この上なく恵まれた男の物語

蜂蜜の里

フィリップ・ウェブスター

 フィリップ・ウェブスターは、アリス・ラ・トゥールの幼馴染だった。負けん気の強いアリスと一歳年下の内向的なフィリップは、母親がどちらもハイチからのフランス移民という共通点のせいか、あるいは近所に同じ年ごろの子どもがいなかったせいか、全く性格の異なる二人なのに不思議と馬が合い、姉弟のようにいつも一緒に過ごした。


 フィリップが十一歳となったある夕暮れ、昼間だけでなく夜もそばにいてほしいとアリスは言い、フィリップにこう伝えた。

「夜、誰にも見つからないように、二階の私の部屋まで木を伝って上がってきてね」

 それは命令とも懇願ともつかない調子だったが、フィリップにとって困惑はあっても断る選択肢は最初から存在しなかった。


 そうして彼女の部屋にたどり着いたフィリップに、アリスが嬉しそうに笑いかけた。


「フィリップ、あなたは十八歳になったら私と結婚するのよ、わかって?」

 決めつけるような言葉とともに、アリスは勢いよくフィリップの顔に自分の唇をぶつけた。

 呆然と、けれど心から込み上げてくる喜びを抱えながら立ち尽くすフィリップを見て、アリスはニッと笑みを浮かべた。






 やがて十八歳を迎えたフィリップは約束を果たすため、正式な礼儀作法に則りアリスの父親に結婚の許しを求めた。


 だが、アリスの母親がいつも優しく接してくれたのとは対照的に、アリスの父親とはこれがほとんど初めての会話だった。


「身分をわきまえろ!」


 フィリップは、アリスの父親がナポレオン時代に男爵に叙爵されたという噂を耳にしたことを思い出した。また、アリスの母親はアンシャン・レジーム時代以来の貴族の娘だ。

 その激怒した顔から、父親が誇り高い身分意識にとらわれている人間だということを、いやというほど知らされたのである。


 失意のフィリップ少年は大学を辞め、アメリカ陸軍養成学校ウェスト・ポイントに入学した。愛する女性のいる場所から少しでも離れるためだった。


 若いくせに口うるさいフィリップが煙たがられたのか、士官学校を卒業してフィリップが二十三歳となった時、遠い東インド(※)へ飛ばされることが決まった。


※現在のフィリピン。当時、スペインの植民地となっていた。


 他国の支配する国へ視察の名目で派遣されるということが、厄介払いであることは明白だった。


 愛する家族たちや、アリスとの永遠かもしれない別れ。

 出航の前の晩、フィリップはかつてない大胆な行動に出た。


 アリスに会いに、彼女の住むメリーランド州の家に忍び込んだのだ。


 幼い頃と同様に、赤楓の木を登ってたどり着いた、アリスの自室。

 そうして侵入者の姿を見つけたアリスがみるみるうちに瞳に涙を浮かべたのを見た瞬間、フィリップは彼女に深く口づけたのだった。

 アリスは、父親にいくら脅され宥めすかされようと、どんな男とも婚約することなく、ずっとフィリップを愛し続けてくれていた。そのことを知らされたフィリップは堪えきれず、一晩中彼女を抱きしめ続けた。

 

 共に東インドへ向かう約束を交わし、長い一夜の末に深い眠りにつくアリスの頬に心を込めてキスすると、来た時と同様の方法で家を後にした。


 そうしてフィリップは、ポトマック川に浮かぶ船に乗り込んだ。

 長い旅路となる。たとえ左遷だとしても、アメリカの、世界の平和のために貢献していこう。

 愛するアリスと共に!

 

 だが、待っても待っても彼女は現れず。そうして船が出航した、まさにその瞬間である。

 女性の金切り声が、その場にいた者たちの耳に微かに届いたのだった。


「フィリップ、フィリップ、行かないで!」

 愛馬に乗ったままアリスが泣き叫んでいる。いつも艶やかにまとめられていた髪はボサボサで、ドレスも荒れ放題だ。ほとんど着の身着のままで、馬でここまで駆けて来たことがありありとわかる姿だった。


「フィリップ行かないで、私、死んでしまう!」


 その時。アリスが本当に死んでしまうと、フィリップはそう思った。


「アリス!」

 フィリップも、出航し港から離れつつある船の上から懸命に手を伸ばす。


「アリス、いつか必ず君を迎えに行く。どうか、待っていてくれ!」


 だが、その約束が果たされるのは、気が遠くなるほど後のことだった。







 やっとの思いでたどり着いた東インドの地は、フィリップにとって初めて目にする異国の世界だった。

 鮮やかな緑の山々、黄金色に輝く稲穂、街を埋め尽くす活気。その全てが彼を魅了した。

 

 だが、その美しさの裏には深い影があった。貧困、不平等、そして植民地支配の重圧。


 任務をこなす日々の中、アリスとの約束を胸に奮闘するフィリップだったが、東インドの劣悪な郵便事情もあって連絡が中々取れず。

 到着から数年後、彼女が他の男性と結婚したという風の噂を耳にした。


 初恋は、絶頂で無惨に摘み取られてしまったのだった。


 その日から、フィリップは廃人のような生活に堕ちていった。目的を失い、酒に溺れ、何も手に付かない日々。そんな彼を見かねた現地のアメリカ人仲間の紹介で、彼は本国の許しを得て多国籍軍に研修として派遣されることとなった。


 山間の村で反乱が起こり、気の進まぬまま現地で活動を行っていたときだった。

 フィリップが声の方に目を向けると、木の下に佇む一人の少女が見えた。長い黒髪を風に靡かせ、瞳には揺るぎない光を宿している。


「あなたは、アメリカ将校ね」

 完璧な発音の英語でフィリップに語りかけた少女は、一歩踏み出した。警戒する兵士たちをよそに、彼女は微塵も怯む様子を見せない。

「スペイン人に、この地を奪う権利があると、本気で思っているの?」


 その言葉には非難が込められていたが、どこか冷静で理知的だった。彼女の声には、ただの怒りではないもの、理想と信念が込められていた。


「私たちは奪うために来たわけじゃない。平和と秩序を取り戻すためにここにいる」

 ジャスミンの瞳は、彼が抱える心の中の迷いをすべて見透かしているかのようで、フィリップはアリスのことを知ってから初めて人間らしい声を出した自分に驚いた。


「そう」

 少女は柔らかく微笑んだ。その微笑みには、フィリップがこれまで見てきたどんな笑顔とも違う、どこか慈しみのようなものがあった。

「なら、あなたに問うわ。力で支配するよりも、共に生きる方法を考えたことはある?」


 彼女の言葉はフィリップの胸に突き刺さった。

 その理想は非現実的にも思えたが、フィリップが無意識のうちに求めていたものだったのかもしれないと思えた。


 それから数日後、フィリップは少女と再び出会うことになる。彼女の存在は、フィリップにとって衝撃だった。彼女が受けた教育のレベルは、当時の東洋ではほとんど例を見ないほどのものであり、その知識は自由と平等への強い信念に裏打ちされていた。


 彼女の名は「丘の上のジャスミン」。わずか十八歳ながら、解放運動の象徴的存在だった。


「アメリカ人のあなたならわかるでしょう。人類は皆平等に生まれついたall men are created equal(※)。私たちは同じ人間なのよ」


※トーマス・ジェファーソンによるアメリカ独立宣言の有名な一節。ただし、この宣言が書いたジェファーソン自身も奴隷を所有していたという時代の矛盾や、当時の「平等」が白人男性に限定されていた事実があった。


 フィリップとジャスミンは、アメリカ陸軍の将校とアジア独立運動の中心的人物、まさに敵同士ともいえる立場にあった。

 だがジャスミンが持つ強い意志と魂の奥底で感じる共鳴、それがアリスとの絆と重なって見えたのはどういったわけか。


 けれどアリスへの思いも忘れるはずもなく、二人の関係は曖昧な状態が続いていた。ジャスミンは彼の心の中にある迷いを察していた様子で、彼女自身もまた自らの祖国への愛を一番に抱いていたためか。


 そんなある日、フィリップに新たな赴任先への異動が決まった。

「一緒に来てほしい」

 そう言い出せないまま、出発の日を迎えた。


「さようなら、体を大切にしてください」

 そう言って微笑むジャスミンに、フィリップも内心を隠し笑顔で別れを告げた。


 踵を返し、船の自室に向かった、その時である。


「フィリップ! 私も連れて行って!」


 駆け寄ったジャスミンが、フィリップをきつく抱きしめた。


 泣き叫ぶジャスミンを呆然と見つめたフィリップの脳裏に、かつて彼を追いかけてきたアリスの姿が、重なった。

 その記憶がフィリップの心に眠っていた決意を呼び覚ます。


「ジャスミン、君を一生離さない……!」

 二人の間にあった距離は消え去り、ついに彼らは結ばれた。


 夜明けの海を背に、二人は共に新しい航海へと出発した。彼らの先に広がる未来を信じながら、二人は静かに手を取り合った。


 愛する女性と正式に結ばれるため、フィリップはあらゆる人たちの周りを奔走した。ジャスミンは洗礼を受けてプロテスタントとなり、フィリップの正式な妻となることでアメリカ人となった。

 親しい人たちからの心からの祝福を受けながら出航したウェブスター夫妻のその後は、だが苦難の連続だった。


 誰もが高い見識の持ち主ではない。根深く頑迷な差別心にとらわれた者のなんと多かったことか。


 それでもフィリップにとってジャスミンはどこに出しても恥ずかしくない、できた妻だった。明るく麗しかった眼差しは厳しくなり、いつも遠いどこかを見つめているような様子だったが、出会った頃と変わらない女性のままだった。


 アジア中、そしてアフリカ各国やヨーロッパでの長い赴任生活を経てから、最後にたどり着いたアメリカで、ジャスミンは美しい女の子を産み落とした。その子にカミラと名付けた時、フィリップは人生の全てを手に入れた、と思った。


 東インドの情勢がきな臭くなり、恐ろしいニュースが耳に入ってきたのはそんな時のことだ。


 彼女の兄弟たちが、穏健派であったのにもかかわらず反体制派として獄中死したのである。


 兄弟たちの死をきっかけに、彼女が革命家の仲間たちから帰国を強く請われるようになったのを目の当たりにしたフィリップは、彼女の本当の思いを完全に理解した。


 彼女は全てを捨ててフィリップについてきてくれた。幸せを与えてくれた。何より、愛しい宝物を授けてくれた。

 今度はフィリップの番である。


「カミラは私に任せて、皆の元へ」


 そう告げたフィリップを、ジャスミンは何度も何度も叩き、泣き喚き、罵った。どんな思いであなたを愛してきたのか、知らないのか! と叫ぶジャスミンを抱きしめながら、私たちの宝物は責任を持って育てる、夫婦としての絆は決して切れることはないと何度も優しく伝え、ジャスミンは苦悩の末にフィリップと別れる決意をした。


 蒸気船に乗ったジャスミンに別れのキスをした時。

 腕に抱いていたカミラごと、フィリップを強く抱きしめたジャスミンが、フィリップの耳元にささやいた。


「どうか、アリスさんともう一度、結ばれて」

 その時の驚愕は、とても言葉にならなかった。


 アリスのことは忘れようにも忘れられなかった。彼女の近況を追い求める勇気さえ持てなかったほどに。


 アリスの存在をジャスミンが知っていたということ、そしてアリスとフィリップの絆も、ジャスミンは全て理解し守ってくれていたのである。


「アリスさんとはお義母さまに紹介されてから、ずっと文通をしていたの。ご結婚されたけど、数年後に離婚させられて、それからはずっとメリーランド州のご実家にいらっしゃるということ。それに、あなたをとても愛しているということを、全部包み隠さず教えてくれた」

 微笑んだジャスミンは美しかった。

 

 最愛の妻を見つめたフィリップは、あらゆる愛情を込めて彼女の額に優しく口づけた。

 神が、全ての愛が、彼女の今後を導くよう心から祈って。


「ジャスミン、愛している。何があっても君は一生俺の妻だ」

「私もよ。カミラを、カミラをお願いね……!」








 それからフィリップは、ペンシルベニア州に住む母を訪ねていき、アリスの話を聞いた。

 カミラを愛おしそうに抱きしめながら話してくれたアリスの人生は、想像通りに壮絶で波瀾万丈な、けれど誇り高い彼女らしいものだった。


 アリスの醜聞が届かない遠方の、有名な放蕩息子のもとに売り払われるように嫁いでいったこと。

 だが、没落寸前の大規模農園プランテーションを見かねて、女主人として以上の役割を果たし、立て直しに成功したことで夫の両親の信頼を勝ち取ったこと。

 そのことで夫の逆恨みを買い、結婚前の異性関係を知った夫が家から叩き出し、実家に戻る羽目になったが、身につけたノウハウを武器に父親の右腕的存在となり、母親のサポートもあり父親との和解を果たし、今では両親も亡くなり女一人でプランテーションを守っていること。

 ジャスミンとはアリスの母親の死後も親しくしていたフィリップの母親の家で偶然出会い、異国での生活に悩む中で思い余ったジャスミンがアリスに手紙を送ったことから始まり、不思議な関係性へと発展したこと。


「全部あなたが考えなしで無責任だったせいなのに。アリスはあなたと想いが通じたあの晩が、一番幸せな瞬間だったと微笑むのよ。ジャスミンも強い人だし、あなた、芯が強くて勝ち気な女性が好きだったのね」

 そう母が笑った時。

 フィリップは何があっても、例えアリスに跪いて足先にキスをしてでも、彼女の人生を取り戻そうと、そう誓った。


 アリスの自宅を訪れたフィリップを、アリスはまるで飛びつくように抱きしめた。

すぐに居間へ案内したアリスは、使用人が入れたお茶を飲みながら、家族とは全員死別したが家の者や旧知の弁護士の力も借りて、日々充実した時間をおくっていることなどを、瞳をきらきらと輝かせながらフィリップに語った。その姿に、フィリップは何度目かわからないほどの恋に今一度落ちたのだった。


 彼女の右手を推し戴くように自分の額に押し当て、どうか結婚してほしいと懇願すると。

 アリスは困ったような笑顔を浮かべた。


「フィリップ、大好きよ。あなたの幸せを心から祈ってる。でも、もうそれは恋じゃないのよ。遅すぎる」

 考えてみれば当たり前の話だと、フィリップの心は絶望感に包まれた。

「……それでもいい! 私は今でも君を愛している。どうか、君の手で私を幸せにしてくれないか」

 そう告げると。長いこと考え込んだアリスから、思いがけないことを伝えられた。


 あなたの娘さんに会わせて欲しい、と。







 そうしてカミラとアリスを初めて会わせた時、まだ一歳にもならなかったのに、

「その時のことをはっきりと覚えている」

 と後にカミラは語る。


「私の顔を覗き込んだ時、はっとしてから不意にすごく優しい顔になったの。それから乳母ナナがお母さまに私を手渡して、私を抱いてくれた瞬間に。この人ならきっと私を全てから守ってくれるって、そう思ったわ」


 その時のことをアリスは結婚直後に

「カミラが可愛く思えなかったら、あなたのプロポーズを断ろうと思ってたのよ」

 とけらけら笑ってフィリップに告げた。けれどカミラへの本能的ともいえるほどの愛情がわいたことで、フィリップとの子どもも産みたいと自然に思えた、と。






「ふーん。それじゃあパパにとって、ママってどんな人だったの?」


 七歳になったアニーの言葉に、フィリップは考え込んだ。


「……本当に綺麗な人だった。それに勇敢な女性だったよ。ジャスミンもだが、私は女性に恵まれている。もちろんお前たちもだよ」

 そう言って、フィリップはカミラとアニーの頬にキスをした。


 四十を超えた年齢で、危険も覚悟の上でアニーという宝物をこの世に生み落とした女性。


「そうね。アニー、あなたを見ているとお母さまを思い出すの」


 カミラの言葉に、アニーはえへへ、とうれしそうに笑った。


 魂の器に注がれた愛はやがて溢れ、周囲の器をも満たしていく。

 だとすれば、カミラが日々アニーへ与える深い愛情は、間違いなくアリスから与えられたものだった。


「アリスを、お母さまたちのように立派な女性に育てたいと心から思っているの」

 以前フィリップに伝えられたカミラのその言葉に、彼は微笑んだものだった。

「ありがとう、でも君もまだ子どもなんだよ。カミラの仕事は日々健やかに過ごして大きくなることだ」


 この子は異常だ、フィリップはその時はっきりとそう思った。

 まるで子どもを持つ若い母親のような眼差し、その慈愛。ジャスミンにも似ているが、次世代でさらなる進化を遂げているようだ、と最愛の娘たちを誇りに感じた。


 フィリップはアリスの最期の言葉をふと思い出した。

 

「カミラ、愛している。どうかアニーをお願いね……!」


 高齢出産と産褥熱で体が弱り、ついにアニーが四歳になるころに亡くなったアリス。

 それでも自分の愚かさでアリスやジャスミンの人生を壊したと責めるのはもうやめた。今はアリスの、そして遠くで生きるジャスミンの人生が満ち足りたものならば良いと、心からフィリップは思うのだ。


「アニー、あなた幸せ?」

 カミラの問いかけにアニーは瞳をぱちくりさせた。

「幸せとか、よくわかんないけど、いつも楽しいよ! カミラとパパは?」

 カミラはその答えに、幸せそうに微笑んだ。

「いつだって幸せよ。あなたがいるもの」

「……本当にそうだね。君たちの母親たちに出会えて、君たちがここに生きている。私は、幸せだ」


 フィリップはそう呟くように言って、二人を抱き寄せて抱きしめたのだった。

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