この上なく幸福な男の物語
蜂蜜の里
フィリップ・ウェブスター
フィリップ・ウェブスターは、アリス・ラ・トゥールの幼馴染だった。負けん気の強いアリスと一歳年下の内向的なフィリップは、ハイチからのフランス移民の子という共通点のせいか、あるいは近所に同じ年ごろの子どもがいなかったせいか、全く性格の異なる二人なのに不思議と馬が合い、姉弟のようにいつも一緒に過ごした。
フィリップはアリスを心から愛していた。明るく、時にわがままなアリスは、フィリップの心の一番大切な場所に存在し続けた。
その思いを抑えられなくなったフィリップは、自身が十八歳となった際アリスの父親に求婚を申し出たのだが。
「身分をわきまえろ!」
との一言で叩き潰されてしまったのである。
失意のフィリップ少年は大学を辞め、アメリカ
だが、参謀としての才能を認められたのか、あるいは若いくせに口うるさいフィリップが煙たがられたのか。フィリップが二十三歳となった時に遠い東インドへ飛ばされることが決まった。
愛する家族たちや、アリスとの永遠かもしれない別れ。
出航の前の晩、フィリップは実に彼らしくないことをした。
アリスに会いに、彼女の住むメリーランド州の家に忍び込んだのだ。
勝手知ったるアリスの実家、その二階に彼女の部屋はあった。
そうして侵入者の姿を見つけたアリスがみるみるうちに瞳に涙を浮かべたのを見た瞬間、フィリップは彼女に深く口づけたのだった。
アリスは、父親にいくら脅され宥めすかされようと、どんな男とも婚約することなく、ずっとフィリップを愛し続けてくれていた。そのことを知らされたフィリップは堪えきれず、一晩中彼女を抱きしめ続けた。
これで、遠いアジアへ旅立つことができる。アリス、どうか俺のことは忘れて、幸せに。
明け方、すうすうと眠るアリスの頬に心を込めて口づけると、来た時と同じように窓のそばの木から降りて、家を後にした。
そうしてフィリップは、ポトマック川に浮かぶ船に乗り込んだ。長い旅路となる。アメリカの、世界の平和のために貢献する日々がいよいよ始まるのだ!
アリスに愛されていたことを知ったフィリップにとって、それは十分過ぎるほどの幸せだった。
これからも生きていける。自分はもう、大丈夫だ。
心からの確信だった。そうして船が波止場を出航した、まさにその瞬間である。
女性の金切り声が、その場にいた者たちの耳に微かに届いたのだった。
「フィリップ、フィリップ、行かないで!」
愛馬に乗ったままアリスが泣き叫んでいる。いつも艶やかにまとめられていた髪はボサボサで、ドレスも荒れ放題だ。ほとんど着の身着のままで、馬でここまで駆けて来たことがありありとわかる姿だった。
「フィリップ行かないで、私、死んでしまう! 」
その時。アリスが本当に死んでしまうと、フィリップはそう思った。
素直で一本気なアリス。そしてとても一途だった。
俺がそばについてやらなければ!
「アリス!」
フィリップも、出航し港から離れつつある船の上から懸命に手を伸ばした。だが遅すぎたのだ。
「アリス、いつか必ず君を迎えに行く。どうか、待っていてくれ!」
こうして恋の絶頂で引き離された二人は、互いに何度も送り合った手紙を受け取ることも叶わず。
そのうちに、フィリップは風の噂でアリスが結婚したことを耳にして、幼かった初恋は結ばれずに終わったのだった。
やっとの思いでたどり着いたアジアの国は、フィリップにとってまさに異郷だった。全てがもの珍しく、傷心のフィリップをも魅了した。
それなのに。そこにはフィリップも嫌というほど味わった不平等が、命の危機という形で存在していた。
しかもフィリップは、その命を脅かす側の人間となっていたのだ。その矛盾に、フィリップは苦しんだ。
そんな思いを抱える中、出会った東インド独立運動家の「岡の上のジャスミン」はまだ十六歳という若さの美しい少女で。
まるで幼い頃のアリスを思い起こさせる、頭が良く自分を持った正義感の強い人だった。
アメリカ陸軍の将校と、アジア独立運動の中心的人物。本来であれば敵同士にも等しい存在だ。
が、フィリップは彼女に魅了された。彼女はフィリップと、そしてアリスと同じ魂を持っていると、そう感じたのだ。
そしてその本能は全く正しかった。
そんな二人が愛し合うこととなったのは、運命の悪戯としか言いようがない。
フィリップが国際感覚と外交手腕を身につけたのはこの頃で、実質的な妻となったジャスミンに授けられた力だった。
伴侶と心に決めた人との満ち足りた日々。本当の豊かさとは何かを教えられた。
だが、東インドを離れねばならぬ日が訪れた。その時にフィリップは決意したのだ。もしもジャスミンが受け入れてくれるならば、彼女を何があっても決して手放さない、と。
ジャスミンは思い悩んだようだった。彼女にとって祖国とは自分自身である。その苦しみは自分の苦しみであり、決して捨てられないと思ったのも、無理もなかった。
そんな彼女を説得したのは、彼女の姉と弟だった。外側から国を支えるという生き方もあるはずだ、何よりジャスミンはフィリップを深く愛しているではないか、そう告げられたジャスミンは、やっとフィリップの腕に飛び込んできてくれた。
ジャスミンの家族、そしてジャスミン自身に決して返しきることのできない深い借りができた瞬間だった。
愛する女性と正式に結ばれるため、フィリップはあらゆる人たちの周りを奔走した。ジャスミンは洗礼を受けてプロテスタントとなり、フィリップの正式な妻となることでアメリカ人となった。
ジャスミンの家族や、同僚や上司からの心からの祝福を受けながら出航したウェブスター夫妻のその後は、だが苦難の連続だった。
誰もがジャスミンたちのように高い見識の持ち主ではない。頑迷で視野が狭く、しかもその理由を他者に求めた者の、なんと多かったことか。
それでもフィリップにとってジャスミンはどこに出しても恥ずかしくない、できた妻だった。明るく麗しかった眼差しは厳しくなり、いつも遠いどこかを見つめているような様子だったが、出会った頃と変わらず美しくエキゾチックな東洋のマドンナのままだった。
アジア中、そしてアフリカ各国やヨーロッパでの長い赴任生活を経てから、最後にたどり着いたアメリカで、ジャスミンは美しい女の子を産み落とした。その子にカミラと名付けた時、フィリップは人生の全てを手に入れた、と思った。
東インドの情勢がきな臭くなったのは、そんな時のことだ。
産後の肥立も順調で、だがクリーム色の肌の子を産んだことでますます社交界からの風当たりも強くなっていたにもかかわらず、そのようなことは一顧だにしなかった強い女性。少なくともフィリップの目にはそのように映っていた。だが祖国の惨状は勇敢なジャスミンをも苦しめた。
彼女は全てを捨ててフィリップについてきてくれた。幸せを与えてくれた。何より、愛しい宝物を授けてくれた。
今度はフィリップの番である。
「君を解放しよう」
そう告げたフィリップを、ジャスミンは何度も何度も叩き、泣き喚き、罵った。どんな思いであなたを愛してきたのか、知らないのか! と叫ぶジャスミンを抱きしめながら、私たちの宝物は責任を持って育てる、夫婦としての絆は決して切れることはないと何度も優しく伝え、革命家としての生き方を忘れることができなかったジャスミンは苦悩の末にフィリップと別れる決意をした。
蒸気船に乗ったジャスミンに別れのキスをした時。
腕に抱いていたカミラごと、フィリップをぎゅうと抱きしめたジャスミンが、フィリップの耳元にささやいた。
「どうか、アリスさんともう一度、結ばれて」
その時の驚愕は、とても言葉にならなかった。
アリスのことは忘れようにも忘れられなかった。彼女の近況を追い求める勇気さえ持てなかったほどに。
アリスの存在をジャスミンが知っていたということ、そしてアリスとフィリップの絆も、ジャスミンは全て理解し守ってくれていたのである。
「アリスさんとはお義母さまに紹介されてから、ずっと文通をしていたの。ご結婚されたけど、お子さんを産めずに離婚させられたということ、それからはずっとメリーランド州のご実家にいらっしゃるということ。それに、あなたをとても愛しているということを、全部包み隠さず教えてくれた。あなたは誰かに支えられないときっと生きていけないと思う」
あなたはとても弱い人だから、と微笑んだジャスミンは美しかった。
女たちが心弱い男を守るため、同盟を組んでいたのだと知ったフィリップは、ジャスミンを抱きしめ、あらゆる愛情を込めて彼女の額に優しく口づけた。
神が、全ての愛が、彼女の今後を導くよう心から祈って。
「ジャスミン、愛している。何があっても君は一生俺の妻だ」
「ええ、私もよ。カミラを、カミラをお願いね……!」
強くフィリップを抱きしめ、カミラに数え切れないほどのキスをしたあと。ジャスミンは自室へと駆けていった。
それは、おそらくは二人の永遠の別れとなる瞬間だった。
それからフィリップは、ペンシルベニア州に住む母を訪ねていき、アリスの話を聞いた。
カミラを愛おしそうに抱きしめながら話してくれたアリスの人生は、想像通りに壮絶で波瀾万丈な、けれど誇り高い彼女らしいものだった。
フィリップと関係を持ったことで、まともな縁談を望めないと父親に見放されて地元でも有名な放蕩息子のもとに売り払われるように嫁いでいったこと。
アリスを置物のように扱ったアリスの夫は結婚後も浮気三昧で、アリスは義母に「あなたが来たら、あの子も落ち着くと期待していたのに」と嫌味を言われる日々だったこと。
それでも離婚さえ許されずに数年間無為に過ごしたが、結局子どもができない理由をアリスに求められて、着の身着のままで家を叩き出されてしまい。
実家の厄介者として肩身狭い思いをしていたが、今では全員が他界し女主人となって財産を守っていること。
「全部あなたが考えなしで優柔不断だったせいなのに。アリスはあなたと想いが通じたあの晩が、一番の宝物と微笑むのよ。ジャスミンもアリスによく似ている」
あなた、ああいう芯が強くて勝ち気な女性が好きだったのね、と母が笑った時。
フィリップは何があっても、例えアリスに跪いて足先にキスをしてでも、彼女の人生を取り戻そうと、そう誓った。
「そりゃそうですよ。僕はお母さんの息子ですから。息子は母親によく似た女性に惹かれるものです」
と告げると、母は声をあげて笑った。
アリスの自宅を訪問したフィリップに、アリスは飛びつくようにして抱きついてくれた。
居間へ案内してくれたアリスは使用人の入れたお茶を飲みながら、家族とは全員死別したが家の者や旧知の弁護士の力も借りて、日々充実した時間をおくっていることなどを、瞳をきらきらさせながらフィリップに語った。その姿に、フィリップは何度目かわからないほどの恋に今一度落ちたのだった。
彼女の右手を推し戴くように自分の額に押し当て、どうか結婚してほしいと懇願すると。
アリスは困ったような笑顔を浮かべた。
「フィリップ、大好きよ。あなたの幸せを心から祈ってる。でも、もうそれは恋じゃないのよ。遅すぎる」
考えてみれば当たり前の話だと、フィリップの心は絶望感におおわれた。
「……それでもいい! 私は今でも君を愛している。どうか、君の手で私を幸せにしてくれないか」
そう告げると。長いこと考え込んだアリスから、思いがけないことを伝えられた。
あなたの娘さんに会わせて欲しい、と。
そうしてカミラとアリスを初めて会わせた時、カミラはまだ一歳になるかならないかの頃だったというのに。
その時のことをはっきりと覚えている、と後にカミラは語った。
「私の顔を覗き込んだ時、はっとしてから不意にすごく優しい顔になったの。それから
その時のことをアリスは結婚直後に
「カミラが可愛く思えなかったら、あなたのプロポーズを断ろうと思ってたのよ」
とけらけら笑ってフィリップに告げたそうだ。けれどカミラへの本能的ともいえるほどの愛情がわいたことで、フィリップとの子どもも産みたいと自然に思えた、と。
「ふーん。それじゃあパパにとって、ママってどんな人だったの?」
七歳になったアニーの言葉に、フィリップは考え込んだ。
「……本当に綺麗な人だった。それに勇敢な女性だったよ。ジャスミンもだが、私は女性に恵まれている。もちろんお前たちもだよ」
そう言って、フィリップはカミラとアニーの頬にキスをした。
「そうね。アニー、あなたを見ているとお母さまを思い出すの」
カミラの言葉に、アニーはえへへ、とうれしそうに笑った。
愛とは、与えられた分だけその魂に刻まみこまれ、同じ分だけ他者へと注がれる。
だとすれば、カミラの心の中からあふれるほどのアニーへの愛は、間違いなく義母のアリスから与えられたものだった。
この宝物を、カミラの母親たちのように立派な女性に育てることはできるだろうか。まるで子どもを持つ若い母親のようなことを、齢わずか十歳の少女は考えた。
「カミラ、愛している。どうかアニーをお願いね……!」
高齢出産と産褥熱で体が弱り、ついにアニーが四歳になるころに儚く散って行ったアリス。それでもアリスの、そして遠くで生きるジャスミンの人生が満ち足りたものだったならば良いと、心からカミラは思う。
幸せは、自分の心の中に見つけるものだから。
「アニー、あなた幸せ?」
カミラの問いかけにアニーは瞳をぱちくりさせた。
「幸せって、よくわかんないけど、いつも楽しいよ! カミラとパパは?」
カミラはその答えに、幸せそうに微笑んだ。
「いつだって幸せよ。あなたがいるもの」
「……本当にそうだね。お前たちさえいれば、もう何もいらない」
フィリップはそう呟くように言って、二人を抱き寄せて抱きしめたのだった。
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