ムシノシラセ

ラハズ みゝ

第1話 怪異蟲

 その男は、街中をのらりくらりと歩いていた。


「‥‥‥どの辺だっけ」


「あと四百メートルくらい進んだ先の、路地裏にいるよ」


 男の三歩後ろをついていく女が答えた。


 男たちとすれ違う人々は皆、男たちの間近に迫ったところで不気味そうな形相になって、早足で去っていく。腰に小さめの鞘を携え、左前腕に何か金属製の円盤をつけている男も十分に目立つが、人々が目を向けているのは女の方である。


 男は人々の気味悪がる顔を見飽きて、ため息混じりに女に言う。


「そのはね、どうにかならんの?」


「透明だから目立たないと思うけど? そんなにおかしいかな」


 女は地を歩いてはいない。背中からうっすらと伸びる翅の高速な羽ばたきによって、その身体は僅かに浮いていた。


「人間が翅つけて浮いてたらそれは不気味だろう。浮いているだけならまだ不思議で済むんだ。翅をしまってから浮いてくれ」


「翅がないと浮くことなんてできないよ」


「じゃあ普通に地面の上を歩いてくれ」


「僕は人間じゃない・・・・・・んだから、二足歩行なんて上手くできないよ」


 男は再びため息をついて、話すのを止めた。つまるところ、この女の不気味な状態をどうにかすることは不可能だった。


「あっ。そこ左だよ」


 女の指摘に男は間の抜けた声で「はいよ」と答え、くるりと踵を返した。


 男の視界に、暗がりの路地裏が細く真っ直ぐ伸びていく。両手をぎりぎり広げられる程度の道幅だ。壁際には棄てられた家具や生ごみが散乱している。


 臭いに耐えかねた男は左手で鼻をつまみ、渋々その奥へ足を踏み入れていった。


 ジリジリと何か小さな音があちこちで聞こえる。恐らく虫が這いずり回っているのだろう。男は早足になって辺りを見回す。


「――おい、全然それっぽい影が見当たらないんだが」


 男は鼻声で女へ問いかけた。女は静かに首を横に振るだけである。


 しばらく歩いて、男は違和感のために足を止めた。その場で足踏みをしてみる。するとシャクシャクと音が鳴った。


 暗がりで気づかなかった。いつの間にか男たちの足元に雑草が生い茂っていたのだ。


「これ、まさか‥‥‥」


「うん、すごいね。不完全だけど"環境支配テリトリー"が発生してる」


 男が面倒臭そうな面持ちになる一方で、女は感心していた。


「つまり今回の標的ターゲットは――」


 そう言いながら男は腰の鞘から短刀を抜いた。暗がりの中でその刀身は微かに青白い光を放ち、これが現れた瞬間、周辺の雰囲気は一気に変わった。


「いつ見ても惚れ惚れする光だね‥‥‥」


 その短刀を見て女がそんなことを呟いている内に、雑草の中から何かが次々に飛び跳ねてきた。――飛蝗バッタである。男は周囲を見回し、短刀を構えた。


 名を蟹江かにえ周次しゅうじ。職業は、『害虫駆除』。但し、ここでいう"害虫"とは一般に聞くようなそれではなく、"害虫駆除"というのも表向きにそう言い表されているだけである。


 ――原因不明の突然変異を起こした虫、【怪異蟲バグバグ】。この数年間で大量発生しており、人々に甚大な被害をもたらしている。


 それを対処すべく秘密裏に設立された組織『殺蟲隊』。彼らは対怪異蟲バグバグ用に開発された特殊な武器を扱い、怪異蟲バグバグを駆除する。


 そしてこの男、蟹江周次も殺蟲隊の一員としてまさに今――――




「‥‥‥おい。ぼーっと見てないで、助けろ」


 ――――大量の飛蝗に身体中を噛みつかれ、虫の息になっていた。


飛蝗は生息密度が高くなると集団で移動をし、農作物などに害を与える。周次はそのことを知らず、飛蝗の攻撃を対処できなかったのだ。


 女は微笑んでいた。


「君は本当に虫が苦手なんだね。こういう、まだ変異の初期段階にある虫は特に」


「聞いてるのか? 早く俺を助けろ。めちゃくちゃ痛いんだぞ、これ」


「大丈夫だよ。今から助ける」


 女はゆっくりと周次の元へ近づき、そこで両手を広げた。


「色々やり方はあるけど、やっぱりこれが一番手っ取り早いよね」


 ――どこからともなく風が吹いてくる。初めは緩やかに女の周りを巡り、しかしだんだんと勢いを増していく。


 一帯の雑草が風に靡かれる。


 この風に何か異様さを感じ取った飛蝗たちは、周次に食らいつくのを止めてそちらへ注意を向けた。


 風はやがて砂塵を纏い、雑草を呑み込んでいく。そしてそのまま、地に砂の渦が形成された。


 砂の渦は雑草だけでなく、小さな空き缶から大型テレビのような粗大ゴミまで、あらゆるモノを呑み込んでしまう。


 飛蝗たちもこれには危機感を覚えた。あの砂に呑み込まれては抜け出せなくなってしまうだろう。直ちに周次の元を離れ、上へ上へと飛び立っていく。


 中でも臆病な一匹は、群を抜いて真っ先に飛翔した。この怪異蟲バグバグの思考回路に"協調性"という概念は存在しない。己が命を最優先とし、他の個体がどうなろうと全く興味がない。


 自分が先頭を飛んでいるのだと分かり、この飛蝗は無事を確信した。そして次の瞬間には砂の渦に頭から突っ込んでいた――。


 怪異蟲バグバグの影響力というのは侮れず、今回のように同種の怪異蟲バグバグが多数群れれば、彼らの生息しやすいようにその環境が支配されてしまうことが稀にある。


 乾いた大地が湿地に変わることもあれば、建物並ぶ住宅街が森林に変わることさえあり得る。


 殺蟲隊はこの現象を環境支配テリトリーと呼んだ――。


 それまで飛蝗の生息しやすい草地と化していた路地裏だったが、今はもうそうではない。その環境は女によって塗り替えられた。


 足元を見下ろしても、頭上を見上げても、あるのは砂の渦。今しがた飛んでいった飛蝗たちも、もう既に上の砂に呑まれている。


 一度踏み入ってしまえばもう出られない。獲物をゆっくり確実に巣穴へと陥れる"蟻地獄"。これもまた、怪異蟲バグバグ環境支配テリトリーに他ならないのである。


「‥‥‥さっ、片付いたよ」


 女は全ての飛蝗を駆除してしまった。砂の渦は徐々に消え、雑草もなく、そこは元の静かな路地裏に戻った。初めと違うところがあるとすれば、散らかっていたごみまで全てなくなってすっきりしたことくらいである。周次はというと、砂埃の影響でずっとせていた。




 これは、虫が苦手な青年――蟹江周次を軸に、人間と怪異蟲バグバグとの壮絶な縄張り争いを描いた物語。

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