第8話 閑話 凜風という女・2(皇帝・梓宸視点)
そして、現在。
俺は死を覚悟していた。
皇帝になった後、五年。俺は凜風を迎えに行けていないのだ。
言い訳するなら政情を安定させるためとか、先に有力貴族の娘と後継ぎを作らなきゃいけないとかの理由があった。安定した政局と、しっかりした血統と権力に保護された跡取り。この二つを軽んじる皇帝など、皇帝である資格はないと俺は思う。
凜風は頭がいいから、こちらの事情も理解してくれるだろう。
理解した上で、ぶん殴ってくるだろう。
容赦なく。昔みたいなじゃれ合いの一環としてではなく。本気の怒りを込めて。
ちなみに凜風はあの美貌のせいで昔から誘拐目的の事件に巻き込まれることも多く、荒事も相応に経験しているわけであり……。おふざけ半分ではない暴力を振るってきた場合どうなるかというと……。
「……ほんとに殺されるかもしれん」
「なら諦めればいいだろう? こちらとしても平民の女を後宮に迎え入れたくはない」
宰相であり親友でもある
平民の女が後宮に入り、皇帝陛下の寵愛を受け、子供を産む。市井の人間が好みそうな物語だが、混乱を巻き起こすのは必至。有力貴族との折衝も行う宰相としては諦めてほしいのだろう。
だが、維の提案はもちろん却下だ。何のために皇帝になったと思っているんだ。
「先帝陛下の暗愚政治を正すため。重税に苦しむ民を救うため。だろう?」
「……うむ」
維の言葉に頷く俺。皇帝を目指すきっかけは間違いなく凜風だが、皇帝になるために学んでいくうちにこの国を変えなければと思うようになった。そのような志があったからこそ最年少で科挙に合格した維や、名将として名高い孫武が協力してくれたのだ。
「でもそれとこれとは話が別だ! やっと凜風を口説ける地位を手に入れたのだぞ! 今さら諦められるか!」
俺が絶叫すると維は呆れたように首を横に振り、維の近くで話を聞いていた孫武もどことなく冷たい声を出した。
「情けない男だなぁ、おい。惚れた女がいるならグダグダと理由を並べ立てる前にまず迎えに行けよ。つーか『ただの梓宸』だったときに娶ればよかっただろうが」
「お前は凜風に会ったことがないからそんなことが言えるんだ! あの美貌! あの家柄! そして頭の良さ! ただの荷運びの男が釣り合えるはずがないだろう!? それこそ皇帝にでもならなければ――」
「そんな理由で12年も待たせんだから世話ねぇよな」
「ぐっ」
孫武は基本的に豪放磊落な人物なのだが、この件については辛辣だ。筋や義理を重んじる彼にとって、女を待たせ続けた俺は許せないのだろう。
「まぁ、梓宸がヘタレなのは今に始まったことではないから別にいいとしてだ」
切って捨ててから維は紙束を取り出した。この国ではほとんどの書類に竹簡を使用しているが、皇帝に関するものや重要な書類には紙も利用され始めている。
つまり、宰相である維にとって、これから報告することはかなり重要な案件だということだ。
「許凜風という庶民についてはこちらでも調べさせてもらった」
「…………」
妃に迎え入れようというのだから宰相として当然の行動だ。不穏分子を後宮に入れるわけにはいかないからな。ただでさえ太妃(先帝の妃)のせいでゴタゴタしているのだから……。
しかし、大丈夫だろうか? あんなにも美しく聡明な凜風のことを調べたら、維も惚れてしまうのではないだろうか!?
俺の心配などどこ吹く風で維は報告を始める。
「許凜風。27歳。かつての南朝貴族『許家』の末裔とされるが、事実かどうかまでは調べられなかった。そもそも南朝が滅んでいるしな。少なくとも今は平民だ」
そういえば、凜風の口から貴族の血を引いているという話は聞いたことがないな。親や周りの人間がそういう風に扱っていただけで。
凜風ならば嘘か本当かくらい
……いや、彼女の場合は事実だったとしても「どうでもいいわよ」で済ませてしまいそうだしなぁ……。
俺が内心で苦笑していると維が眼鏡を押し上げた。
「しかし現在の許家は鉄の専売権を有するほどの商家だ。事実などどうでもいいし、そういうことにしておいた方が
「…………」
たとえ僭称だったとしても事実として扱う。そうすれば俺は「南朝貴族の末裔を娶った」ことになり権勢の強化に繋がると。
しかも実家は大商家であるから資金援助なども期待できる。歴史と権威だけはあるのに金はない貴族連中に比べてなんと役に立つことか……と、維は言いたいのだろう。
「維。お前は恐い男だなぁ」
「すぐに理解できる梓宸に言われたくはない」
鼻を鳴らしてから維は紙を一枚めくった。
「その許凜風だが、二年ほど前に
「……はい?」
「銀髪。銀色の髪」
「……なんで? 凜風の髪はそれはそれは美しい黒髪なんだぞ?」
「私に聞かれても知るか。まぁ仙人になったというし、そういうこともあるのだろう」
「……なんだって?」
「仙人」
「……凜風が?」
「報告ではそうなっているな。自称しているのはあくまで神仙術士だが」
「ふ、不老不死の仙薬とか作っているのか? あの凜風が? 詐欺を働いた方術師をぶん殴っていた凜風が?」
「ぶん殴……。いいや。方術師を名乗る詐欺師とは違い、真の尊敬に値する術を行使する。とは、御爺様の言だ」
「お、御爺様とは、張のじいさんか? 『三代宰相』の?」
「許凜風には腰痛の治療で大変お世話になっているそうだ。こちらとしては怪しげな術士との交流は自重して欲しいのだが、効果はあるようなので悩みどころだな」
「いやいやなんで帝都にいるあのじいさんが、地元にいるはずの凜風から治療を受けられるんだ? もしかして凜風は帝都に住んでいるのか? ならすぐ会いに行かないと――」
「落ち着け。彼女は帝都にはいない。『縮地』という方術――いや、神仙術か。それで帝都まで移動できるらしい」
「……わけがわからん」
縮地とは昔どこかで聞いたことがある。大地と大地を繋げて一瞬で移動する秘術、だったか? にわかには信じがたいし、そんな与太話を信じるほどあのじいさんは耄碌していないと思うのだが……。まぁ、うん、凜風なら使えてもおかしくはないか。だって凜風だし。
「ここから先は梓宸にとって辛い報告かもしれないが」
「うん?」
「許凜風はよく欧羅人の若い男性と会っているそうだ。商取引とのことだが、密室での二人きりの会談だからどこまで本当かは分からないな。ちなみに顔は良いらしい」
「…………」
「そして、実家の屋敷にはよく白髪の若い男性が出入りしている。その立ち振る舞いからして護衛のようだし、許家の娘なのだから専属の護衛がついていることは何ら不思議はないが……若い男と女が近くにいればどうなるか分かったものではないな。しかも常に側にいて自分を守ってくれる男だ。12年も放っておいた男と違ってな」
「…………………」
よし、地元に帰ろう。凜風の元へ帰ろう。
立ち上がった俺を孫武が羽交い締めにした。
「まぁまて坊主。お前の地元まで馬車で何日かかると思っているんだ?」
「早馬ならすぐにつく!」
何とか孫武を振りほどこうとする俺に対して、維が呆れたようにため息をついた。
「梓宸。御爺様が再会のための場を整えてくださるそうだから、今しばらく待て」
暢気なことを言う維に向けて俺は腕を振り払った。
「待てるか! 昔から無自覚に! 男女問わず
「……孫武。いくら旧友とはいえ、皇帝陛下を裸絞めするな。気絶させるな」
「すまん、気持ち悪くてうざかったからつい」
「…………、……気持ちは分かるが、自重してくれ」
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