癒してくれた。


今のおばあちゃんは私を置き去りにするように、ズンズンと林へ歩いて行く。「数か月前に怪我したのよね」とぼやき、右足を引きずりながら、それでも雪の上に線を描くようにして進んでいた。


人里離れたせいで全く除雪がなされていない小道を突き進むと、栄養不足の細い木が色々な角度で無造作に生えて機能不全になった林がある。木の種類の少なさを見て、人の手が入らな過ぎたのだとわかった。林業が衰退したことで、適度な伐採がなくなり、荒れ果てたのだろう。


森を知る人が見れば絶対に立ち入らない(ましてや右足を怪我している状態では立ち入らない)状態の林なのだが、臆することなくおばあちゃんは突き進む。途中、雪がパラパラと降り始めたが、ひるまない。安全性なんてどうでもよくて、大事なのは堕天使だけなのだろう。きっと天使が海底に堕ちたとしても、おばあちゃんは海へとびこんでいくに違いない。


呆れながら「どうやって天使が堕ちた位置がわかるの?」とおばあちゃんの背中に声をかけた。


「これ。聖餅に落ちた雪の結晶を見るの」心ここにあらずといった感じで、歩きながら、手に持った聖餅を掲げた。「雪占いの技術で雪の結晶の形を数字に変換する。その数字が、天使が堕ちた位置の緯度経度になってる」


「魔法に対してなぜって聞いちゃいけないのかもしれないけど、理由はあるの?」


「天使の存在情報という不条理な物は、長時間この世にあってはいけないの。雪の結晶はすぐに消えるでしょう。だから堕天使の位置情報を記すことが許されているんだと思う。それだけじゃ不十分だから、聖餅ごと雪の結晶を食べて情報を徹底的に消去してるよ。こんな風に」

おばあちゃんは聖餅の表面に落ちた雪の結晶を観察して、メモに何かを書き込むと、パクっと聖餅を口に入れて飲み込んだ。肩越しにメモをチラ見すると4つの数字が書かれている。位置は2つの数字で決まる。つまり今日の堕天使は2体いるということだ。


荒れた林の奥深く、横たわる2体の人型の生物。彼らの背中に生えた、神秘的であると同時に傷つけられているであろう羽。


それらを想像するだけで畏怖の感情が湧き上がり、歩みが遅くなる。その結果、健康体であるはずの私の足で、迷いなく突き進むおばあちゃんに追いつけない。



道はさらに頼りないものになり、もはやとっくに道なんて無くて林の中の雪が少ない場所をがむしゃらに歩いているだけじゃないかと疑い始めた頃に、突然、ふと、おばあちゃんの足が止まった。


「どうしたの、おばあちゃん」

「天使」

ほら、という自然な感じで前方を指さす。


おばあちゃんの人差し指の先の雪で白く染まった地面。その一部が隆起しているように見えていたが、よく目を凝らすと、毛のない白色の生き物がうずくまっている。


白人とも違う、血の気のない雪色の肌。

立ったら膝の高さまであるんじゃないかと思うほどの長い腕。

なにより、背中に生えた白鳥のような羽。


「へぇー天使ってこんな見た目なんだ。思ってたのと違うね」と、平静を装ったリアクションをするのに5秒かかった。


そんな私の動揺に気づいているのかいないのか、「天使はね、この世に堕ちたら段々溶けてくんだよ。雪と同じ」と、誰に言うでもなく呟きながらおばあちゃんは天使の方へ近づいて行く。


いつのまに取り出したのだろう。その手にはイヤホンつきのiPodが握られていた。


「讃美歌が逆再生されてるの。これを聞かせれば堕天使の溶解速度があがるわ」

おばあちゃんは、iPodのイヤホンを天使の耳に入れた。


堕天使も明らかに嫌がっているようで顔を背けるような動きを見せたが、おばあちゃんが言っていた堕天使の自然溶解がもう始まっているようで、手足の形が曖昧になっており、イヤホンを耳から外すことすらできない様子だった。


嫌がる堕天使の耳にiPadのイヤホンをさす光景は、強烈な背徳感があり、それが逆に儀式に真実味を感じさせた。

聞かせ続けると、本当に堕天使は消えるのだろうという納得感。その瞬間を見届けたいと言う暗い欲。


今までの人生で感じたことのない異様な精神状態になっていることを自覚して、私は慌てておばあちゃんと堕天使から目を背け、道から外れた林の中へ走り出した。


フカフカの雪に足をとられそうになったが、何とか踏みとどまり、葉っぱが1つもない貧相な見た目の木を迂回する。


始めからわかっていた。雪の林の中をスムーズに進むなんて不可能だ。でも、がむしゃらに走っているわけじゃない。目的地がある。


私は白い息を吐きながらいったん立ち止まり、ポケットからスマホを取り出し、地図アプリを開き、目的地を確認した。


さっき私が盗み見た、おばあちゃんが雪の結晶から読み取った、緯度と経度の組。その2組目だ。

ちゃんと表示されている。


これも全て神父様の計画だった。もっと言えば、始めから全て予定通りだ。病院を抜け出すことも。おばあちゃんの堕天使処理に同行する事も。天使が堕ちた座標を盗み見て地図アプリに入力することも。おばあちゃんから堕天使を横取りすることも。


「ごめん」

そんな独り言が口からこぼれていた。相手に聞こえない謝罪の言葉なんて、自己満足でしかない。我ながら醜悪だと、思う。


同時に、神父様の「堕天使の存在を世界に公表することで、人類に神を信じさせる」という崇高な理念を美しいと思う心も消えていなかった。


おばあちゃんを裏切って利用してでも、神父様の期待には応えたい。


おばあちゃんに対して「だって、堕天使の存在を公表することが人類のためなんだよ」と心の中で言い訳を繰り返しながら歩いていると、無味乾燥無臭無色な雪景色の中で、肉が焦げる匂いが突如として鼻腔に入ってきた。


匂いのする方へ顔を向けると、やはり、天使が落ちていた。ただ先ほどと違うのは、堕ちたて、と言う点だ。


堕天中に体についた火が、まだ、沈火していない。堕ちてから時間が経っていないゆえに、体の組織も全く融解していない。


目をこらさなくても、手足が背中が、わかった。

それどころか、頭の上部にある、血と熱で黒ずんだ丸いドーナツ状の構造が、こっちの天使には見て取れた。

いわゆる天使の輪だ。


その天使の輪の下にある頭部には、人間より大きな口がついている。その口が動き「嘘をついている」というしゃがれた声が発せられた。


天使に声をかけられたという神秘体験よりも、さっきまで散々後悔したことをまた非難されたくないという苛立ちが強かった。


「もう私は、嘘をついたことを反省しました。わざわざ天使に聞くまでもないことを言わないでもらっていいですか?」と言い、神父様からもらった銃を取り出し、死にぞこないの堕天使に向けた。


天使は私を憐れむような眼で見た。「違う。嘘をついているのは、


何かがおかしいと気づいた私が、背後に銃を向けるのと、走ってきて私の背後に到達していたおばあちゃんが回し蹴りをするのが同時だった。私は倒れ、銃はおばあちゃんの足により弾き飛ぶ。


おばあちゃんの足は何不自由なく動いていた。


つまりそれは2つのことを意味する。おばあちゃんは足が動かないと嘘をついていたということ。おばあちゃんは私を疑っていたということ。


「エホバの証人は十字架を否定する。エホバの証人はある種の医療行為を拒否することで医療従事者とトラブルになる。このことを思い出したの」おばあちゃんはため息まじりに説明しながら、私の手から蹴り飛ばした銃を拾った。「あなたが十字架を見た時に目を背けたこと、病院を抜け出してきたこと。どちらの行動も、エホバの証人に入信していると考えれば、説明がつくことに気づいた。だから警戒して、足を怪我しているフリをしたってわけ」

長々と説明して銃を私に向けるおばあちゃんの、諦めと殺意が滲んだ瞳から、地面に転がった私は眼を逸らせずにいた。


私を蹴ったことや私の悪意を正しく見抜いたこと以上に、私の命より天使処理を優先させる現在のおばあちゃんの価値観が、ショックだったからだ。


公表すれば神の存在を証明できるかもしれない堕天使を、なぜそこまでして隠すのか。理解ができない。


胸の中でうずまく疑問をぶつけるように、上半身だけ起こして私はおばあちゃんに尋ねた。「堕天使を一生懸命に隠ぺいする理由は何?嫌悪感?」


「天使の存在は不条理だから。不条理による混乱は、今みたいに私だけが引き受ける。世界に、その混乱を広げさせない」私に銃を向けたままそう答えるおばあちゃんの口調には、あたりまえの事実を述べているような無機質さがあった。


命乞いや交渉の余地は、ないらしい。


「私は、別に、神の存在証明をしたいわけじゃないよ。ただ堕天使のサンプルを手に入れるという手柄をあげたら、教会組織の中に私の居場所ができるってだけ」

本音が、私の口から洩れた。


さすがのおばあちゃんもうろたえて、「死んだら天国に行くって言うのはキリスト教的価値観では間違いだけど、現に、天使の形は聖書の記述と違う。だから死んだら、天国に行く可能性も十分にあると伝えておきます。こんなことしかできないおばあちゃんで、ごめんね」と慰めの言葉を口にしながら、それでも銃口を私に向けた。


「もし死後天国に行ったら、絶対に、堕ちて、教会に拾われてやる」


「また会えたら嬉しいわ」おばあちゃんは笑った。「その時は、絶対に、処理して隠ぺいする。普段の堕天使処理より確実に。だって、天使になった孫娘の姿を独り占めしたいからね」

そう言っておばあちゃんは、引き金をひいた。


こうして私は死に、私の魂は天国へのぼっていったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖餅を持った堕天使処理者に関する注意書き(私の後に堕天する者はこれを読むべし) 広河長綺 @hirokawanagaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ